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【読書コラム】万物理論 - 感情の神聖化への抵抗

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はSF作家グレッグ・イーガン氏の長編小説「万物理論」(創元SF文庫)。グレッグ・イーガン氏は現代最高のSF作家とも名高いオーストラリアの作家さんで、非常に高度な自然科学・テクノロジーを参照しつつ、人間についての哲学的な問いに迫っていく作風が特徴的です。今回は、個人的にはマイベスト小説に迫るほどの面白さだった、この「万物理論」についてコラムを書いていきます。

 

今回はあまり小説の物語に踏み込んだ表現はしないので、そこまでネタバレは気にしなくても問題ないと思います。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

冒頭に書いた通り、今回はネタバレについてはあまりナーバスになる必要はないと思います。どうしても気になる方は読むのを控えていただくのがいいかと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のコラムの主題は、この小説の中で出てくる話題の一つ、「人間性(Humanity)」についてです。物語の中で、この「人間性」についての深い洞察が描かれているわけですが、今回は、僕なりに真に「人間性」のある行動とはなんなのか?について考えてみます。

 

もちろん、この論点は単純な結論が出せるようなものではありませんし、僕がそれに普遍的な結論を出せる立場にないことは承知しています。それでも、ひとりの人間として、このテーマについて考えるのは無駄ではないはずです。

 

それを踏まえた上で、僕が今回言いたいことは「感情豊かであることは、必ずしも人間性がある行為とは限らない」ということです。もしかしたら、これは一般的な「人間性」の認識とは異なると感じるかもしれません。しかし、この記事では、「万物理論」という小説を通して、あえて通常とは異なる観点から「人間性」について論じていきたいと思います。

 

それでは、ここから詳しくみていきましょう。

 

万物理論 - Theory of Everything

まず、この物語の内容をネタバレのない範囲で簡単に紹介したいと思います。

 

舞台は2050年代で主人公はオーストリアに住むサイエンスジャーナリストのアンドルー。この小説はアンドルーがバイオテクノロジーのドキュメンタリー番組を作る場面から始まります。「ジャンクDNA」と題されるこの番組で扱われる内容は、脳手術や人の遺伝子操作、そして今回の主題である「人間性」についてなど、現代を生きる我々にとっても興味深いものです。

 

そして、物語の中盤から「万物理論」の発表をめぐるサスペンスが展開されます。「万物理論」とはあらゆる物理法則を一つの法則に統一した理論であり、現実の物理学でも主要な課題とされているものです。現実の物理学の世界では万物理論はまだ発見(発明?)されていないものですが、「万物理論」という小説では、それを説明する学説が発表される、というifの世界を描いています。

 

僕が特に印象的だったのは、万物理論と反知性主義との戦いです。神秘主義的・反知性的な3種類の無知カルト団体が登場し、人間が世界の全てを説明する万物理論を解き明かすことに対して非難を浴びせます。こういった、知性とそれに対する抵抗の構図が、現実にはびこる反知性主義の心理に通じるものがあると感じ、非常に興味深い描写だと思いました。

 

肝心の結末については、ぜひご自身で読んでいただきたいと思います。文庫本で600ページとかなり長編であり、やや中盤だれる場面があるのは否めませんが、それでもマイベストに近いレベルの面白さを感じる小説でした。

 

人間性(Humanity)があるということ

今回のコラムのメインテーマは「人間性」です。物語の序盤に出てくる「人間性」をめぐる議論が非常に刺激的で、普段何気なく使っているこの言葉について深く考えるきっかけになりました。

 

この「人間性」について議論は「ジャンクDNA」の取材中に、ある自閉症患者団体のロークという人物とアンドルーの間でなされます。この自閉症患者の主張の主旨は、「人間の相互理解や愛を司る脳の一部を、故意に切除する選択ができるようにするべきである」というもの。この世界では、愛や相互理解を司る脳の部分の損傷が自閉症の原因であるとされ、その部分を修復する技術は確立しているにもかかわらず、そこを完全に切除してしまう自由を認めるべきであると主張しているわけです。

 

ロークはその理由を、人間の相互理解の能力とは自己欺瞞でしかないから、としています。脳を修復するということは、自分自身に欺かれることに他ならず、それを拒否する選択肢も認められるべきであるという理屈です。アンドルーはこれに対して、それは、『人間性』の根本に関わるものを取り除くことである、として激昂します。しかし、僕はこの部分を読んでいるときに、むしろロークの側に理があると感じてしまいました。

 

そして後日、ロークはこのように語ります。

 

「だれかの”人間性”に疑念を呈することは、相手を連続殺人鬼の同類あつかいすることです - そうすることで、あなたは相手の考えについてきちんとしたことをいう必要がなくなる。また、それがあたかも広範な世論であり、あなたには怒りに燃える多数派が付いていて、とことんあなたを支持しているかのような顔ができる。

 

もしあなたが、《自発的自閉症者協会》は自ら人間性を捨て去ろうとしているといったなら、それは自分には神聖な権利があるふりをして人間性という言葉を定義しているだけでなく…世界中のあらゆる人々が(中略)隅から隅まであなたに同意するはずだといっているも同然なのです」

 

この文章の迫力がすごい。これを受けてアンドルーは、ロークの「人間性」に疑問を呈したことに対して撤回・謝罪するわけですが、この文章にイーガンの強い思いが詰め込まれているように感じます。

 

こんな文章を読んでしまうと、我々がいかに軽々しく「人間性」という言葉を使っているかを痛感させられます。我々は感情を豊かに表現しない人や数字や理論で語る人にあまりにも軽薄に「人間性がない」と言ってしまいがちです。今回はこの部分についてもう少し考えていきたいと思います。

 

暖かい感情と冷たい理性

先に書いた通り、我々は無意識のうちに、感情が豊かな人は人間性があり、物事を冷静に語る人は人間性がないと考えてしまいがちです。しかし、その考え方は本当に正しいのでしょうか?

 

感情豊かな言葉や言説は確かにわかりやすく、人々の心を動かします。単調でややこしく、難解な文章はなかなか人を動かすことができない一方で、たとえそこに誇張が誤解があったとしても、わかりやすく感情に訴える言葉は人の行動すら変える力を持ちます。恵まれない子ども達への寄付を募る際、その被害を数字や統計情報で語るよりも、特定の子どもの写真や名前、具体的なストーリーを語った方が寄付をする傾向が高いというのは有名な話です。

 

また、ミラーニューロンと呼ばれる脳細胞が果たしている役割も無視できません。我々の脳の特定部位にはミラーニューロンと呼ばれる神経があり、そこが他人の行動や感情を模倣する機能を司っています。人のあくびが伝染した経験を持っている人は少なくないでしょうし、辛い思いをしている人を見ているだけで、自分までもが辛くなってしまうという人も多いでしょう。

 

こうしたミラーニューロンによる共感性の働きもあり、人は感情豊かなものに惹きつけられてしまうのです。我々はこの共感能力自体を「人間性」と呼んでいるのかもしれません。辛い人を目の当たりにしたときでも特に心を傷めず、平気な顔をしている人や、みんなが楽しく笑っているときに笑いを共有できない人を「人間性」がない人である、とレッテルを貼っているのではないでしょうか。

 

しかし、問題はこの共感能力自体は幻想でしかないということです。ロークの言葉を借りれば自己欺瞞でしかないとも言えると思います。人の痛みを本当の意味で共有することはできないし、人が何を考え、何を感じているかを他人が覗き見ることは不可能です。その意味で、意地悪な言い方をするならば、他人に共感する行為とは、他人の痛みに対して自分自身も「痛いふり」をする行為だとも言えるでしょう。

 

もちろん、僕はそれ自体が悪いことだというつもりはありません。たとえ欺瞞だとしても、極度のストレスにさらされた人に対して寄り添う姿勢を見せることで、安心感を与えることができるでしょう。結果的に人を助けることができるならば、それもまた重要なことだと思います。しかしそれは、一見冷淡で感情豊かでないけれど、論理や数字・理性で語られるものの価値を貶めるものであってはいけないと思うのです。

 

何か問題があったときに、誰かに感情的に寄り添って欲しいという気持ちと、問題を解決することに注力する行動との食い違いは、男女関係では良くあることだと言えるでしょう。そんな時、その気持ちに共感を寄せて一時的な安心感を与えることと、その問題を理性的に根本から解決することはどちらも重要だと思います。そんななかで、前者を「人間性」がある行動とし、後者を「人間性」がない行為と呼ぶのはあまりにフェアではないと感じます。

 

もちろん、数字や論理が万能ではないのは重々承知しています。しかし、数字が万能でないのと同じように、共感性もまた万能ではありません。その中で、共感性の方を優位だとする根拠はどこにもないのです。

 

感情の神聖化への抵抗

そもそも、感情と理性を比べたとき、我々はなぜこんなにも感情を重視してしまうのでしょうか?そのヒントもやはりこの小説の中にあります。

 

「おれは自分が現に置かれている状況に価値を見出しているだけだ。それだけだ、ただそれだけのことでしかない。人は不満足な状況にも耐える。人は逃れられないものを神聖化する。」 

 

「人は逃れられないものを神聖化する」。僕はこれは的を射ていると思います。むしろ、僕が日頃から思っていることが、こうして小説の中に出てきて驚いたくらいです。人はどうしても避けられない状況に対し、自分の価値を肯定するため、その状況を神聖化するのでしょう。人間は無価値だとわかっていることを、延々とやっていくだけの強さは持ち合わせていないのではないかと思うのです。

 

聞いたことがある方も多いかと思いますが「奴隷の鎖自慢」の話はまさにこの典型です(調べてみたら原典ははっきりしないようですが)。奴隷は逃れられない鎖という状況を「神聖化」し、その鎖を奴隷仲間に自慢するのです。

  

いずれにしても、人間に自分が逃れられない状況を神聖化する、という特徴があるのはある程度事実なのでしょう。ここまで言えば、僕が何を言いたいかはもう明らかだと思います。

 

つまり、人間は感情から逃れられないので、感情豊かであることを「神聖化」するということです。当たり前のことですが、我々の生活は感情と切り離すことは出来ません。目の前の人が困っていれば手を差し伸べずにはいられませんし、たとえどこにも悪意がなかったとしても、自分の周りの人が傷つくのを見ると苦しい気持ちになります。それが良いことなのか、悪いことなのかはわかりませんが、どちらにせよ我々はどうやってもこの感情の呪縛からは逃れられません。

 

だからこそ、人間は感情を「神聖化」するのではないかと思うのです。感情に従い、人に共感を寄せることは「神聖な」ことであり、人間とほかの動物を決定的に分ける要素であると考えがちです。そこから導かれる結論は、感情豊かであることこそが「人間性」であるという認識です。

 

しかし、すでに書いた通り、感情が理性より優れているという根拠はどこにもありません。理性が必ずしも正しい方向に導くわけではないのと同様に、感情に引きづられた行動もまた間違いを犯します。「君主論」でマキャベリが主張しているように、一見して慈悲深い行動が冷酷な結果を生むこともありますし、逆に一見すると冷酷に見える行為が慈悲深い結果を生むこともあるのです。

 

もし「人間性」が慈悲深い結果を生み出すことであれば、共感を寄せて感情的に行動することは、必ずしも「人間性」のある行動とは言えません。反対に、表面上は冷たい行動が回り回って慈悲深い結果をもたらしたり、余裕のある人が多少の痛みを伴うことで、余裕のない人の生活を助けたりするのであれば、それは「人間性」のある行動と言えるでしょう。

 

感情はたしかに強い力を持ちますがそれ故に大きな間違いも犯します。だからこそ、理性による冷静な判断という助けを必要とするのです。我々は感情を神聖化しやすいものであるからこそ、それに引きずられ過ぎることなく、理性的であろうとしなければならないと思うのです。これこそ、今回の記事で僕が言いたかった「感情豊かであることは、必ずしも人間性がある行為とは限らない」という言葉の意味です。

 

まとめ

今回はグレッグ・イーガン氏の「万物理論」を読んで考えたことを書いてみました。なかなか重厚なハードSF作品ということもあり、今回議論した内容はこの本で語られていることのほんの一部でしかありません。もし興味がある方がいれば、ぜひ読んでみてほしいと思います。

それでは、また!