こんにちは!
前回のモモに引き続き、今回も読書コラムを書いてみたいと思います。テーマ本は9月に読んだ本まとめでも紹介したカズオ・イシグロ氏の「わたしを離さないで」。正直この本は自分の中でも結構衝撃的な読書体験となったので、「生きる目的を考える」と題して記事を書いていきたいと思います。
おことわり
本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。
1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私が「わたしを離さないで」を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。
書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。
2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。
本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得なかったのが本音です。
3. ネタバレ
もうこれは仕方ないことですが、既読であるか、少なくとも全体のストーリーラインを知っているかでないと読んでも良くわからないと思います。特にこの本は前情報なしで読むことで最大限楽しめる作品だと思うので、まだ読んでない方は是非ご自身で読んでからこの記事を読むことをお勧めします。なんならもうこの記事は読まなくてもいいので、この作品は読んだほうがいいです(笑)
だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。
総括
私がこの本を読んで考えさせられたのは、「人間が生きる目的とは?」ということです。だいぶ壮大なテーマですね。。。
ある意味、これは人間にとっての永遠の問いと言っていいのではないかと思いますが、この物語を読んでからしばらくは、生きる意味について頭の中でぐるぐると思考をめぐらしていました。
私はまだまだ30年も生きていないので、完全な結論を下すのは難しいですが、私の中での考えをものすごく単純に言うと「生きる目的を考えてもあまり意味がない。そんなことは気にせずできる範囲で精一杯に生きればいい」という身も蓋もない物です。所謂楽観的ニヒリズムともいうべき態度ですね。もともと自分の中で考えていたことではありますが、この本を読んで、やはりこういう考え方も悪くはないのではないかと改めて思いました。
それでは、 本の内容も含めて詳しく見ていきたいと思います。
あらすじ
一応、この記事自体は既読の方を対象としているので、あまり細かいあらすじは書く必要はないと思いますが、おさらいの意味で簡単に世界観や物語の流れについて振り返ってみたいと思います。
世界観
舞台設定は1970年代前後を想定しているようですが、この世界では人間のクローン技術と医療技術が発達しています。特に注目すべきは、癌などの現実世界での難病とされる病気を治すため、臓器提供を目的としたクローン人間が育てられているという点です。このような目的で育成されたクローン人間は「提供者」と呼ばれ、本作の主人公のキャッシー・Hをはじめとした多くの登場人物が将来「提供者」となるため成長しているわけです。
物語の流れ
主人公は前述の通りキャッシー・H(通称:キャス)。物語は主人公であるキャスが過去を回想する形でトミー、ルースを中心とした友人との日常や非日常を時系列に沿って描かれています。構成は一部から三部の三部構成となっており、彼らの成長をたどりながら進んでいきます。
ざっくり言うと、第一部は養護施設「ヘールシャム」での幼少期、第二部は「コテージ」での共同生活を描く青年期、第三部がキャスが介護人として活動する現在、といったところですね。
印象に残ったこと
前述のとおり、とても衝撃的な読書体験だっため、正直この本を読んだ後もそれなりの期間この本のことばかり考えていました。私が特に心を打たれたのは、逃れえぬ使命を負った主人公達に対するやりきれなさと、そんな中で懸命に生きる姿です。
このあたりを少し細かく見ていきたいと思います。
使命の受容
文章中にもはっきり書かれていたと思いますが、「提供者」としての使命を持っていることを告げられた場面で、生徒達が比較的淡々とそれを受け入れていたことが衝撃でした。架空の設定に「たられば」を持ち込んでも仕方ないとは思いますが、もし自分だったらそんなに素直に受け入れられるのだろうか?と思ってしまいます。
また、自分が覚えている限り、この使命に対して明確に不平・不満を述べている場面がないというのも印象的です。トミーのかんしゃくはこれを本能的にわかっていたからではないか?という示唆が描かれているものの、それは、この舞台での制度や自分の使命に対する憤怒を明確に表したものではありません。
私は基本的に「可哀想」という表現が嫌いなので、あまりこの言葉を使いたくはないのですが、私が感じた感情はまさにその類のやりきれなさだったと思います。ある意味人の身勝手のために育てられる人間で、物語中の表現を使うなら「駒」であることを理解しながら、それを受けれるしかないという状況は見ていてとても辛いです。おそらくマダムがNever Let Me Goを聞いているキャスを見て感じたことも同じような感情だったんじゃないかなーと思います。
精一杯生きるということ
一方で、 全体を通して淡々と紡がれるこの物語において、大きくストーリーが展開する「動」のシーンとも言えるような場面がいくつかあります。その中で私が印象に残ったのは第二部のルースの「ポシブル」捜索のシーンと第三部のマダムの家に猶予の申し出をしに訪問するシーンの二つです。
どちらのシーンも、提供者の使命から根本的に逃れるものではなく、後者は時間的猶予を求めての行動であり、前者に至っては仮に「ポシブル」を見つけたところで何かが変わるわけではないです。また、既読の方であればご承知の通り、これらの目的は達成されることはありません。
しかし、だからといって彼・彼女らのこれらの行動が無意味なものであるとは私は思いません。自分たちの使命や与えられた役割を受け入れながらも、一縷の可能性にかけて行動を起こすことは人間にとって必要な行動だと思うからです。
未来は予測できない以上、100%結果がわからなければ行動しないというわけには行きませんし、やはり望むものを得ようと思えば不確かさは避けられないものです。だからこそ、主人公達の行動に心を打たれるのではないでしょうか。
生きる目的についての考え
ここで、当初の問いに戻りたいと思います。それは、私がこの小説を読んで感じた「人間の生きる目的とは何か?」という問いです。ここまで何度も出てきたとおり、この小説に出てくる主人公をはじめとする多くのキャラクターは、人間に臓器を提供するためだけに育てられた人間です。言い換えれば「生きる目的が明確になっている人間」と言って良いと思います。それも、自己を犠牲にして他人の命を助けるという、一般的な倫理規範から見てとても高尚な目的です。
さて、そんな設定を持ったキャラクター達に対して読者の我々が思う感情はどのようなものでしょうか?おそらく多くの人が感じる感情は、私が感じたものと同じく「可哀想」とか、そのような使命を持たせた側の人間に対して「残酷である」といったものではないでしょうか?
私はまさにこの点に矛盾を感じます。すなわち、「人間が生きる目的がなにか?」についての答えを探しながら、実際にその目的を与えられた人間を見て拒否反応をしめす、という矛盾です。
そう考えると、生きる目的を探すという行為があまり有意義なこととは思えず、むしろできる範囲の中で精一杯生きるというのが大事なことではないかと思います。ここで、冒頭で記載した「生きる目的を考えてもあまり意味がない。そんなことは気にせずできる範囲で精一杯に生きればいい」というところに繋がるわけです。
最後に、とある有名な一節を引用してこの記事を締めたいと思います。元々キリスト教に由来する言葉らしいですが、カートヴォネガットという作家のSF小説「スローターハウス5」で引用され、有名なアドラー心理学についての本である「嫌われる勇気」でもヴォネガットの小説からの引用という形で紹介されている一節です。私は特に信じている宗教はありませんが、私の人生観に凄く近い表現ということで引用したいと思います。
神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ
まとめ
今回はカズオ・イシグロ氏の「わたしを離さないで」を読んで感じたことや考えたことを書いてみました。ちょっとテーマが重すぎたかなとも思いますが、現時点の私自身の考えであることは間違いないので、私の人生観も絡めて書いてみました。
正直、世界設定やキャラクターの感情表現がかなり複雑なため、読んでいて思ったことを整理して言語化するのがかなり大変でした。分量の関係で削った部分も多いですが、私の考えを少しでもお伝えできていたら嬉しいです。
今回は提供者である主人公達にフォーカスして書きましたが、書いていてヘールシャムの運営や提供される側の人間の視点から見ても結構面白いなと思いました。もしかしたらですが、そちらの視点から感じたことも後々記事書くかも知れません。
>2020年1月17日追記:別視点からのコラムを書いてみました!
それでは、また!