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【読書コラム】わたしを離さないで - 何気ない一言に込められた本質

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はノーベル賞作家のカズオ・イシグロさんの『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)。この小説についてのコラムは一年くらい前に書いているんですが(以下のリンク参照)、前回とはまたちょっと違う視点から考えたことを書いていきます。

kinjikamizaki.hatenablog.com



今回も前回同様にネタバレ全開で行くので、未読の方はお気をつけてください。特にこの小説は事前情報なしで読むことで最大限魅力を感じられる本だと思うので、未読の方はまずは小説を読んでみることを強く推奨します。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
冒頭に書いた通り、今回はネタバレ全開です。未読の方の楽しみを奪ってしまうの可能性が高いので、まだ読んだことのない方はご注意ください。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムを書こうと思ったモチベーションは、小説の終盤部に出てくる一文に人間の真理のようなものを感じたことです。はじめに読んだ時には特に気にならなかったものの、改めてパラパラと読み直した時にその一文の意味するところに気づき、いつか書きたいなぁと思っていました。

僕が引っかかった具体的な箇所はまた後ほど明らかにしていこうと思いますが、今回のコラムで僕が言いたいことは「自分から遠い人への想像力と近い人の相対化」が重要だということです。カズオ・イシグロがキャラクターに託した一言に見える人間のどうしようもなさ。それを一つの教訓として何を学べるのだろうか?それが今回の記事のメインテーマとなります。

それでは、詳しく見ていきましょう。

何気ない一言に込められた本質

今回のコラムは既読の方を読者として想定しているので、あらすじについての解説は割愛します。あらすじは、冒頭にリンクを貼っている以前のコラムに多少書いているので、もし気になる方はそちらをまずご覧いただければと思います。

問題の箇所は、キャスとトミーがマダムの家を訪れたシーン、エミリ先生とキャスとの会話の中の一文です。ヘールシャムの真実や、クローン達に対する世間の風当たりの厳しさを聞かされた二人。クローン人間が迫害されている理由に関するキャスの疑問に答える形でエミリ先生が発した言葉…

『癌は治るものと知ってしまった人に、どうやって忘れろと言えます?不治の病だった時代に戻ってくださいと言えます?そう、逆戻りはありえないのです。あなた方の存在を知って少しは気がとがめても、それより自分の子供が、配偶者が、親が、友人が、癌や運動ニューロン病や心臓病で死なないことのほうが大事なのです。』

ここです。悲痛の叫びとも言えるようなこの鬼気迫るセリフ。始めた読んだときから印象的な文章でしたが、再読した際にこの文章に込められた一つの思いを理解し、僕はハッとしました。

それは最後の部分です。「自分の子供が、配偶者が、親が、友人が、癌や運動ニューロン病や心臓病で死なないことのほうが大事なのです。」。

お気づきになったでしょうか?



そう、守るべき対象に「自分」が入っていないんです。自分の子供や、配偶者や、親や、友人が死なないことが大事なのであって、自分が死なないことが大事なわけではない。

つまり、どういうことでしょうか?



それは、人は、自分のためではなく、むしろ他人のために残酷なことをしてしまうという事実です。

僕はこれは人間の本質を突いていると思っています。筆者であるカズオ・イシグロがどこまで考えていたかはわかりませんが、おそらくそれは意識して書いたんじゃないかなと思います。このことに気づいたとき、改めてカズオ・イシグロがすごい作家であると思い知らされました。

ミラーニューロンの社会的役割

さて、この一文に込められたであろう思いから思索を進めて行きましょう。そもそも、我々人間はなぜ自分の身内が苦しむのに耐えられないのでしょうか。たとえ自分には痛みを感じていなくても、苦しい境遇に立たされた人を見ていると、自らも辛い気持ちになってしまうという経験は誰にでもあるでしょう。言うまでもなく、この事実を語る上でのキーワードの一つは「共感」です。この共感を司ると考えられている人間の器官が「ミラーニューロン」であることはご承知の通りです(もしご存知ないかたは以下のWikipediaの記事をご覧ください)。

ミラーニューロン - Wikipedia

もう少し想像を膨らませてみましょう。この小説に示唆されているように、自分の身近に癌などの不治の病を抱えた人がいたとき、人はとても辛い気持ちになってしまいます。それこそ、そのためにクローン人間を培養すると言う残酷なこともできてしまうほどの辛さです。そこまでのしんどさはどこからくるのだろうか?それを考えたとき、僕なりに思うのは「自分には何もできない」という無力感ではないかということです。

言うまでもなく、人は自分の存在価値や存在意味に対して非常に神経質です。自分が社会的に認められなかったり、誰からも必要とされないのではないかという不安で落ち込んだ経験のある方も多いでしょう。そう考えたとき、目の前に苦しんでいる人がいるのに自分には何もできない(=自分には価値がない)ことは自尊心を大きく傷つけるであろうことは間違いないでしょう。共感による苦痛の伝播に加えて、自尊心も傷つくというダブルパンチを受けている状態です。

これを逆手に考えてみると、共感(=ミラーニューロン)の社会的な意味づけも少し見えてくるように思います。つまり、共感によって痛みを分かち合いうことで、「苦痛の要因の排除」によって自分の価値を証明しようというインセンティブが働くということです。こうして書くと少し浅ましく見えるかもしれませんが、このインセンティブがお互いの思いやり・助け合いを促進し、社会を構成することができるのではないか、そういう風に考えることができるというわけです。

言い換えればこういうことです。共感によって個人の尊厳・自己防衛本能を駆動させ、社会全体の利益をもたらすのがミラーニューロンの社会的役割と言えるのではないか。ある意味では、共感とは個人的な利益と社会的な利益を調和させる仕組みと言ってもいいのかも知れません。

おそらく、それが長く行われる中で脳の報酬系もそれに適合するようになった(そういう報酬系を持っている人が生き残ってきた)のではないかと思います。おそらく、利他的な行動で人がいい気持ちになれるのはそのためなのでしょう。

共感システムの機能不全

さて、ここまでは共感というシステムがどのような役割を持つかについて考えてみました。ここで当初の問題に戻って考えてみましょう。つまり、共感によって人の痛みを共有しながら、自分にはどうすることもできないというシチュエーションです。言い換えれば、共感によって駆動された個人の尊厳・自己防衛本能が行き場をなくしてしまったとき。共感による社会維持システムが機能不全を起こしたとき。

たとえ微力でしかなかったとしても、他人の苦痛を和らげるために何かできることがあれば、それは個人の価値を証明することに役に立つことでしょう。おそらくですが、なんの科学的根拠もない代替医療に走ってしまう人の心理もここにあるのだと思います。身内の苦痛を目の前にして、自分が何もできないという無力感に耐えられないからこそ、何かしたいという思いが人を狂わせてしまう。それが本当に当人の役に立つかどうかはもはや問題ではない…

身近な人の苦しみを目の当たりにして自分は何もできない、さらには自分は価値もない人間ではないか?という不安を突きつけられた人がどこに向かうのか。それが手段を選ばない解決法です。この小説で言うならば、クローン人間を使うことで身内を病気から解放することにあたります。身内を助けるためにクローン人間を育て、臓器移植の材料とするのは、明らかに倫理の壁を越えていると言えるでしょう。

おそらく、一般的な倫理規範を超えてしまう理由は「他人のため」という意識でしょう。自分のために、というわがままで倫理の壁を越えられる人はそう多くはないはずです。そこまで露骨な身勝手ができるほど人間は強くないと思います(少なくとも、多くの人間にとっては)。

共感による苦痛の共有と自分には何もできないと言う個人の尊厳の毀損、その二重の負荷に耐えられなったとき、「他人のため」の行動を促す脳の報酬系が残酷な行為を後押ししてしまった。このことこそが、冒頭に書いたエミリ先生の言葉に現れている本質ではないかと思います。

心理学者のダン・アリエリーという方の「ずる - 嘘とごまかしの行動経済学(早川書房)」という書籍において、人が不正を行う際の心理を解説しています。多様な実験をもとにしたデータからこの本で提唱しているのは「つじつま合わせ仮説」というもの。それは、人が不正をするかどうかは、不正に利益を得たいという欲求と道徳的な自己イメージを保ちたいという欲求の綱引きによって決まるというものです。

実際に、この本に記載されている実験結果から言えることは、人は利他的な目的だとより不正を行いやすいというものです。もちろん、これは一つの仮説でしかないものの、今回議論している内容と整合しているように見えます。

距離依存性の弊害

問題は、なぜ身近な人には共感するのに、それと同じだけの共感をクローン人間に寄せられなかったのかということです。色々な理由があるとは思いますが、それはやはり対象との距離間によるのではないかと思います。ご自身のことを振り返ってみてもわかると思いますが、共感性は明らかに対象とのあらゆる意味での距離に依存します。

共感という感情の仕組みは、自分との物理的距離が近いほど、自分と属性が似ているほど、具体的な情報を知っているほど強くなります。また、逆もまた然りで、距離が遠いほど、属性が違うほど、知っている情報が抽象的であるほど弱くなるのは明らかです。いつも一緒に暮らしている家族と、地球の反対側で暮らしている人種も習慣も年代も違う人に対して同じように共感するのは不可能でしょう。

人間は数字など形で情報化してしまった人たちに共感するのは難しく、より具体的なエピソードや顔写真などによって共感が想起されやすい。最近のNPOなどは、貧困地域に対する寄付を募る際、このような人間の心理をうまく利用していることが知られます。「〇〇万人の子供たちが…」とか「あと〇〇億円必要です」とか言うよりも、「この地域に暮らす〇〇ちゃんは非常に貧しい家に生まれ、幼い頃から働かなくてはいけませんでした。それでも、将来は〇〇になると言う夢を持っていて、働いた後も夜遅くまで勉強しています」等のエピソードを並べたほうが、人の共感を得やすく、募金や寄付を集めやすいのです。

少し話がそれたので、物語に視点を戻しましょう。繰り返しになりますが、人は自分に近しいほど共感を得やすく、遠い存在ほど共感はしにくいものです。この小説で言うならば、クローン人間は確かに生物学的・科学的には人間と変わりませんが、人間が行う意味づけは全く異なることは明らかです。たとえ、それを構成しているタンパク質構成や栄養成分、物理学的特性が全く同じであったとしても、「人工的に」生まれた人間は「自然に」生まれた人間とは全くの別物であるというのは、多くの人間にとってしっくりくる考え方であると言えます。

そういう意味では、クローン人間は身近な人を助けるための生贄としては非常に都合がよかったのだと思います。「生まれ方」という物語が違うことを理由にミラーニューロンをマスキングすることで罪悪感を減らし、共感できる身近な人の苦痛を和らげるためのスケープゴートにすることができる。

確かに、そこに住む人々にとっては都合がよかったかもしれませんが、それが本当が誠実な態度とはとても言えないであろうことは、この小説を読んだ人なら理解できるはずです。もちろん、小説の感じ方は人それぞれではありますが、この世界観の理不尽さと、「駒」としてしか生きられないトミーやキャスに対してやりきれない感情を抱いた方が多いのではないかと思います。

とはいえ、「どうすれば良かったのか?」と問われて明確な回答ができる人は少ないでしょう。僕自身もこの世界に住んでいたとしたら「何が出来ただろうか?」と考えるとあまり胸を張って答えられる自信はありません。もしかしたら、身内が不治の病に犯された時、クローン人間による臓器移植を嬉々として受け入れていたかも知れません。ただ、「何が問題だったのか?」という問いに対しては、ある程度回答を与えることはできます。それは、これまでの思索から明らかなように、共感というシステムの距離依存性です。

もちろん、人間に備わったあらゆるバイアス(偏見)に対して言えることですが、それが人間の脳に備わったシステムである以上、完全に排除することが不可能だというのは言うまでもありません。「自分には偏見がない」と言っている人がいたら、おそらくその人は偏見にまみれた世の中の見方をしているのだと思います。それでも、そのバイアスに対する知識を持っておくことで、ある程度はその影響を減らせるはずです。

具体的な戦略は、人間の認知傾向に対して逆張りをすることです。人間の認知傾向が、身近なことに共感しやすく、遠いことに共感しにくいので有れば、その逆の思考をすることで多少はバイアスをキャンセルできるのではないかと言うことです。つまり、身近なこと・臨場感のあることは数値的に捉え、相対化・客観的に考えてみること。逆に遠くの人・言葉でしか理解できない人のことはできるだけ具体的にイメージすること。それがバイアスに対抗するための方策です。

遠くの人を具体的にイメージするというのは、小説や映画などの物語が果たす役割の一つでもあるのかもしれません。例えば海外の人が考えることを直接想像するのは難しくても、小説や映画の世界なら多少は想像の幅を広げられるはずです。この小説もまさに、クローン人間という架空の存在の視点を想像する上で役に立つでしょう。

もちろん、想像したからと言って他人の気持ちを知ることはできませんし、もしかしたら見当違いの可能性も十分あります。これはこのブログで何度も言っていることですが、本当の意味で他者とわかり合うことは原理的にできません。そこはもう諦めるしかないですが、分かり合えないからこそ、分かり合えるような努力することは重要だと思います。

残念ながら人間の脳は合理的ではありません。日常生活をなんとかする分にはうまくできているのは確かですが、特殊な状況においてはかなりめちゃくちゃな優先順位で行動し、身内を助けるためには部外者に対して恐ろしく残酷なことができてしまう存在です。それは仕方がないと開き直るのは一つの考え方かも知れませんが、それによって悲劇が演じられてきたのが人間の歴史であり、できればそういう悲劇は少しでも減らしたいのが僕の個人的な思いです。

そういう意味でも、人間の脳が合理的でない以上、極力合理的に考えられるように努力することは必要だと感じています。それが冒頭に書いた「自分から遠い人への想像力と近い人の相対化」が重要だという言葉の意味です。それは労力が必要なことかも知れないし、どんなに心がけても完璧にできることではないのは間違いありません。しかしそれでも、少しでも悲劇が起こらないように努力したいというのが僕の率直な気持ちです。

まとめ

今回はカズオ・イシグロさんの「わたしを離さないで」を読んで考えたことを書いてみました。この本についてのコラムは2回目ですが、やはり色々と考えがいのある小説だなと改めて感じました。読み終わった時点では「やばい」しか出てこないタイプの本でしたが(笑)、こうして色々と書いてみることで自分の感じたことや、頭の中で渦巻いていたことが整理されてきている気はします。

同じ本で2回目のコラムを書くのは初めてでしたが、切り口さえ違えば特に違和感なくかけることがわかりました。同じ本でも読む時期や考える時期によって捉え方は変わってきますし、自分の考えの変遷を見える化するためにも、こうして時間を開けて複数回書いてみるのも悪くないかも知れないと感じました。

それでは、また!