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【エッセイ】Mr. Children「HERO」

こんにちは!
今回もいつもとは趣向を変えてエッセイを書いてみたいと思います。いつも書いているコラムは曲がりなりにも世の中に対するなんらかの提案や新たな問いを立てることを意識しているのに対して、今回のエッセイは極めて個人的で取り留めのない自分語りです。書きあげてから思いましたが、かなり中二病めいた内容になっているので、嫌な予感のする方は読まない方がいいかもしれません(笑)

そういうこともあり、いつものような文章を期待している方(いるのか?)には少し物足りないかもしれません。文章の流れもいつもの文章に比べればかなり勢いに任せて書いている部分が強いです。それでも、何かしら感じるところがあれば幸いです。

今回の内容は、去年の大晦日から今年の正月にかけて、読書会で知り合った友人たちとカラオケで年越しをした時に感じたことをモチベーションにしています。その時に友人が歌っていたMr. Childrenの「HERO」を久しぶりに聞いたことをきっかけに考えたことを書いてみました。

ちなみに、今回はエッセイということで、いつもの「です、ます調」ではなく「だ、である」調で書くので、いつもとは雰囲気が多少違うかもしれませんが、そこはご了承ください。

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あれは、去年の大晦日から今年の元旦にかけてのことだった。いつもお世話になっている読書会を通じて出会った友人たちと「カラオケで年越しを」という話になり、年甲斐もなくカラオケオールをすることになった。先に断っておくが、このこと自体は全く後悔していないし、この会はめちゃくちゃ楽しかったので、また同じような機会があれば参加しようと思う。

街は年越しムードになっているものの、ここ最近の僕は年越しというものにあまり大きな意味を感じなくなっていた。いや、正確にいうと、世の中で起こっているイベントごと全般に対してだ。たしか昨年の12月24日には家でプラトンの「ソクラテスの弁明」を読んでいたし、ハロウィンには何をしていたのかすら覚えていない。いつからイベントごとをそんなに冷めた目で見るようになったのかはわからないが、この手の話になると昔に見た初日の出を思い出す。

20歳くらいのころ、友人らとともにオールした後に二子玉川でみた初日の出。それ景色自体はとても美しい光景だったのは間違いない。しかし、それと同時に、これとほぼ同じ光景が24時間前にも24時間後にも広がっているだろうことに気付いてしまった。12月31日だろうが1月2日だろうが自然は構いやしない。初日の出を特別にしているのは他でもない人間だ。元旦はおめでたいのかも知れないが、それは単に人間が便宜上付けた区切りでしかない。どこかで終わりと始まりの区切りを作らなければ年が数えられないから、今の1月1日にそれが設定されているのであって(正確には、「その区切りを1月1日と呼んでいる」という方が正しい)、そこに人間を枠を超えた意味は全くない。

そのことに気づいた時、初日の出をありがたがっている自分がひどく空虚に思えてしまった。もちろんそれは、初日の出の美しい光景の価値を減じるものでは全くない。むしろ、その美しい光景が身近にありながら、初日の出という文脈でしかそこにアクセスしようとしない自分を含めた人間たちに対する虚しさだ。自然の中ではなんの意味もない1日を切り取って、それを特別なものであるかのように扱うことは、ある意味では人間の傲慢と言えるのではないかと思ってしまったわけである。

歴史的にみて古いまつりは、春分・夏至・秋分・冬至などの天体の動きに基づいたものや、当時は死活問題であった食料の収穫祭など、自然と人間との関係を重視していた。いまや、もはやエンタメ化してしまった夏祭りも、もともとは夏季に蔓延する感染症に対する祈りと、それによって亡くなった人への鎮魂の想いを込めたものであったはずだ。

つまり、かつて人類は自分たちではどうしようもない物事に対する落とし前・心の拠り所として物語の力をつかったと言える。日照り続きで作物が育たない困難に対して「自然神の怒り」という物語を作り出し、生贄を捧げることで「人間たちの」怒りを鎮める(そして恐らくそれは飢饉における口減らしの口実でもあったはずだ)。川遊びをしていた我が子の溺死という悲劇に対して、「河童に引き釣り込まれた」という物語を作り、その心を慰める。そうやって、人間はどうしてもやり場のない感情を「物語」の力をつかって乗り越えてきたのだと僕は考える。我々が「物語」を愛するのは、恐らく自然に対抗するために「物語」を積極的に利用して生き残ってきた者たちの末裔だからなのだろう。

しかし、ますます多くの困難を科学的予測が克服している現代において、物語のあり方は変質しているように思う。かつて人間と自然とを結びつけていた物語は、その片翼を失い、むしろ物語を愛するが故に物語を作り出すという再帰的構造をなしている。人間には介入不可能な天体運動に端を喫する「冬至」が、クリスマスというキリスト教の物語(人間由来の物語)へと変容していった過程はまさにそれを象徴しているといえよう。

「物語を求める欲望が物語を生む」。キリスト教の敬虔な信者の方を除けば、もはやその物語すら共有していない日本人が嬉々としてクリスマスを祝い、ハロウィン(これも、もともとは収穫祭だったであろう)で騒ぎ、最近ではイースター(これの起源は春分だ)までもを無節操に取り入れようとするのをみるにつけ、人が物語を求める欲望の強さを思い知る。隙あらば消費に結びつけようとする広告代理店業界には辟易するものの、それを可能にしているのは(それが有効なマーケティング手段として機能するのは)他でもない人々の欲望だ。

とはいえ、僕自身は懐古主義的な自然崇拝を声高に叫ぶつもりはないし、物語求めてやまない人たちを非難・批判するつもりもない。なんだかんだ言って僕自身も物語に対するフェチズムがあるのは事実であり、それに惹きつけられてしまう浅ましい人間の一人には間違いない。だからこそ、この日はこうして年越しでカラオケオールをするという年甲斐もないことに身を捧げていたわけだ。重ねていうが、この日は100%楽しみきったと思うし、この日のことを後悔するつもりは全くない。



さて、前置きが長くなった。今回のメインテーマは読書会仲間とのカラオケでの話だ。

2019年のイチ推し本を紹介する生配信をやったことや、Soul’d Outの曲で謎の盛り上がりを見せたことなど、話題にしたい内容は色々とあるものの、今回のメインはそこではない。今回話したい内容は、タイトルのとおり「Mr. Children『HERO』」だ。

2002年に発表されたこの曲。当時はかなり話題になったし、街中でも多く流されていたので、恐らく同年代の方なら一度は耳にしたことがあると思う。「ずっとヒーローでありたい、ただ一人君にとっての」というフレーズが印象的で、歌詞の内容は「臆病者の自分だけど、君にとってだけはヒーローでありたい」というナイーブながら切実な思いを綴る一曲だ。何を隠そう、当時は僕自身も好きでよく聞いていた曲の一つで、「誰かにとってのヒーローでありたい」という憧れには強い共感を抱いていた。改めて歌詞を読んでみると、父親から子どもに向けた思いであるようにも読めるが、当時は恋人との関係という文脈で認識していたと思う(実際にどちらが正しいのかはわからないし、あえてわからないように書いている気もする)。

友人がこの曲をカラオケに入力し、歌詞を眺めながらぼんやりとその歌声を聴いている時、もはやこの曲の歌詞が素直に飲み込めなくなっている自分に気付いてしまった。僕が普段このブログに書いている読書コラムを読んでいる人ならわかると思うが、そこで良くテーマにしているのが「自己と他者との関係」「自己愛の暴力性」「共感に基づく関係で生じる排他性や同調圧力」「多様性」などの概念だ。そうやって思考を重ねてきた今の僕にとって、「ただ君のためだけに生きる」ことを高らかに謳うこの曲の歌詞は、全面的に否定することはできないものの、どうしても首をかしげたくなってしまうのは必然だったと言えよう。少なくとも、今やこの歌詞に共感出来なくなってしまったのは間違いない。

それが子どもであれ恋人であれ、「誰か一人のために生きる」という生き方はとても美しいように見えるかもしれないが、そこにはある種の危うさも伴う。この場で逐一それを詳細に指摘することはしないが、外部に対する敬意の欠如や、その一人を失ったときのセーフティネットの脆弱性、コントロール不可能な他者に依存する不安定性、一人への全面的コミットを与えることによって相手に同等のコミットを求める共依存的構造などがその具体例であると言える。

もちろん、人の生き方は人それぞれであり、僕はそれ自体を非難したり否定するつもりは全くない(それが多様性を受け入れるということだ)。過去の自分を振り返ってみれば、そこに共感する気持ちも理解できる。ただ、今の僕はそれに共感することが出来なくなってしまったというだけの話だ。

そんなもやもやが残ったこともあり、年明け直後の僕の頭の中では、仕事中も、筋トレ中も、移動中も「HERO」が絶えず鳴り響いていた(それが今回エッセイを書こうと思ったモチベーションだ)。せっかくなので、もう少し突っ込んで考えてみることにしよう。

改めて歌詞を見たときに違和感を抱いたのは下記の部分だ(2番のメロ)。

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駄目な映画を盛り上げるために簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは希望に満ちた光だ

僕の手を握る小さな手 すっと胸の淀みを溶かしていくんだ
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上の二行はわかる。映画に限らずいろいろなストーリーで、盛り上げるだけのため(感動を演出するだけのため)に人の死が不自然に描かれることに嫌気が差した経験がある人は多いはずだ。そんな風に、善を描くためだけに、悲劇の象徴として「死」が描かれることに対して憤りを感じる気持ちには僕も共感できる(これはこれで割と大きな問題を含んだテーマだと思っているので、そのうちコラムで取り上げるつもりだ)。

問題は次の行だ。ここで一気に視点の移動が起こる。

人の死が描かれる壮大で大きな物語から、「中間項抜きで」身近で守るべき対象という極めて小さな物語へ、視点が極端に移動していることがわかる。このパースペクティブ(視点・遠近法)のギャップこそが「たったひとりのためのヒーローでありたい」という気持ちの源泉ではないか、というのが今回のエッセイで僕が言いたいことだ。

さらに、このパースペクティブのギャップは、この曲の冒頭にも見出せる。

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例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

愛すべきたくさんの人たちが 僕を臆病者に変えてしまったんだ
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一見すると、特に違和感もなく受け入れてしまえそうな表現だ。自分は命を捧げることもせず、それを誰かに託してしまう自分の弱さを嘆く気持ちは恐らく誰しもが少なからず共感してしまうことだろう。

しかし、冷静に考えて欲しい。「世界を救うために命を捧げない」=「臆病者」という等式はあまりにも極端すぎるのでは無いだろうか。人間は誰しもが自己防衛本能というものを持っており、世界という抽象的なもののために自分の命を犠牲するという行為には計り知れない心理的抵抗が伴う。世界のために命を捧げなければ臆病者扱いされるのであれば、恐らく世の中のほぼ全員が臆病者になってしまうだろう。

確かに、誰かひとりの命と引き換えに世界が救われるというケースを想像することは不可能ではないかもしれない。しかし、そういうケースは極稀であり、世の中の多くの問題は、みんなで工夫したり、少しづつ負担することで解決できる(もしくは多少は緩和できる)ものであるはずだ。むしろ、たとえその命をかけたとしても、たった一人の力だけで解決できる問題などほとんどなく、皆で負担を分け合いながら問題に取り組むことが重要になることの方が多いのは明らかだ。例えていうならば、環境問題を解決するために僕ひとりが死んでもその貢献度は極小のものでしかなく、それよりもみんなが少しづつ我慢する方が遥かに効果的なことは言うまでもないだろう(環境問題を単純に我慢の問題と捉えるのは問題があるが、とりあえずここでは一例として挙げさせてもらった)。

そういった中間項の妥協策を全部すっ飛ばして、「100%のコミット」か「逃避か」というイチゼロ的なパースペクティブのギャップが見られることが重要だ。大きな物語での無力感や、正義を行使することに伴う暴力性への心理的抵抗を、目の前の対象を守る(小さな物語)に全力で振り向けることで超克するという極端な発想がここにはある。

さて、ここでもう少し考えを進めてみる。それは、なぜ人はそこまで「HERO」でありたいと思うのか?ということだ。

これを考えるにあたっては、2番のサビに注目すべきだろう。

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時には苦かったり渋く思うこともあるだろう
そして最後のデザートを笑って食べる 君の側に僕はいたい
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この歌詞を改めて読んだ時、僕は今まで気づかなかった重大な事実にきづいてしまった。それと同時に、作詞者である桜井さんがいかに正直・赤裸々にその胸の内を描いていたかを知って、感嘆の念を抱かざるを得ない。

僕が指摘したいのは次の点だ。すなわち、欲望の矛先の問題である。

この歌詞における「僕」の望みは、その庇護の対象がデザートを笑って食べることではない(言うまでもなく、デザートは人生の幸福の比喩だろう)。その欲望の向く先は、庇護の対象がデザートを笑って食べる側に「僕が」いたいということだ。

これは些細なようでとてつもなく大きな違いだ。この「僕」にとって重要なのは、単に君が幸福になることではなく、「僕によって」君が幸福になることだということだ。言い換えれば「ヒーローになりたい」という言葉の本質は、「君」を守ること自体にあるわけではなく、「君」を守ることを通して自らの生きる意義を証明することにある。

予め断っておくが、僕はこれが偽善だという気はさらさらない。利他を装った利己的な感情であると糾弾するつもりもない。僕は、そもそも利他的な行為というものの本質は利己心にあると思っているし、それが悪いことだとは全く考えていない。だた、この違いを認識することは「君のためだけのヒーローでありたい」という欲求を理解する上では極めて重要だ。

端的に言えば、ヒーローという言葉の響きが示唆する通り、人間だれしもが「主人公」でありたいのである。だからこそ、自分の存在価値・存在理由を証明する「物語」を求める。かつて、どうにもできない状況を救う糧になっていた「物語」を…

しかし、世界を舞台とした大きな物語では個人はあまりにもちっぽけな存在でしかない。その中で主人公であるためには「1人の命と引き換えに世界を救う」くらい極端なことをしなければならない。もちろん、そんなことは並みの人間には不可能だ。そんな中にあって、目の前の弱者といううってつけの存在が現れた時、そこに自分の存在証明を求めることは当然の帰結と言えるだろう。いや、むしろそういう状況であるからこそ、自分の存在証明を与えてくれる(自分がヒーローになれるような)弱者を求める。これは、「僕」が拒否していた「下手な映画を盛り上げるために簡単に命が捨てられていく」構造となんら変わりはないが、そこへの頓着は全くない。

ここに見られる問題の本質、それが先に書いた「パースペクティブの極端なギャップ」ではないだろうか。言い換えれば、大きな物語と小さな物語の間の「中間項」の不在、それこそが「たったひとりのためのヒーローでありたい」という切実な思いの根底にあるのではないか、ということだ。要するに、「HERO」という曲は、物語を求める人間の欲求と、大きな物語と小さな物語を繋ぐ「中間項」がないという構造的な問題が重なって、もはや小さな物語に全力でコミットするしか生きる道がないことを嘆く歌である、と解釈できるというわけだ。

何度でも繰り返すが、僕はその感情を否定するつもりは全くない。状況が変われば、自分もそれに似た感情を抱く時もあるのかも知れない。人間が「物語」を求める欲望、主人公でありたいと言う気持ちはそれくらいに強い。

ただ、少なくとも現時点の僕にはその感情に全面的に共感できるだけのナイーブさやロマンチックさはない。この喪失を成長と言うのか退行と言うのかはわからないけど、この何の意味もない肉体をひきずって、何の意味もない内なる衝動に突き動かされ、それらに何らかの肯定的な意味づけを行おうする感情を疑いながら、自らが正しいと思う選択の連続をこなしていくしかない。

「最後のデザート」。これもまた、極めて「物語」的な人生観だと思う。残念ながら、自然がそういう風にできているという根拠は何もない。苦しかったり辛かったりしたことを乗り越えた先に幸福があるかどうかは、自然という無限の複雑性を持つ演算の結果次第だ(この無限の複雑性から、何らかの法則を見出そうとする意思が「物語」への欲求であり、現代においてそれを最もエレガントに説明しているのが「科学」であると言える)。

それまでの苦労が結実して幸福が訪れようとした直前で大災害が起こり、報いを受けることができない人も決して少なくはないだろう。それはその人達が頑張ってこなかった罰だということでは全くなく、ただただ不幸な偶然が重なってそういうことが起こったということでしかないだろう。逆になんの苦労もしていない人が、棚からぼた餅的になんの脈絡もなく幸福を手にする例だって世の中には溢れている。

残念なことだが、今の僕は「最後のデザート」を信じ、それをモチベーションにして生きていくことはできそうにない。だからこそ、何が正しいのかを考えつづけ、一つ一つの選択をせざるを得ないこの瞬間自体を楽しみながら、前に進むしかない。Mr. Childrenが歌い上げたように「たったひとりのヒーローでありたい」と考える人々に対する敬意と尊重を胸に。この状況を打開するための、「中間項」を生み出すだけの想像力と創造力が偶然にも生み出されることを期待して…