たった一つの冴えた生き様

筋トレや読書などなど、自分のライフスタイルについてつらつらと。

【読書コラム】ザ・サークル - SNSは何をしたのか?

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はアメリカ作家デイヴ・エガース氏の小説「ザ・サークル」(早川書房)。エマ・ワトソン主演で映画化したことからも有名な小説で、非常に明確な形で現代のSNSを風刺した小説となっています。もはや日常と切り離せなくなりつつあるSNSですが、その付き合い方を考えさせられる小説であり、今回はSNSをメインテーマとしてコラムを書いていきたいと思います。

 

今回は物語の具体的な人物の行動についての言及は少なく、結末についても明確にはしないので、特にネタバレは気にしなくても大丈夫だと思います。

 

f:id:KinjiKamizaki:20190615234806j:plain


おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

冒頭に書いた通り、今回はネタバレについてはあまりナーバスになる必要はないと思います。どうしても気になる方は読むのを控えていただくのがいいかと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のサブタイトルは「SNSは何をしたか?」です。冒頭に書いた通り、SNSはもはや私たちの生活とは切っても切れないものになりつつあります。今回は、そんなSNSが我々の生活や人間関係をどのように変えたのか?という側面から考えてみたいと思います。

 

その結論を一言で言うと「価値間の壁の破壊」です。物理的な制約や、コミュニケーションチャンネルの問題で、それまで互いに知ることのなかった多様な価値観を白日のもとに晒したことが最も大きな変化なのだと思いました。そして、それこそが今我々が直面している生きづらさの理由の一つではないかと考えます。

 

それでは、詳細を見てきましょう。

 

本の内容

主人公は若き女性・メイ。友人であるアニーの紹介で巨大IT企業「サークル」に入社するところから物語は始まります。ソーシャルメディアへの積極的な参加が評価される職場であり、初めはメイもその企業文化に戸惑いましたが、徐々に「サークル」内に溶け込んでいきます。

 

創造性溢れる同僚たちとのイベントや、細部まで行き届いた福利厚生を有するユートピア的な職場として描かれつつも、少しづつその歪みが露呈していくという小説です。

 

特に大きなテーマとなっているのが、情報のオープン化についてです。起こったことは全て周知されるべきという理念のもと、情報のオープン化が急速に推し進められます。政治家が情報を完全にオープンにすることで信頼を得るなど理解できる面もありますが、社会福祉や弱者救済という正義のもとに行われる情報公開への圧力に、少しの気持ち悪さも感じます。

 

キャラクターたちが主張している内容には理解できるし、清く正しい活動であるとも思いますが、なんとなく気持ち悪い。我々がSNSに感じる面白さと気持ち悪さをうまく描き出している小説だと思います。

 

SNS利用の問題点

やや批判的に語られることも多いですが、SNSには良い部分もたくさんあることはいうまでもありません。実際、現代人で全くSNSに触れていないという人はなかなかいないと思いますし、僕自身も使っていて便利・面白いと思うことが多々あります。情報を共有することで豊かな人生を送れるという側面は全く否定できないでしょう。それを過小評価するつもりはありません。

 

その断りを入れたうえで、SNS問題点について考えてみたいと思います。僕がSNSにおいて最も問題だと思うことが、炎上という名のリンチです。SNSにおける炎上について今更詳しく説明する必要はないでしょう。もちろん、炎上してしまう側に問題がある場合も多いですが、時に自殺に追い込むほどのリンチを行うことが真に正しい行為だとは思えません。

 

また、逆に周りに気を遣いすぎて何も発言できないと言った話もよく聞きます。プライベートな行動や意見を公開して、何か間違えたことを言ってしまうのではないかという不安や、それこそ炎上してしまったらどうしようという感情です。実際に個人のアカウントの発言を逐一確認されることは多くないと思いますし、自分が思っているほど他人は気にしていないというケースも多いと思いますが、どうしても気を遣ったりリアクションを過度に気にしてしまう、というのもまたSNSにおける問題点であると言えるでしょう。

 

こう言ったこともあり、全ての情報をオープン化しようというサークルの理想に対して、我々は首を傾げてしまうのだと思います。お互いにオープンにするからこそ後ろめたいことはしないし、良いことを共有することで新しいものが生み出せるという理想に理解を示す人は少なくないと思いますが、私生活の全てをSNSで共有したいという人は多くないはずです。

 

プライバシーという言葉に現れるように、我々にはどうしてもオープンにしたくない情報もあるわけです。

 

プライバシーという生存戦略

そもそも、なぜわれわれはプライバシーに拘るのでしょうか?

 

もちろんセキュリティ上の理由はあります。当たり前ですが、クレジットカードの番号を教える時には慎重になる必要がありますし、自分に危害を与える相手から隠れるために住所や職場を隠すというのはわかりやすい例です。

 

しかし、セキリティ上の問題はなくても、なんとなく恥ずかしいからその情報をあまり外に出したくない、ということも多いと思います。明確な理由があるわけではないですが、恥じらいから自分の趣味や嗜好・意見をさらけ出すことに抵抗を感じる方も多いでしょう。

 

プライバシーに拘る理由は「恥ずかしい」から、とまとめるのは簡単です。しかし、当然ですがこれは本質的な答えになっていません。そもそも、なぜ「恥ずかしい」という感情があるのかを考える必要があります。

 

それでは、我々が外に出すのは「恥ずかしい」と感じる情報とは具体的にどのようなものでしょうか?

ぱっと思いつくのが、自分の失敗や悪いことをしてしまったという汚点、また他人とは共有できないであろう趣味などです。オタク趣味がカミングアウトしやすくなったのは、汚点であるという意識が少なくなってきたことと、そこまで特殊な趣味ではないという認識が広がったためでしょう。

 

また、逆に自分が他人と比べてはるかに優秀な部分というのはカミングアウトしにくいものです。みんなが難しいというけど、自分にとってはそこまで難しいと感じないこともあると思います。しかし、たとえそう感じたとしても、自分にとっては簡単だと正直にいうことは難しいでしょう。テストですごく点数の良かった人が、なんとなくその点数を隠してしまうなどの例などはイメージしやすいと思います。

 

これらを元に、「恥」という感情の機能を考えるため、もし恥がなかったらどうなるかを考えてみましょう。自分の失敗や異質な趣味、汚点を恥ずかしげもなくみんなの前で話したら、どういったことがおこるでしょうか?

 

おそらく答えは単純で、推定される結果は集団から排除です。もちろん、そこまであからさまな反応だとは限りませんが、集団の人たちが少しづつその人から離れていくことは容易に想像できます。これは、ある人が集団の中で飛び抜けて優秀な場合も同じです。あまりに優秀な人は集団のメンバーにとって脅威になるため、排除される可能性が高いでしょう。良くも悪くも集団から逸脱したものをリンチするという行為は、人間の歴史の中で繰り返されてきたことです。

 

ものが溢れ、安全もかなりの部分確保された現代においては、集団からの排除は必ずしもそこまで重要ではありません。しかし、明日の食料が得られるかどうかわからない極限状態においては、集団からの排除は死に直結します。

 

危険な動物や敵対する人間が跋扈する森や草原で一人で暮らすことはできませんし、原始的な狩猟・農耕文化においては一人では食料にも有りつけません。つまり、当時にしてみれば、村八分にされることは今とは比べ物にならないくらい大きな脅威だったのだと想像できます。それを避けるために「恥」という感情を生み出したのではないか?というのが僕の考えです。

(『「恥」という感情を生み出した』という表現は正確ではなく、「恥」の感情をもつ人たちが生き残ってきたという方が多分正しいです。)

 

人間は現代に至るまで、集団内の基準でそこそこの能力を持ち、集団内で善とされている行為から逸脱しないように生きることが求められました。僕が主張しているのは、そこからの逸脱を表明しないためのインセンティブとして「恥」がある、という解釈です。

 

「恥ずかしいから」という理由で男の子の人形遊びを諭す親の行動の根底にあるのは、子どもが集団から孤立しないようにするという、親としての愛情であるとも言えるのではないでしょうか?(それが正しい行動かどうかは別として)

 

互いの弱点を秘匿して、集団内でのポジションを下げすぎないようにする。その反面、飛び抜けて優秀であることも秘匿して、集団の脅威にならないことをアピールする。こう言った集団内での生き残り戦略の結果うまれたのがプライバシーと言えるのだと思います。

 

SNSの本質

ここまで、なぜ人間がプライバシーが必要としてきたのかを考えてきました。そこからわかることは、集団からの逸脱をリンチすることや、集団からの逸脱を恐れて自分をさらけ出すことを恐れること自体はこれまでも存在したことだということです。炎上や抑圧は確かに辛いことですが、それ自体はSNSが出現するはるか昔からあったものだということです。そう考えると、人間のその感情自体はSNSによって生まれたものではありえません。

 

それでも、我々はSNSによって昔より息苦しさを感じるようになったようにも思います。我々は時に臆病とも言える程、物事に対して消極的になってしまいます。その源泉はなんなのでしょうか?

 

その理由こそ、冒頭に書いた「価値間の壁の破壊」にあると思うのです。SNSの出現により、今までは物理的にアクセスできなかった人たちと、頻繁に意見をかわすことができるようになりました。また、物理的に近くにいたとしても、あまり交流する機会のなかった違う社会的階層の人たちとの間で平然と意見が飛び交うようになりました。これが「価値間の壁の破壊」です。

 

例えば、バイト先での不適切な行為をTwitterにアップして炎上する高校生を考えてみましょう。学校の仲間内であれば悪ふざけで済まされた行動が、一般の人たちから見たらとても許される行為ではなく、非難や誹謗中傷の嵐が殺到してしまいました

 

ここまで一見してわかりやすい例だとピンと来ない方もいるかもしれません。別の例として鯨の肉の料理の写真をアップしたら捕鯨保護活動家から誹謗中傷された、というケースを考えてみると、価値間の壁の破壊の根の深さがわかると思います。バイト高校生のケースだと、ある程度悪いことをしている意識はあるかもしれませんが、このケースの場合は投稿者はそもそも悪いことをしている意識などなかったでしょう(一応明確にしておきますが、鯨を食べることが悪いかどうかは別問題ですし、ここでその良し悪しを判断するつもりはありません)。

 

もっと根が深いのが、以下のような事例です。女性の権利が制限されているイスラム国家(例えばサウジアラビア)に対して、自由主義国家の国民から非難が相次ぐという状況はいかがでしょうか?国家体制自体がイスラムの考えに則っている国に対して、別の国の国民がそれに口を出す権利は果たしてあるのでしょうか?

 

これらの問題は基本的に今まで交わらなかった価値観同士にコミュニケーションラインができたことによると考えられます。SNSによって、人々のアクセス範囲が自分の常識が通用しない場所へと一気に解放されてしまったのです。

 

こうなってくると問題になってくるのが、前章で議論した「恥」の概念です。今まではあくまでも自分の周りの常識だけを考えれば良く、そこで「善」とされている行為から逸脱せずにいればよかったわけです。

しかし、ここまでコミュニケーション範囲が広がってしまうと、もはや何が「善」なのかは誰にもわかりません。

 

世界を繋げるSNSでは、考慮すべき価値観があまりにも多すぎます。「なんの気なしに作ったデザインが、特定の宗教ではタブーとされているデザインだった。」「自分の周りに対して放った言葉が、全然意識していなかった相手を傷つけてしまった。」このようなケースを数えると枚挙にいとまがないです。

 

また、言葉尻を捉えて「ポリティカルコレクト」や「コンプライアンス」という正義の名の下に、誰かを袋叩きにすることだってできてしまいます。基本的には炎上の本質はこれです。

 

僕が考える「コンプライアンス」の実態は、「俺は/私はそれが気にくわない」という人が多いか少ないかという問題でしかないということです。そんな曖昧で気分に左右される基準で作られる「善」に配慮して発言することは簡単ではありません。だから、SNSで言葉を発信することに躊躇していまうのは、ある意味仕方がないことです。他人への価値観に対する配慮がある人ほど何も言えなくなってしまうのがSNSという場なのです。

 

これは人工知能論で出てくる「フレーム問題」に近く、解決は非常に難しいです。以前のコラムでも少し話題になりましたが、「フレーム問題」とは以下のようなものです。

 

『「全ての状況を想定するAI」を作ろうとすると、当然このAIは無限の事象を想定して行動を判断する必要がある。しかし、無限の可能性を処理するためには無限の計算時間がかかるので、結果としてAIは永遠に動き出さない』

 

人の数は無限ではないので、必ずしもこの問題をそのまま適用できるわけではありませんが、SNS上のジレンマは基本的にこれと同じ構造です。日本国内だけでも1億を超える価値観の全てを知ることはできないし、それを知ることができたとしてもその全てに配慮した発言をすることは事実上不可能です。

 

だからこそ、今後のSNSを語る上で、多様な価値観をどう捌くか、という課題は残り続けるのだと思います。SNSに限らず、個人が図らずとも繋がってしまった世界人類とどのように向き合っていくかはここしばらくの人類の論点なのでしょう。近年ダイバーシティ論が活発になされていることも、そのあたりが理由のような気がします。

 

 

悪い点にばかり目を向けた記事になりましたが、冒頭に書いた通り、SNSのポジティブな面を過小評価するつもりは全くありません。全く違う価値観の間の交流は面白いものですし、自分は持っていなかった価値観からの投稿を見てハッとさせられることもあります。また、創造性という側面から見ると、多様性は「正義」と言っていいくらいに重要です。画一的な集団より、多様な価値観を持った集団の方が創造性が高いことは、いまやいたるところで指摘されています。

 

そしてなにより、出生地という自分ではどうにも出来ない要素による人生の有利不利をかなりの部分緩和できる、という点は見逃せません。まだまだ国家間の格差是正は十分ではないとはいえ、途上国からでも先進国と同じ情報にアクセスできることは、人類の機会平等につながり、世界はいい方向に行くと思います。

 

こう言った良い面を維持しつつ、悪い面をいかに減らしていくかが今後の鍵になってくるのではないでしょうか。

 

 

 

 

今回はアメリカ小説「ザ・サークル」を読んで考えたことを書いてみました。情報のオープン化の是非という部分をキッカケに色々と試行錯誤しましたが、割とありきたりな結論に収まってしまったかなという気持ちはちょっとあります(汗)。それでも、読んでいる方がなにかを考えるきっかけになったなら幸いです。

  

それでは、また!

【読書コラム】一億総ツッコミ時代- 僕が「読書コラム」を書く理由

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は芸人のマキタスポーツさんによって書かれた『一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)。この本では、マキタスポーツさんがボケ・ツッコミという芸人らしい視点から現代日本に漂う閉塞感を考察し、その打開策を提案する本です。ユニークな視点ながらなかなか鋭いと思える主張が多く、僕の中での問題意識と合わせて、なかなか考えさせられる本でした。今回はこの本についてのコラムを書いていきたいと思います。

 

今回は特にネタバレを気にする必要はないと思います。

f:id:KinjiKamizaki:20190609121759j:plain


おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います、

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のコラムのテーマは「僕が『読書コラム』を書く理由」となっています。もう少し具体的にいうと、読書系のブログ等でよく使われる「書評」という表現を使わずに、「読書コラム」というまどろっこしい言葉を使っているのはなぜなのか?という点についての内容です。

 

その理由を端的にいうと、「自分の価値観やその変遷を吐露することが目的だから」です。もう少し突っ込んだ話をすると、目的という表現は正しくなく、「本を読み、考え、コラムを書くという一連のプロセスで自分が変わっていく感覚が面白く、そのプロセスで生み出されるのがこのコラムである」ということです。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

本の内容

この本で議論されている内容は、現代日本に漂う閉塞感の源泉を「ツッコミ」偏重の流れに求めるというものです。大衆がプチマスコミ化し、ツッコミという他罰的なコミュニケーションを行うことで、お互いに抑圧しあうという構造を生み出しているのではないかという主張です。

 

「ツッコミ高ボケ低」という印象的な言葉を使いながら、お笑いの上澄みだけを利用した他罰的なツッコミが蔓延る現代日本に苦言を呈しています。僕はどちらかというとツッコミの立場に回るケースが多いので、耳が痛い限りです(人を傷つけたり、萎縮させるようなツッコミは避けているつもりで

はありますが)。

 

そして、そんなツッコミ偏重の根底にあるのがメタ的な視点だと指摘します。自分を客観視して、自分に求められている役割を考えることに疲弊しているという考察や、評論家的な第三者の視点から物事を判断することに対して抱く違和感が書かれています。

 

その上でこの方が提案しているのがメタ思考からベタ思考への変革です。物事をメタ的に考えるのではなく、自分の感情に素直になって、やりたいことに夢中になることを推奨しています。そのためには、ベタな行動(同窓会を楽しんだり、季節のイベントに参加したり、恋愛話で盛り上がったり)がヒントになるのではないかというのが、メタ思考からベタ思考への変革という言葉の意味です。

 

評価するということ

メタ思考・ベタ思考については少し考え方の違いを感じたものの、日本の閉塞感というのは僕の中で一つの問題意識として持っていたこともあり、色々と考えさせられる本でした。村田沙耶香さんの「コンビニ人間」が好きな方なら、この本を読んで思うところはあると思います。

 

そんななか、僕の中で一番印象的だったフレーズは以下です。

 

『ある映画を観たとしたら、「おもしろかった/おもしろくなかった」という感想ではなく、映画の「良し悪し」を語り出す。自らの「見解」を語り出すわけです。』(68ページ)

 

ここで指摘しているのは、現代日本人が「好き嫌い」ではなく、「良い悪い」で物事を見ようとする視点についてです。これは僕が数多の「書評ブログ」に抱く違和感に非常に近いです。もっと端的に言ってしまうと、僕が「書評」をしない理由がまさにここにあると言っても過言ではありません。僕は物事の「良し悪し」を判断する評論家になるつもりは無いのです。

 

書評に限らず、評価するとは「良い悪い」の判断を下すことです。そして「良い悪い」を判断するには、必然的に特定の価値観に従属することを意味します。評価の枠組みに入る必要があると言い換えてもいいでしょう。つまり、何が良い、何が悪いという合意がなければ評価をすることは出来ません。だからこそ、評価において主観が入ることは望ましくなく、ある一定のの価値観から物事を見ることが求められるのです。

 

そのため評価者は、どういった価値観から評価対象を見ているのかをはっきりさせなければなりません。上司が部下を評価する時、単純に気に食わないからという理由で低い評価を下すのは正当ではありません。「計画的に物事を進める力」、「社内で円滑なコミュニケーションを取る力」「新しい提案をする力」など、その部下に求める価値観を元に評価がなされるのが普通です。このことからもわかるように、本質的に評価とは価値観とセットで考えるべきものなのです。

 

僕が書評をやらない理由はまさにこれです。どこかから借りてきた価値観を振りかざして、評価を下すことにはあまり興味を感じませんし、自分が「良い悪い」を判断できるとも思いません。むしろ自分の個人的な価値観や思考について書く方に面白さを感じるのです。

 

もちろん、評論を仕事としている人はいますし、評論家自体を否定するつもりは全くありません。読み応えがある評論を書く方もいますし、そういう本を読むのは面白いと感じることも多々あります。何を面白いかと感じるかは人それぞれなので、評論をすることに魅力を感じる人もいれば、僕のようにそうでない人もいるというだけの話です。

 

書評の皮をかぶった読書感想文

僕が絶対に避けたいと思うのは、「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替えることです。ちょっと意地悪な言い方をするならば「書評の皮をかぶった読書感想文」を書くことと言えるかもしれません。客観的な視点という逃げ道・言い訳を作った上で、自分の好き嫌いで物を判断するという欺瞞です。おそらく、上記で引用した部分でマキタスポーツさんが主張したかったのはこのことでしょう。

 

「好き嫌い」と「良い悪い」をごっちゃにする思考の根底にあるのは、他者への想像力の欠如・視野狭窄によるものだと思います。自分の個人的な価値観である「好き嫌い」を安易に普遍的な「良い悪い」にすり替えてしまうのは、他者とは自分とは違う価値観を持った存在であり、自分の価値観はあくまでも個人的なものに過ぎないという認識が弱いためであるというのが僕の考えです。

 

本論から外れるのであまり突っ込んだ話はしませんが、「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替える怖さは、「嫌い」なものを排除することを正当化してしまうことにあります。「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替えることが定着された結果、自分が「好き」なものは「良い」物なので保護されるべきだし、自分が「嫌い」なものは「悪い」ものなので弾圧されてしかるべきである、という排他的な結論に帰結するのは時間の問題です。

 

やや話が逸れましたが、僕がここで言いたいのは、評価とは多様な価値観の存在を認識しているというのが前提だということです。「色々な見方があることは理解しているけど、自分はこの価値観が重要だと思うからこの価値観から評価する」というのが評論家に求められる態度だと思います。つまり、評論家は自分の価値観をメタ的に見る必要があり、だからこそ、ものを評価するにはたくさんの知識が要求されるのです。

 

また、ここまで「良い悪い」と「好き嫌い」をごっちゃにすることの問題を指摘してきたわけですが、人間はそもそも「良い悪い」と「好き嫌い」をごっちゃにしがちな特性があります。

 

行動経済学ノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマン教授の著書「ファスト&スロー」(ハヤカワノンフィクション文庫)によると、人間の価値判断には感情ヒューリスティックという誤謬があり、好きなもののメリットを過大評価し、逆もまた然りだということが分かっています。

 

この特性は、自身や周囲の人たちの行動特性を見る中でなんとなく実感している方も多いと思います。どんなに客観的に物事を見ようと思っても、どうしても主観が混じってしまうというのが人間なのです。

 

これらのことを考えるとわかるのは、書評とはそれだけ難しいことだということです。書評とは、時間的にも空間的にも大きく離れた自分以外の価値観を広く学び、感情によるバイアスを極力排除しようという努力の末に初めて可能となるものなのです。

 

マキタスポーツさんはこの本の中で、安易にツッコミを他罰的コミュニケーションの手段として利用する大衆に対して、下記のようなことを書いています。

 

『お笑いの上澄みだけをすくい、人を罰するための道具としてツッコミを使ってしまっている人も少なくありません。しかし、芸人の私からすると、「あなたが持っている剣は、あなたが思っている以上に重いよ」と思うわけです。「ヨロヨロしてるぞ、危ないから振り回すなよ」と』(36ページ

 

僕はこれは書評を始めたとしてあらゆる評価にも言えることだと思うのです。書評と題して他人の創造物を断ずるつもりならば、そのなりの覚悟が必要なのではないでしょうか。マキタスポーツさんが「メタ思考」と呼んで批判する態度とは、無責任に「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替えて批評することではないかと思います。

 

読書コラムという言葉の意味

ここまで散々書評について書いたわけですが、書評が悪いと言うつもりは全く無いですし、逆に個人的な感想や意見・価値観を書くことが悪いとも思いません(というより、ここまでの議論を読めばわかる通り、僕はそもそも良し悪しを判断するつもりはありません)。

 

前章で、「書評の皮をかぶった読書感想文」というテーマを扱ったので、もしかしたら読書感想文が悪いかのような印象を与えたかもしれません。しかし、もちろんそんなことはありません。この言葉の背後にある主張の本質は、感想を言いたいなら、素直に読書感想文と言えばいいということです。おそらくこれがマキタスポーツ氏が「ベタ思考」と読んでいるのものなのだと思います。変に第三者視点から語る風を装うのではなく、「自分はこう思う」と第一人称で語ればいいわけです。

 

これが、僕が使っている「読書コラム」という言葉に繋がります。

 

僕がこのブログで書きたいのは、自分の価値観であり、感情であり、本を読むことをきっかけに思考し、変遷していく価値観の軌跡です。本を読んで、自分の価値基準の中にある矛盾を炙り出されたり、自分には全くなかった価値観でぶん殴られる感覚を覚えた時こそ、その思考・思索・探求をブログを書きたくなります。

 

ここまで延々と書いた通り、本を紹介することや、一定の価値観から何か良し悪しを判断することがしたいわけではないのです。僕はそもそも価値観を普遍的なものとして位置付けるつもりはなく、その変化を書きたいわけなので、価値観の固定を前提とする「評価」という行為は本質的に馴染みません。

 

それがいつもコラムの冒頭に、言い訳がましく書いているおことわりの意味するところです。自分にとって何が好ましいと感じ、何を嫌い、本から得た知識から何を感じ、何を考えたか?それを吐き出す事がこのブログを書いている理由なのです。

 

僕にとっての読書の面白さ

さて、ここでもう少し思索をすすめ、僕の中での読書と、読書活動におけるこのコラムの位置づけについて見ていきたいと思います。これまでの説明だと、書評をしない理由は明確ですが、読書コラムを書く積極的な理由については明確ではありません。せいぜい、ただ書きたいから書いているという答えになっていないレベルの言及しかしていません(笑)

 

読書の面白さを明確に言語化することは難しいですが、あえてここでそれを試みてみたいと思います。はじめに断っておきますが、ここでいう面白さとはあくまでも「自分にとっての」面白さであり、それを一般化するつもりはないという前提を了解していただきたいです。本の楽しみ方は読者の数だけあると思うので、自分以外の楽しみ方を否定するつもりは全くありません。そのことを踏まえた上で考えていきます。

 

最近、ベストセラーになった本の影響もあり、読書の界隈でインプット・アウトプットという言葉が流行っています。本という観点で見ると、インプットが読書、アウトプットが話したり書いたりすることであり、僕の場合は読書会での会話や今回のようなコラム等がこのアウトプットに相当するのだと思います。

(いちいちインプット・アウトプットと書くのが面倒なので、以後は、読書をし、考え、コラムを書くという一連のプロセスを「読書活動」という言葉でまとめます)

 

自分が何のために読書活動を行っているかを考えたとき、インプットとアウトプットのどちらが目的なのか?と聞かれると、答えるのが難しいです。一見すると、アウトプットを出すためにインプットをしているようにも思えますが、コラムや読書会を目的に本を読んでいるわけではないのは自信を持って言えます。また、逆に本を読むために読書会に参加したり、コラムを書いているというのもまた違います。どちらも楽しいというのは簡単ですが、それもなんだかあまり的を射ていないように感じます。

 

そう考えた時思い至ったのは、僕が一連の読書活動をする理由は、インプットやアウトプットを通して自分が変わっていくことではないかと言うことです。その自分が変わっていく感覚が面白いからこそ、読書活動をしているのだと言えます。

 

つまり、このコラムというアウトプット自体が目的ではなく、インプットからアウトプットを生み出し、自分を変化させていくプロセスこそが面白いのです。活動の主体はインプットたる「読書」にも、アウトプットたる「コラム」にもなく、あくまでも変化していく自分自身だということです。

 

それが僕にとってのコラムの位置付けなので、「コラムを書く目的」というと少し語弊があります。読書もコラムも目的というより手段なのです。自分が面白いと思うこのプロセスの副産物として生み出されるのがこのコラムなのだと言えるでしょう。

 

これが冒頭の「本を読み、考え、コラムを書くという一連のプロセスで自分が変わっていく感覚が面白く、そのプロセスで生み出されるのがこのコラムである」という言葉の意味です。

 

最後に、この本に書いているメタ思考・ベタ思考と、僕の行動の関係について書いてこの記事を締めたいと思います。

 

僕のコラムを読んでいる方は特に理解しやすいかもしれませんが、このコラムを書くという行動は非常にメタ的です。どんな価値観が本から投げ込まれ、なぜ自分の感情が揺さぶられたのか?自らの価値観の構造を捉え、思考によって価値観を再構築する。これらの活動は自分の感情や価値観を第三者的に分析・思考するわけなので、メタ的な活動と言えるでしょう。

 

これは一見、マキタスポーツ氏の主張とは反するように見えます。氏が提唱するのは、自分の感情に素直になれということです。客観的に自分を見るのではなく、悲しい話を見て素直に泣き、楽しいことに熱中することの重要性を説いているわけです。それを「メタ思考」から「ベタ思考」と呼んでいるわけなので、上記のような「メタ」的な活動とは相容れないようにも見えます。

 

しかし、思い出して欲しいのは、なぜ僕が読書活動をしているのかということです。それは先にも書いた通り、その過程で自分の思考や価値観が変わっていくのが素直に面白いからです。そういう意味では僕はどこまでも自分の感情に素直に生きているとも言えます。このような行動こそまさに、僕にとっての「ベタ」なわけです。

 

要するに、僕にとっての「ベタ」は限りないメタ思考の果てにあるわけなので、必ずしもマキタスポーツ氏の主張とは競合しないと思うわけです。まあ、僕は僕で好きなことをしているだけなので、彼の主張と競合していたとして特別困る訳ではないですけどね。

 

まとめ

今回は「一億総ツッコミ時代」という本を読んで考えたことを書いてみました。当初は「書評」をしない理由くらいまでのところで終わる予定でしたが、考えを進めていった結果、思った以上にスケールが大きくなってしまいました(笑)

 

読書の楽しみ方については、これからも色々な本を読む中で変わってくると思いますし、今回書いたことで全て語り尽くせたとも思いません。本を読みながら、自分にとっての読書の位置付けにも考えを巡らしていきたいところですね。

 

それでは、また!

【読書】2019年5月に読んだ本まとめ

こんにちは!

今回は、先月一ヶ月間に読んだ本について記事を書きたいと思います。この一ヶ月で読んだ本まとめは、本を読むだけで満足したり、冊数を読むことに傾斜しないためにも定例にしたいところです。


読んだ本まとめ

一ヶ月に読んだ本は下記の通り。

 

f:id:KinjiKamizaki:20190602191702p:plain

f:id:KinjiKamizaki:20190602191727p:plain

f:id:KinjiKamizaki:20190602191750p:plain

f:id:KinjiKamizaki:20190602191813p:plain

総評

一ヶ月で読んだ本は40冊。その内訳は以下の通り。

 

- 小説・エッセイ → 4冊:国内1冊、海外(翻訳)3

- 自己啓発・ビジネス ・その他→ 36冊

 

4月は37冊だったので、冊数としては微増。最近、薄めの新書であれば1日2冊読めることに気づいたので、冊数が増えた主な要因はそれだと思います。一方で、実は5月は引っ越しをしていたため(超近距離ですが)、小説は本当に全然読めていません。この二つの要因が合わさって、微増という結果になったのだろうと思います。

 

引っ越し先での生活も落ち着いてきたので、もうちょっと小説を読むペースを上げていきたいところです。

 

今月のマイベスト小説&ビジネス書

今回の、小説・ビジネス書の中で心に残ったのはそれぞれ以下の通りです。

小説部門

今月、一番印象的だった小説はアンディー・ウィアーさんのSF作品「火星の人」。映画「オデッセイ」になったこともあり、内容は知っている方も多いかもしれません。

 

ストーリーとしては、トラブルによって火星に取り残されてしまった宇宙飛行士・ワトニーが、地球帰還のために火星でサバイバル生活をするというものです。文章の多くの部分はワトニーの残した手記の形をとっているのも大きな特徴。

 

地球から持ってきた物資を元に火星で農業をやってみたり、水を手に入れるために過激な実験をしたりと波乱万丈な展開ながら、科学的な考証も十分なされているのが印象的です。単なる思いつきのアイデアではなく、現実的に可能なのかどうかを論理と計算に基づいて検討しており、本当にこんなことができるかもしれないと思わされてしまいます。

 

また、主人公のワトニーが非常にユーモアのある人物として描かれており、悲壮的な状況ながら軽快なテンポの文章もまたこの小説の面白いところです。特に海外SFというとどうしてもお堅い文章のイメージがありますが、この本はそんなこともなく読みやすいです。ただ、小説だけだとビジュアルがイメージしにくい部分も多いので、もしかしたら映画を見てから小説を読んだ方が楽しめるかもしれません。

 

ビジネス書部門

今月印象に残った本のビジネス書部門は岡本裕一朗さんの「いま世界の哲学者が考えていること」。前回と同じく、厳密に言えばビジネス書というわけではないですが、まあそこはあまり気にしない方向で(笑)

正直、もはやその辺の区別は小説かそうでないかの違い程度でしかなくなりつつあります(笑)

 

書いてある内容はタイトルのとおり、現代哲学の論点をナビゲートするようなものとなっています。一つ一つの論点にはそこまで深くは書かれていませんが、参考文献が豊富にあり、この本を起点として幅広い知見を探っていくにはちょうどいいと思いました。

 

何が面白かったかというと、各論点が普段このブログで読書コラムとして書いている内容とかなり近かったということです。環境問題やバイオテクノロジーITから宗教まで、現代の世界で議論されている内容がいちいち僕の興味の琴線にひっかりました(笑)

 

このブログを継続的に読んでいる方であれば(どの程度いるのか定かではないですが…) 

 

人類は環境を守るべきか?

神を殺した世界でどう生きるか?

フレーム問題は解決したのか?

犯罪者には「道徳ピル」を飲ませればいい? 

 

といった議論は僕が大好物とするものだということは想像できるでしょう(笑)。参考文献も多いので、ぜひちょっとずつでも読んでいきたいところです。ちなみにこの本は、参考文献として非邦訳の図書が記載されているあたりかなりガチです。

 

人類史と進化論

今月読んだ本を振り返ると、人類史や進化論に関する本が多かったなと思います。先月のまとめで宗教について書いたわけですが、その延長線って感じでしょうか?

 

進化論についてはなんとなくは知っていたものの、それが宗教に与えた影響とか歴史的意味というところまでは考えたことがありませんでした。ここ最近、人類史・世界史の本を読むことが多かったこともあり、その中で宗教がどれだけ大きな役割を果たしてきたのかを知ると、進化論の歴史的意味が始めて理解できた気がします。

 

この辺りの議論は、上記の「いま世界の哲学者が考えていること」の中でも取り上げられているトピックで有り、俄然興味が湧いてきました。とりあえず、いまだに読んでいない「利己的な遺伝子」「サピエンス全史」「ホモデウス」あたりは近いうちに読みたいと思います。

(どれも価格が高いので少しずつでは有りますが。。。)

 

新書のメリット

また、最近は新書を読むことが増えてきました。割とサクッと読めるものが多く、「現代の知識人・教養人がどのようなことを考えているのか?」や「現代社会の論点・問題点はなにか?」を考えるには悪くないツールだと思います。なによりも、リアルタイム性が有るのが新書の最大のメリットです。

 

たしかに長く残っている書籍に比べると、どうしても当たり外れが大きく、あまり内容がないと感じるものが多いという難点も有ります。ただ、その分一冊一冊は時間をかけずに読めるので、幅広い価値観や知識を得るという意味はあるかなと。だからこそ、新書は1日2冊と決めてガンガン読んでいきたいですね!

 

まとめ

今回は5月に読んだ本のことをまとめました。やはり、読みっぱなしにするのではなくこうした形で定期的に自分の読んだ本を振り返る機会を設けることはなかなかいいですね!

それでは、また!

 

【読書会】彩ふ読書会5月参加レポート

こんにちは!

先日5/19に行われた、のののさん主催の彩ふ読書会に参加したので、そのときのレポートを書きたいと思います。東京での彩ふ読書会の開催は三ヶ月ぶりということもあり、非常に楽しみにしていた会です!

 

開催者の方の公式のレポートは下記になります。

 

iro-doku.com

 

記事の中で、課題本の「ひらいて」のネタバレを多少含むので未読の方はお気をつけください。


彩ふ読書会東京地区

彩ふ読書会は、のののさんという方が主催している読書会です。のののさん自身は大阪の方で、もともとは大阪を中心に読書会を行っていたそうなのですが、それをもっと広げようということで、東京・名古屋・京都などでも読書会を展開しています。本当に主催者の方の行動力には脱帽する限りです。

 

この読書会のコンセプトとして主催者が掲げているテーマは「居場所作り」で、私自身このコンセプトに非常に共感したこともあり、サポーターとしてお手伝いさせて頂いております。

 

今回は参加人数が午前午後ともに約30人と、今までの倍近い方々が参加されました。サポーターという立場上、事前にその人数を伺っていたので、始まる前から不安半分期待半分って感じでしたね。

 

午前の部「推し本披露会」

今回の推し本披露会は5グループに分けて行われました。1グループでやっていた頃がもはや懐かしいですね(笑)。私が参加したのはBグループです。

 

紹介された本たちはこちら

(参加者直筆の紹介文は公式レポートで見られるので、ぜひそちらもご覧ください)

 

Aグループ

f:id:KinjiKamizaki:20190526213346j:plain

 

Bグループ

f:id:KinjiKamizaki:20190526213413j:plain

 

Cグループ

f:id:KinjiKamizaki:20190526213525j:plain

 

Dグループ

f:id:KinjiKamizaki:20190526213602j:plain

 

Eグループ

f:id:KinjiKamizaki:20190526213629j:plain

 

今回、僕が紹介した推し本は宇野常寛さんの批評書「ゼロ年代の想像力」。ここ最近読んだ本の中ではずば抜けて面白かったこともあり、ことあるごとにこの本を推しまくってます(笑)

 

普段このブログを読んでいる方はもう2回くらい同じ話を読まされたかと思いますが(笑)、内容としては「ゼロ年代2000~2010年)」のサブカル作品を参照しながら現代日本の課題やその解決策を思索していく本です。

 

デスノートコードギアスなどの馴染み深い作品をたどりながら、深い洞察を与えている文章は見事の一言です!

 

この読書会は推し本のバリエーションが豊かなのが特徴だと思っていましたが、今回は特にそれが顕著だと思いました!小説も国内・海外とバランスよく紹介されていますし(南米文学とか英語の原典も!)、エッセイや詩集、児童書、図鑑(?)、批評、漫画、そして同人誌(!)まで、正直他ではなかなか無いレベルの幅広さだったんじゃないかと思います。人数が増えたことも関係あるかと思いますが、やはり参加者それぞれの色が現れているのがこの会の魅力だと改めて思いました!

 

また、主催者とサポーター陣で準備をしている時に、何度も参加されている方が積極的にご協力していただいたことがとても嬉しかったです!特に今回は人数が急に増えた関係で結構バタバタしていたと思うので、ちょっとしたお手伝いをいただけるだけでも非常に助かりました。

ご協力いただいた方々、本当にありがとうございました!

 

午後の部「課題本読書会」

今回の課題本は、綿矢りささんの「ひらいて」でした。綿矢りささんというと女性の人気が高い作家さんというイメージが強いので、女性の参加者が多いかと予想していましたが、意外と男女で半々くらいの割合でした。

 

話していて感じたのは、自分が物語の後半の部分をかなり読み飛ばしてしまっていたなということです。もちろん、一文一文しっかり読みましたし、その内容は覚えているのですが、そこまで深く考えずに読んでいたことに気づきました。とにかく前半〜中盤にかけての展開が強烈すぎて、静かに流れる後半部分の意味にまで目がいっていなかったなと。

 

もちろん、それが悪いというわけではないですが、参加者の皆さんと話している中で、自分一人では見えなかった面白さが発見できたと思います。なかなか考察のしがいがありそうなので、今週末をめどにまた彩ふ文芸部にコラムを投稿したいところです。

>投稿しました!

【読書コラム】ひらいて-愛と恋のハイブリッドシステム 執筆者:KJ | 彩ふ文芸部

 

あとは、たとえ君の評価が割れていたのが面白かったですね。ブレない感じがカッコいい、というのは僕も読んでいて感じましたが、「結局こいつは何もしていない」という身もふたもないことをおっしゃっていた方もいて、たしかになかなか鋭い指摘だと思いました。

 

こういう正反対の意見が出るのが、課題本読書会の面白さの一つかなと感じます。

 

まとめ

今回は3ヶ月ぶりの彩ふ読書会だったうえ、参加者数も多かったので盛りだくさんの1日でした。前日の夜に僕自身が主催しているオンライン読書会をやっていたこともあり、流石にちょっと疲れてしまいましたが、それだけの充実した1日になったと思います。

 

次回の開催日は6月23日です。午後の課題本は、ウィリアム・ゴールディングさんの「蝿の王」。これまた、今回の課題本とは全然違う毛色の本で、今から読むのが楽しみです。前評判を聞く限り、かなり僕が好きなタイプの小説じゃないかなと思っています(笑)

 

詳しい内容は彩ふ読書会のサイトから↓

 

iro-doku.com

 

それでは、また! 

【読書会】第4回レバレッジリーディング読書会(2019年5月)レポート

こんにちは!

5/18(土)の夜に、第4レバレッジリーディング読書会を開催いたしましたので、その内容をレポートしたいと思います!

今回も幅広い話題が展開される和気藹々とした会となりました。

 

参加者の読んだ本のリストもこのレポートの中で紹介します。

f:id:KinjiKamizaki:20190526141817j:plain


概要

まず、今回開催した読書会の概要を説明したいと思います。

この読書会はビジネス書を中心に本を多読している方や、これから読んでみようとチャレンジする方向けの、ボイスチャット形式のオンライン読書会です。

 

具体的には月に10冊以上の本を読むというのを一つの目安とし、コンセプトは「圧倒的な量のインプットとアウトプットができる読書会」です!

読書会用のホームページを準備しているので、詳細気になる方はそちらをご確認ください。

  

 

今回の参加者は、僕を含めて3人。そのうちのひとりは初参加の方でした。時間は前回同様に夜の20:00~21:30の90分間です。

 

全体の流れとしては、まず順番に自己紹介を行い、その後に読書会のメインイベントとして①月間ベスト本の紹介と、②読んだ本リストを見ながらのQ&A形式のフリートークです。

 

読んだ本リスト

事前に参加者の方から4月に読んだ本のリストを頂き、主催者の僕がそれを一つの表にまとめて参加者の方々に配布しました。実際の読書会ではそれを見ながらの進行になります。↓が実際に使ったリストです。

 

個人利用の範囲で閲覧・ダウンロードは自由にしていただいて問題ありませんが、二次使用・無断転載等はご遠慮願います。

 

【第4回】レバレッジリーディング読書会リスト.xlsx - Google ドライブ

 

f:id:KinjiKamizaki:20190526142526p:plain

 

今回は参加者の方々が割とテーマ性を持って読書をしていたのが印象的で、本のリストにもそれが色濃く出ています。

僕はあまり一定期間に特定のテーマの本をたくさん読むということはしないので、本の選び方という意味でも学びがあったかなと思います。

 

ベスト本紹介

リスト内の黄色塗りのセルは各参加者の月間ベスト本です。ここでは、それぞれの本について簡単に説明します。

 

 

 

f:id:KinjiKamizaki:20190526142745p:plain 

ゼロ年代の想像力宇野常寛 (ハヤカワ文庫)

 

こちらはわたくしKJが紹介した本です。この本は、ゼロ年代2000~2010年)のサブカル作品を追っていきながら現代日本の課題やその解決策について論じている批評書です。

 

デスノート」や「コードギアス」をはじめとして馴染みのある作品を参照しながら議論を進めていくのが面白く、それでいてそこから導き出される結論はとても示唆に富んでいます。エンタメとして何となく消費しがちなサブカルをここまで鋭く考察する筆者の思考力に驚かされるばかりです。

 

 

 

f:id:KinjiKamizaki:20190526142906p:plain 

「樹木たちの知られざる生活」ペーター・ヴォールレーベン (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

前回から引き続き参加頂いた方の紹介本。この本はドイツの森林管理官の方が書いた本だとのことで、ドイツの森林事情についてのエッセーのようです。この方は、最近ドイツに関する本をよく読んでいると言っていました。

 

ドイツの森林は環境破壊の影響で一時期かなり荒廃してしまったようなのですが、そこから学びを得て現代では森林の再生が進んでいるらしいです。その方は、一度やると決めたらきっちりやり切るドイツ人のメンタリティと、割となあなあにしがちな日本人と比較し、ドイツ人から見習うべきところがあるのではないかとおっしゃていました。 

 

 

 

f:id:KinjiKamizaki:20190526143042p:plain

「都市は人類最高の発明である」 エドワード・グレイザー(エヌティティ出版

 

この本は今回初参加の方からの紹介本です。その方は、4月は都市についての本を多く読んでいたらしく、その中でも印象的だったのがこの本であったとのこと。

 

一言で言うと、「都会最高!」という内容で、いかに都会が凄いかを解説している本らしいです(笑)。都会は人が密集しているので、ニッチなビジネスのチャンスも多く、画一的になりがちな田舎に対して多様性のある商品・サービスがあるというのが大きな特徴だとのこと。気になります。。。

 

Q&Aタイム

今回もこれまでと同様に、Q&Aタイムとしてリストを見ながら1人1回づつ他の参加者に自由に質問ができるという時間を設けました。

 

今回は参加者が3人だったので、もともとは話題が尽きてきたら早めに終わりにしようかとも思っていました。しかし、実際やってみたら最後まで会話が盛り上がったため、予定の時間まで読書会を行ったというわけです。会話の内容もさることながら、参加者の皆さんに会話を楽しんでいただいたことが何より嬉しいですね!

 

僕がさせていただいた質問は、タイトルを見て気になった「いばらぎじゃなくていばらき」という本です。個人的に茨城県にはゆかりがあるので気になったわけですが、どうやらそこまで真面目な本ではないらしく、おふざけの要素も多い「茨城あるある」を集めた本のようです(笑)

茨城については、ゆかりがあるとはいえ、そこまで深く知っているわけではないので、どこまで「あるあるネタ」がわかるかはわかりませんが、読んでみたいところです。

 

あと、印象的だった会話は、ドイツの流れで僕が読んだ「ドイツ人はなぜ、年290万でも生活が「豊か」なのか?」という本に話が及んだことです。実はこの本は前々回のこの読書会で他の参加者からその月のベスト本としてオススメされて読んだ本で、以前の会と今回の話が繋がった感じあって面白いと思いました。読書会を継続する中で、このような繋がりが増えてくるといいなと思いました。

 

まとめ

今回は第4回レバレッジリーディング読書会のレポートを書かせていただきました。

毎度人が集まるかどうかヒヤヒヤしながら申し込みを待っているのが本音ですが、なんだかんだでこれまで毎月継続して実施できていることは喜ばしい限りです。

 

次回は6月15日の夜に開催予定です。本日中には募集を開始する予定なので、興味がある方はご検討いただけると嬉しいです。

 

 それでは、また! 

【読書コラム】零號琴 - 教養はなぜ必要か?

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は飛浩隆さんの小説「零號琴」。この作品は2018年の10月に出たばかりのSF小説です。作者の長編としては16年ぶりの作品ということで、出版された当初はTwitterなどのSF界隈は非常に盛り上がっていました。ユーモア溢れるエンタメ作品としての面白さもさることながら、「物語」という言葉をキーワードとして考えさせられることも多かったので、今回はそれについて書いていきたいと思います

 

今回は小説の核心部分に触れるようなネタバレの記載も多いので、未読の方はご注意お願いいたします。

 

f:id:KinjiKamizaki:20190526000214j:plain


おことわり

 

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

ネタバレについては冒頭に書いた通りです。物語の核心に迫る内容も書いていくので、未読の方はお気をつけください。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のサブタイトルは「教養はなぜ必要か?」です。読んだことがある方は、この小説と教養という言葉に何の関係があるのかが良くわからないかもしれません。この記事ではそれを順を追って説明してきます。

 

結論から言うと、教養とは「物語のメタ化」であり、「物語の脚本を書き換えるために教養が必要だ」というのが僕の意見です。もしかしたら「物語」「脚本」と言ったキーワードから小説の内容との関係に察しがついた方もいるかもしれませんね。

 

それでは、詳細を見てきましょう。

 

本の内容

今回のコラムも前回の「スカイ・クロラ」の記事と同様に既読の方を意識していますが、「スカイ・クロラ」に比べると読んでいる方も少ないかと思うので簡単にポイントを説明します。

 

【読書コラム】スカイ・クロラ - 人生のミッションという名の退屈凌ぎ - たった一つの冴えた生き様

 

物語の舞台は「美褥」という惑星です。やや東洋的で独特の文化を持つ惑星「美褥」ですが、中でも特徴的なのが、人々が「假面」と呼ばれる特殊な仮面をかぶって「假劇」と呼ばれる劇を行うと言う奇妙な伝統です。そして、この「美褥」に住む人々は歳をとらず、壊滅的なダメージを受けなければ何度でも蘇ることができると言う、とても不思議な特性をもっています。

 

物語はこの美褥の開府500年記念祭に行われる「假劇」を巡って進んでいきます。この記念祭で鳴らさせれると伝えられる伝説の秘曲こそがタイトルの「零號琴」というわけです。

 

このときに演じられる「假劇」は美褥に伝わる神話とプリキュア・ゴレンジャーのマッシュアップという非常にカオスなもので(笑)、そのノリとテンションがめちゃくちゃ面白いのですが、今回はそこは直接は関係ないので詳細は割愛します。 

 

いきなり物語の中核となるネタバレの話となりますが、最終シーンで明かされる真実は、この美褥に生きる人々は実は「ムヒ(漢字が出ない。。。)」と呼ばれる特殊生物であり、その「ムヒ」たちが人間のふりをして生活を営んでいたにすぎなかった、という事実です。本人たちを含め、美褥に住んでいる人たちは誰もが人間だと信じていましたが、実はそうではなく、ムヒという生物が人間の役割を演じていただけだったという悲しい真実です。

 

このムヒと呼ばれる生物は、共感能という能力を持っており、近くの生物の感情に共感して自身の形状を任意に変えることができます。この能力を使って人間の形を模倣していたというわけです。

 

過去、人類同士の争いにより、美褥世界は人間が生きていくことができない環境になってしまいました。この事実に直面した過去の人間達(これは文字通りの人間)は、物語を作り、ムヒにそこで生きる人たちの役割を与えて惑星の運命を託しました。各個人を残して生きていくことができなくなった人類が、個を放棄してでも美褥世界が存続できる道を探した末の苦渋の選択です。

 

ちなみに、先に述べた特徴的な伝統である假面と假劇は、先人達によって作られた物語を忘れないために生み出された装置だったことが明らかにされます。

 

文章にするとあっけないですが、物語のなかで少しずつ明かされていく真実が非常に刺激的で面白い本でした。上記の説明だと未読の方はあまりピンと来ないと思うので、興味を持った方は是非自分の目で確かめてほしいと思います。

 

しかし、その一方、この小説の中で語られる「物語の中で生きるムヒ」の姿には少し思うところがありました。今回はその引っ掛かりを元に思索を進めていきます。

 

美褥世界の考察

さて、本の内容で解説した通り、この小説の舞台となっている惑星「美褥」はいわば作られた世界だったわけです。この内容から「物語」とは何なのかについて考えてみたいと思います。

 

端的にいうとその構成要素は、共有する過去、役割分担、そして約束事の三つではないかと思います。もちろんこの3つだけだとは思いませんが、この本を読んでいて、この3つがムヒを人たらしめていた物語を構成する大きな要素ではないかと思いました。

 

まずはなんといっても共有する過去です。美褥では、皆が同じ神話を共有することで一体感を生み出していました。それは過去の人類が経験した災厄をもとに創作されたものでしたが、その物語が人々を結びつけ、美褥の人々の一体感を作り出していたことは間違いありません。美褥の住人のみんなが参加する假面と假劇がまさにそれを象徴しています。

 

そして美褥の人々を結びつけていたものの一つとして、役割分担が挙げられます。この世界では仮面職人、脚本家、假面屋、企画屋などの職能組織が高度に発達していました。おそらく、その役割分担も過去の人類によって創作されたものでしょう。それぞれの人(正確にはムヒですが)が役割を与えられ、それを全うすることによって共同体が運営され、假劇という伝統が語り継がれてきたわけです。

 

最後に約束事。美褥世界の意思決定のやり方である合議制や蘇りのシステムが美褥世界を継続させるにあたって大きな役割を持っていたことは想像に難くありません。特に蘇りのシステムは非常に面白く、永遠の命を持つムヒという存在にとって、長期にわたって社会を維持するため、このようなシステムが必要だったという解説にはなんとなく納得してしまいます。美褥の人々が蘇りのシステムという生物学上は不要なものを、当たり前のように受け入れていたのは、皆がそれに合意した約束事だったからに他なりません(ムヒに対して生物学上という言葉が適切かは微妙ですが)。

 

物語におけるこれらの要素が、美褥世界の安定に寄与していたのは間違いないでしょう。過去の人々が、これらのどこまでを意識して設計したのかはわかりませんが、極めて合理的な社会設計であるように思います。

 

人々が共有する過去を持ち、共同体を形成することは、社会にとっての強力なリスクヘッジになります。端的にいうと、共同体のうち誰かが偶発的に死んでしまったとしても、美褥世界は継続することができるということです。株式投資をする際、一つの銘柄に全てをかけず、分散して投資することで、一つの会社が潰れても致命的なダメージにはなりにくいことを想像するとわかりやすいかもしれません。

 

また、役割分担は社会の発展の効率化に大きく寄与します。現在、企業を初めとする多くの組織が業務の効率化のために分業をしていることは今更説明するまでもないでしょう。ある程度の大きさの組織になったとき、一人で全ての業務を覚えるのは非常に効率が悪いので、それぞれの専門に特化することで組織全体を効率化させるわけです。

 

そして、約束事は世の中の安定に寄与し、効率的なコミュニケーションや意思決定を可能にします。多くの人が意思決定をする際、全ての人の意見を全て取り入れることはあまりにも非現実的です。だからこそ、職能組織のトップによる合議によって物事を決めると言う約束事が必要になってくるわけです。

 

このように、共有する過去、役割分担、そして約束事を含んだ物語の設計がされていたからこそ、ムヒによる空虚な営みでしかない美褥世界が安定して存続し続けたと言っても過言ではないでしょう。

 

人間と物語

ここまでの美褥世界につての考察を見ていくと、その構造が我々の人間社会となんら変わりないことに気づくでしょう。美褥世界が存続し続けた理由は、そのまま人間がここまで生き延び続けた理由であるといってもいいと思います。

 

そのような立場で考えたとき、人間の持っている特性が物語に驚くほど適合しているのがわかります。

 

まずはなんといっても人間の持っている共感能力です。人間の脳にはミラーニューロンという神経細胞があり、それにより他人の気持ちに共感することができます。他人との関係を作るうえでこの神経細胞が担っている役割は大きく、他人との共感はもちろん、共同体の過去(過去の人間たち)に共感することで、共同体の価値観を信じることができます。

 

また、人間は本質的にマルチタスクが苦手だと言われています。勉強や仕事に集中しているときに、声をかけられると一気に能率が落ちてしまうと言う経験は誰しもあると思います。つまり、基本的には人間は同時に複数のことができず、一つのことに集中することで最大の能力を発揮できる生き物です。このような、集中によるベストパフォーマンスの発揮が分業制と適合しているというのは言うまでもないでしょう。

 

これは以前別の記事でも書きましたが、そもそも人間は多すぎる選択肢が苦手という特性があります。それを解決してくるのが共同体の約束事です。共同体の約束事が、「良い事」と「悪い事」を教えてくれるので、膨大な選択肢に戸惑うことはあまり多くありません。我々はムカつく相手がいたとしても、その人を殺すかどうか迷う必要はありません。なぜなら、人を殺すことは「悪い事」だと共同体の約束事として決まっているからです(もしかしたらこの例えだとちょっと納得できない人もいるかもしれませんが)。

 

【読書コラム】服従 - アドラー心理学は特効薬なのか? - たった一つの冴えた生き様

 

このように、人間は物語に対する適合性が恐ろしく高いことがわかります。

 

ここまでの議論を簡単にまとめると、物語は生き残りに非常に有利になるものであり、人間は物語に適合しているということです。だからこそ、人間は発展し続け、地球の覇権を握るに至ったのではないかと思うのです。

 

さて、ここで「共有する過去」、「役割分担」、「約束事」という構成要素を持つ物語の典型例としてあげられるものは何か考えてみましょう。ここまでの話で仄めかしがあったので、ピンときた方もいるかもしれませんが、この物語の典型的な例が「宗教」です。

 

言うまでもなく、宗教には共有する過去として神を正当化するための「神話」があります。そして、多くの場合は神の代弁者たる預言者やシャーマン(巫女)を筆頭とした分業制を持っています。さらに、約束事として「教義」や「聖典」を持っていることは誰の目にも明らかです。

 

そのように考えると、世界各地の人間社会の中で自然発生的に宗教が生まれたことはそこまで驚くに値しないのかもしれません。

 

僕はもともと、当時交流があったとは思えないほどの広範囲の各地に同じように宗教が発生したことが不思議で仕方ありませんでした。しかし、これまでの議論を考慮すると、宗教は発生するべくして発生したのではないかとも思えます。さらに、その物語を徹底して実践したキリスト教世界が中世までの世界の覇権を握っていたのも歴史の必然だったのかもしれません。

 

もちろん、物語に適合する特性自体は今の我々も引き継いでいると思います。物語はなにも宗教に限った話ではなく、この世の中に存在するあらゆるコミュニティに存在するものだと思います。というより、コミュニティ自体が一つの物語だと言えるのかもしれません。学校、企業、国家、地方公共団体NPO。それぞれの団体がそれぞれのレベルで共有する過去・役割分担、そして約束事を持ちながら、その共同体を営んでいるというわけです。

 

そういう意味では、我々も物語の中を生きる住人だと言えるでしょう。共有する過去として歴史を学び、法律・倫理・契約と言った約束事で結びつき、役割分担することで効率的な社会を形成する。これが現代の人類が信じている「物語」です。

 

物語が誰かに創作されたものなのか、自然発生的に生じたか、という違いはあるものの、本質的には今を生きる人類と美褥で生きるムヒたちとはなんら変わるところはありません。

 

教養と実用と

ここまで筆を進めたところで、ようやくサブタイトルの内容につながって来ます。つまり、先の章で述べた項目(宗教、歴史、倫理など)はまさに教養と呼ばれるものに一致するということです。そう考えたとき、教養とは『「物語」を学ぶ事である』とわかります。

 

もう少し詳しく「教養」という言葉を理解するために、対義語と考えらえる「実用」との比較をしてみましょう。

 

皆さんは、「実用」という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

もう少しわかりやすく言い換えると、「実用的な」知識とは何かを考えると想像しやすいと思います。

パッと思いつくのは、英語、コミュニケーションスキル、会計、プログラミングなどです。これらの知識が「実用的な」知識である、という主張に異を唱える人は多くないと思います。

 

我々は、普段の仕事や生活に根付いたものを「実用」というわけです。「教養」はすぐに役立つものではない、とよく言われますが、それに対して実用はすぐに役にたつものと言えるでしょう。英語ができればビジネスチャンスは大きく広がりますし、コミュニケーションスキルがあると生活面でも仕事面でも円滑な意思疎通ができるようになります。また、プログラミングや会計の知識・スキルがあれば働き口の幅はぐっと広がるでしょう。

 

これらの実用的知識の共通点をまとめると、今を生き抜くために必要な知識であると言えます。言い換えると、今の物語の中で生き抜くための知識が「実用的な」知識であるというわけです。ゲームのプレイヤーとしてルールの中で戦うためのノウハウと言っても差し支えないかもしれません。

 

この「実用」との対比によって「教養」という言葉の意味が見えてきます。つまり、「実用」が物語の中で生きるための知識であるならば、「教養」はその物語自体を理解するための知識だということです。

 

今の物語の根底にある価値観や倫理・哲学はなんなのか?

どのような経緯で世界が今の形になったのか?

どのような社会が過去成功し、失敗したのか?

その要因はなんだったのか?

歴史が明らかにする人間という種の特性とはなんなのか?

今の物語の問題は何か?

 

このような問いを続けながら、今の物語を少しでも望ましいと信じる方向に変えていく。そのために必要な知識や、それに伴う果てしない自問自答こそが教養ではないかと思うのです。

 

わかりやすくいうと、自分の周りの狭い範囲の物語で生き残る術を学ぶのが「実用」、自分とは空間的にも時間的にも離れた物語を含めてその全体を学ぶのが「教養」といってもいいのかもしれません。

自己を取り巻く物語を盲信するのではなく、自らの属する物語を「メタ的に」捉える視点こそが教養の本質だと思います。

 

たまに、歴史を学んでも役に立たないからもっと実用的な英語やプログラミングを学ぶべきという意見を見かけます。僕はそれはそれで間違っているとは思いませんし、実用的な知識が不要だとも思いません。しかし、問題はそのノウハウは今の物語の中で役にたつものでしかないということです。

 

僕がここであえて強調するまでもなく、世界を支配するルールは驚くほどのスピードで変わり続けています。今の物語で実用的だった知識が、あっという間に陳腐化してしまうというケースは枚挙にいとまないです。リアルタイムの自動翻訳の技術が発達すればもはや英語を学ぶ必要性は薄れてくるでしょうし、プログラムを書くプログラムの技術が発達すれば、人間がプログラミングをする必要がなくなるかもしれません(自動プログラミングについては知識が十分でないので、どこまで出来るのかはちょっと僕自身は判断しかねますが)。

 

いずれにしても大事なのは、今の社会を作っている物語がどのように変わっていくのかを考えることです。場合によってはその物語を、いかに変えていくのかを考えなければならないかもしれません。ルールを変え、物語を作っていくためには今の物語の中の役者として一喜一憂するだけでなく、今の物語をメタ的に眺める視点が必要です。

 

これが冒頭の、教養とは「物語のメタ化」であり、「物語の脚本を書き換えるために教養が必要だ」という言葉の意味です。

 

AI時代における物語の意味

以降は余談になりますが、今回の結論はコンピュータ・AI時代において特に重要になってくることでもあります。

 

コンピュータは決められた物語・ルールの中で圧倒的な計算スピードと膨大な記憶容量という物量を武器に最適を見出すのが非常に得意です。そのため、人間がコンピュータと同じ土俵で戦っても勝ち目はありません。人間のやっている手続きが明確な言語で記述でき、物理的な制約がなくなったタイミングで、その土俵から人間ははじき出されてしまいます。

 

しかし、今のところコンピュータは複雑な物語・ルールを規定することはできません。AIについての知識がある方であれば聞いたことがあるかもしれませんが、AIにおける本質的な困難としてフレーム問題というものがあります。フレーム問題をざっくりと説明すると以下のようになります。

 

『「全ての状況を想定するAI」を作ろうとすると、当然このAIは無限の事象を想定して行動を判断する必要がある。しかし、無限の可能性を処理するためには無限の計算時間がかかるので、結果としてAIは永遠に動き出さない』という問題です。

 

このようなフレーム問題を人間の脳がどのようなアルゴリズムで回避しているのかは定かではありませんが、少なくとも人間は永遠に動かないということはないので何かしらの形でこのフレーム問題を回避しているわけです。人間はなにがしかの方法で課題を有限の時間で処理できるように「フレーミング」しており、ここが現代におけるAIと人間を隔てている本質的な差異であると言えます。

 

現代のAIを動かすためには、AIがどんな問題を解けばいいのかを人間が指定する必要があるのが現実です。このように、人間が課題解決のための「フレーミング」を指定してやって初めて、AIがその能力を存分に発揮できます。Aiはあらゆる可能性を有する現実の課題を直接は解くことができない一方で、将棋や碁といった有限の指し手というルールを持った「フレーム」を与えた瞬間に、人間を上回るほどの猛威を振るうことを思い出していただけるとイメージしやすいと思います。

 

ここまで話せばもう察しはついたと思いますが、この「フレーミング」が今回議論してきた「物語」に対応する、というのがここで僕が言いたいことです。人間がすべきことは「方程式を解くこと」ではなく、「目の前の課題を解決するためにはどんな方程式を解けばいいかを決める(フレーミングする)」ことです。だからこそ、今の時代を生きる人たちに教養が必要なわけです。

 

もちろん、AIが永遠にフレーム問題を解決できないと言える根拠は全くありません。AIがフレーム問題を解決できない理由は、人間がどのようなメカニズムでフレーム問題を解決しているのかがよくわかっていないためではないかと思います。つまり、このメカニズムが明確に解明され、アルゴリズム化ができた時点でAIはフレーム問題を克服できるはずです。

(人間の脳とコンピュータのCPUはハードウェア的な違いはあれど、根本的な機能面の違いはありません)

 

いずれにせよ、これからの人間に要求されることは、物語の一役者として生きるだけではなく、物語を書き換えていくことではないかと思うのです。今を生きる我々が教養を学ぶ意味はそこにある、というのが今回の記事で僕が考えたことの結論です。

 

まとめ

今回は飛浩隆さんの「零號琴」を読んで考えたことを書いてみました。考えていくにつれて、思索があらぬ方向に飛んで行っている気がしないでもないですが、「零號琴」という作品が今回の思考のきっかけになったのは間違いないので良しとしましょう。どうせ途中から話がどんどん本の内容から離れていくのはいつものことです(笑)

 

正直、思った以上に分量が多くなってしまって分割しようかとも思いましたが、途中で切るのも締まりが悪いので一本で投稿させていただきました。

 

それでは、また!

【読書コラム】「理系」という生き方- Stand On the Spectrum

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は毎日新聞化学環境部によって書かれた『「理系」という生き方』。この本では理系という切り口で教育論を論じている本であり、僕がもともと違和感を抱いていた「理系」「文系」という区分について考えるきっかけになりました。今回はそれについて書いていきます。

 

今回は特にネタバレを気にする必要はないと思います。

 

f:id:KinjiKamizaki:20190511232815j:plain


おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います、

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

 今回のコラムで僕が主張したいことは「二極思考からの脱却し、その間に立つという意識を持つべき」だという事です。それが副題の「Stand On the Spectrum」という言葉の意味です。これも当たり前といえば当たり前で、ありきたりと思える主張ではあると思いますが、今回は「理系」「文系」を出発点に上記の結論までの思索を書いていきます。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

本の内容

この本では、そもそも「理系」「文系」という区分が生まれた理由や背景を説明したのち、今の時代における科学技術教育の重要性や、「理系」の人の生き方についてなどの話題について論じています。

 

端的にいうと、「理系」「文系」に分かれた理由は「大学受験に有利だから」ということのようです。学校側としても、極力垣根は設けずに幅広く教えたいという気持ちはあるものの、大学入試を考えると理文を分けた方が効率が良く、有名大学への進学実績を作るためにも分けざるを得ないというのが本音のようです。

 

以前の記事でも書いている通り、僕自身は学生時代、理系の学部を専攻していたわけですが、当時から「理系」「文系」という区分については違和感を感じていました。今回はこの本を読んだことをきっかけに、この「理文」という切り口で考えてみたというわけです。

 

理系・文系のイメージ

まず、みなさんは理系・文系にそれぞれどのようなイメージをお持ちでしょうか?

 

理系は、学生時代に主に数学と理科系(物理や化学など)を専門とした人であると言えるでしょう。数字に強く、論理的な考え方を持っている一方、少しドライで冷たいイメージがあるかもしれませんね。また、やや理屈っぽくてどちらというとコミュニケーションがうまくない印象がある方もおられるでしょう。

 

職業としてはエンジニアやプログラマー、研究者などがぱっと思い浮かびます。いずれの職業も専門性が高く、チームで何かやるよりも一人で突き詰める方が得意なイメージです。

 

逆に文系は主に英語と国語、社会などを専門とした人です。共感能力が高くてコミュニケーションがうまく、暖かい印象を受ける人が多いのかもしれません。

 

職業としては営業やマーケティング、企画や経営、人事など多岐にわたっている印象です。どちらかというとチームでの作業を好む人が多いというイメージもあります。

 

だいぶ僕個人の偏見に満ちていますが(笑)、理系・文系に対する一般的なイメージはだいたいこのようなものではないかと思います。 

 

理文の垣根が崩れつつある?

このような理系・文系の区分ですが、最近ではこの垣根が崩れつつあるという主旨の言説を良く目にします。

 

これからの時代、エンジニアや研究者にも経営的な考え方やコミュニケーション力が不可欠であり、逆に文系の職業でもテクノロジーについての知識や数字の扱い方は知っていなければならない、というわけです。これについては読んでいる方々の多くも頷けるのではないかと思います。

 

しかし、本当に垣根が崩れつつあると言えるのでしょうか?

 

僕はそんなことは無いと思っています。その意味は、理文の垣根などというものは幻想でしかなく、そもそも垣根なんてものはもともとなかったということです 。

 

冒頭にも書いたとおり、この本の主張が正しいのであれば「理系」「文系」の区分は、あくまでも大学受験のための便宜的なものにすぎません。そう考えると、大学受験とは直接関係していない社会の仕事と、この区分が明確に対応していないのは当たり前と言えるでしょう。むしろ、現実の仕事が綺麗に理系と文系に分かれているという方がおかしいです。

 

例えば心理学は人文学という文系寄りの分野であると言えますが、そこで要求される統計学のレベルはかなり高度です。アンケート調査や統計情報から人間の行動パターンや心理状況を扱う学問である以上、そこに統計的な有意性が求められるのは当然といえるでしょう。

 

また、経済学も文系を代表する学問領域ですが、それを理解する上で数学の微分積分が必須なのは有名な話です。会計や財務、経営の仕事にも数字が付いて回ることも想像に難くないでしょう。

 

逆に、理系的な職業であっても英語が必須の人は多いということは言うまでもないでしょう。僕は世の中の全員が英語が完璧にできるべきとは思いませんが、海外のビジネスに関わる人はもちろん、そうでなくとも文献調査や情報交換のために英語ができるできないで見える世界は全く違うものになってしまいます。

 

コミュニケーション力についても今更強調する必要はないと思います。当たり前のことですが、自分一人でできる仕事というのはとても限られているので、どんな仕事をするにしてもコミュニケーション力は不可欠です。コミュニケーション力は言葉の使い方や人の社会的背景など、どちらかというと文系的な素養になるとは思いますが、理系と言われる職業であってもそれを蔑ろにすることはできません(もちろん、ここでいうコミュニケーション力は誰とでもすぐに仲良くなるという話ではないです)。

 

このように見ていくと明らかなように、それぞれの仕事に対して明確に文系職・理系職と分けることはできません。繰り返しになりますが、あくまでも大学受験用の区分でしかない文系・理系という概念を、それ以外のものに当てはめてもうまくいかないのは当たり前です。この分類は、一つの大雑把な区分にすぎませんし、とても一面的な尺度でしかありません。

 

僕は学生時代から、理系文系と区別して将来を考えることに対して違和感を覚えていました。周りの友人が言う『自分は「理系」だから英語は適当にやっておけばいい』。確かに大学受験だけを考えるのであればで正しいかもしれませんが、大学に入ってもなおそれを主張するのはやや思慮を欠いていると思います。

 

とはいえ、僕自身「理系だから歴史はよくわからない」といったことを前にブログの記事に書いた気がします。これも冷静に考えるとおかしな話で、理系であることと歴史を知っていることに直接の因果関係はありません。単純に「歴史をそこまで本気に勉強していないからよくわかっていない」というだけの話であり、「理系」と言う言葉を免罪符のように使っている点は反省すべきことだと思います。そういう意味では、今回の記事は自戒も込めた記事と言えるのかもしれません。

 

「あなた」と「こなた」を分かつもの

それでは、大学受験のための区分でしかない「理系」「文系」という概念が、なぜここまで大きなものになってしまったのでしょうか?

 

これは、大学受験を一つのゴールにしてしまっているという現代社会の風潮とは無関係ではないでしょう。人々の意識として、人生における大学受験の比重が大きいために、その時の分類が後にも影響を及ぼしているという考えはそこまで的外れでは無いように思います。

 

この論点についても言いたいことはたくさんありますが、今回はこちらはあまり深入りせずに、別の観点から見てみます。

 

今回議論したい内容は、区分を作ったがために生み出された帰属意識についてです。

 

そもそも、理文という一面的な切り口で考えたとしても、理系 or 文系といったように、明確に二極に分かれるようなものではありません。超理系科目特化の人もいれば、かなり文系寄りの理系といった人もいるわけで、簡単に二分して考えられるほど単純ではありません。これはとても当たり前のことです。

 

大学受験のためざっくりと引いた人為的なボーダーによって生まれた区分、それが「理系」「文系」というレッテルです。大学受験のお世話をする高校や予備校の立場からすれば、たくさんいる受験生を「超理系、やや理系、やや文系、超文系」と言ったクラス分けをするのは非効率この上ないですし、そうしたとしてもレッテル貼りという意味においてはあまり状況は変わりません。

 

こうして、効率化のために作られたレッテルが、逆にその中にいる人たちの行動様式やマインドセットを規定しているのではないか?というが今回の記事の核心部分です。

 

確かに「理系はこういう人」「文系はああいう人」といったように人を二分して、「あちら」と「こちら」に分けると世の中をシンプルに理解することができます。「こちら」の人は大切にすべき仲間であり、「あちら」の人とは相容れない価値観を持っている、と一括りにして考えると非常にわかりやすいです。

 

理系は文系を感情的だと罵り、文系は理系を理屈っぽいと不平を漏らす。ここまで極端なケースは少ないと思いますが、レッテルを貼って「あちら」と「こちら」で分けて考えること自体は人間が日常的にやっていることであり、おそらくこれは人間の自然な心理なのだと思います。

 

確かに内部の人たちと仲良くしたり、互いに切磋琢磨して高め合うこと自体は健全だと思いますし、推奨されて然るべきでしょう。問題は、帰属するレッテルによって自分の可能性を狭めてしまうこと、そしてなによりも仲間以外に対して排他的になってしまうことです。これは理系文系というカテゴライズに限った話ではなく、あらゆるレッテル貼りに共通することです。

 

先に述べたように「理系だから〇〇はやらなくていい」「文系だからこれだけやっておけばいい」自らのレッテルを免罪符として振りかざすことは往々にして行われています。このような形で人間の可能性を狭めてしまいうというのは非常にもったいないことのように思います。

 

また、罵り合い、時には暴力性が伴う右翼(保守派)と左翼(革新派)の対立や、互いに終わりのない報復を繰り返す宗教間対立、ユダヤ人を虐殺したヒトラー率いるナチスなどなど、内外を区別したことに伴う暴力性の例を上げれば枚挙に暇ないでしょう。「あなた」と「こなた」を分かつ考え方が排他的な対立構造を生み出し、それがエスカレートした末には不当な暴力が行使されうる、これが歴史が示してきた事実です。

 

Stand On the Spectrum

少し話がそれたので、一旦理文の対立の話に戻します。

 

これまでの思索から分かるように、大事なことは「理系」「文系」という二極的な考え方から脱却することです。その上で「あなた」と「こなた」を不可分な連続的属性と考え、その中に立つという意識を持つことが求められるのではないか?と言うのが今回の記事で主張したいことです。

 

ちょっと分かりにくいと思うので、例を使って説明します。

 

みなさんはSpectrumという言葉はご存知でしょうか?

これは連続体を意味する英語であり、日本語ではスペクトルという言葉が使われます。

 

この言葉は光の波長(色)に対して使われることが多く、可視光線のSpectrumを例にとるとイメージしやすいと思います。可視光線のSpectrumとは、赤から紫までの虹のようなグラディエーションであり、実際に「Spectrum」や「スペクトル」でGoogle画像検索をすると、このグラディエーションの画像がヒットするはずです。

 

虹に限らず、このような連続的にグラディエーション状に変化する様子、というのがSpectrumのざっくりとした説明です。ここまで書くと、僕が何を言いたいかピンときた方もいるかもしれませんね。

 

つまり、「理系」「文系」という概念を単純な二元論として考えず、緩やかにつながる連続体(Spectrum)として認識すること、そしてその中に自分を位置づける、というのが理想的なあり方ではないかと思うのです。これが冒頭に書いた「二極思考からの脱却し、その間に立つという意識を持つべき」という主張の意味するところであり、サブタイトルである「Stand On the Spetrum」につながるわけです。

 

確かに、大学入試という目的のために戦略的に科目を取捨選択する自体が悪いことだとは思いません。しかし、その考え方はあくまでも大学受験という限られた領域に最適化されたものでしかなく、人生そのものに適用するのは適切ではないように思います。

 

そして、これは「理系」「文系」に限った話ではありません。例えば、保守と革新は必ずしも両極端な考え方ではなく、多くの人は個別の論点ごとに維持すべき・変えていくべきという考え方を持っているのではないかと思います。そう考えると右翼と左翼というのは程度の問題でしかなく、安易に二分できるものではないという事が分かるでしょう。ここでも大事ことは、レッテル貼り(人為的なボーダーの規定)による安易な敵味方との区別をやめることです。

 

残念ながら、人は「白」か「黒」かを断定してくれるものに魅力を感じるものだし、意識しないとその方向に考えがいってしまうものなのだと思います。だからこそ、大学に入った後も「理系」「文系」という、もはや意味を失ったカテゴライズに執着してしまうのでしょう。残虐なヒトラーという人間にドイツの政治を託してしまったのは、決して当時のドイツ人がバカだったからではなく、人間が内と外を分けるものに魅力を感じる生物だからではないかと思うのです。

 

家族愛や仲間との絆という言葉に惹かれるのも同じ心理なのだと思います。もちろん、それ自体は大切なものであると思いますし、人生を豊かにしてくれるものでしょう。しかし、内と外を分かつ二極思考の行き着く先がユダヤ人の虐殺であることは頭に入れていていいのではないかと思えてなりません。

 

まとめ

今回は『「理系」という行き方』という本を読んで考えたことを書いてみました。ちょっと理系文系の話から飛躍のしすぎの感はありますが、そこまで突拍子のない話だとは思いませんし、最近のコラムではこの程度の飛躍はそこまで珍しくもないのでよしとしましょう(笑)。

それでは、また!