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【読書コラム】世界征服は可能か? - 「他人のために生きる」という価値観の放棄

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はオタキングこと岡田斗司夫さんの新書『世界征服は可能か?』(ちくまプリマー新書)。岡田斗司夫さんのオタク的知識が存分に活かされている一冊で、日本のアニメや漫画の悪役によって繰り返し画策されていた「世界征服」というものが「どのようなものなのか」「はたして本当に可能なのだろうか」という視点から大真面目に考察するという内容です。

ご本人が制作を手掛けた「ふしぎの海のナディア」を皮切りに、「ドラゴンボール」や「北斗の拳」「機動戦士ガンダム」などの王道のアニメから「レインボーマン」や「強殖装甲ガイバー」などのマイナーなものまで参照しながら、悪役のタイプを分類したり、その現実性について読み解いていきます。個人的に面白い思ったのが、必ずしもフィクションだけを対象としているわけではなく、ナチスドイツやアメリカ南北戦争の構造、現代の北朝鮮などの実世界の事象とも比較しながら思考を進めていくというスタイルです。導入部はバカバカしく見えるけれども、よくよく考えていくと非常に奥の深い問題だというのが分かる、そんな面白さのある一冊だと思いました。

今回はそんなこの本について考えてみたいと思います。
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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無く、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの目的は、岡田さんの考察をベースとして僕なりの「悪」を提示することです。ここで言う「悪」とは、現代の価値観に対するアンチテーゼであると言えます。本書の中で岡田さんの提示する「悪」は「人に優しく、環境に優しく。良識と教養ある世界を目指すこと」であり、それによる「世界征服は可能だ」と捉えているようですが、僕はそこまで楽観的ではありません。

今回のコラムで僕が提示したい「悪」とは『「他人のため」の行動をすべきという価値観を放棄する』ことです。もちろん、それは他人を物のように扱い、踏み潰しながら上にのし上がればいいという話では全くありません。そのあたりはおいおい説明していきたいと思います。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「世界征服は可能か」


この本の内容は大きく前半と後半に分かれています。まずは前半から見ていきましょう。

本書の前半部分で語られているのは、様々なアニメ・漫画作品における「世界征服」の目的や支配スタイルの分類と、具体的な世界征服の手順です。岡田さんと同世代の方や、やや古典的なサブカル作品が好きな方にとってはここが一番の見どころかもしれません。この記事の冒頭に述べたような種々の作品について、具体的な悪役にスポットを当てながら、物語構造や悪の組織論を組み立てていくあたりはさすがの岡田斗司夫と言ったところです。

ただ、僕がこの本で最も面白いと思ったのは、この本の後半の部分です。ここまで散々「悪」のあり方や「世界征服」のやり方を説いた上で、そもそも「世界征服は可能なのか?」というタイトルにもなっている問いに戻ってきます。ここがまさに価値観の転換が起こっている部分で、その結論は「世界を征服したとしても、実はそんなに『うまみ』がない」というものです。

これはどういうことでしょうか? その核心は『「支配者階級」を作っても、その人たちだけのために作られる「贅沢」など、今の自由社会・大衆社会の「金で買える贅沢」に比べれば取るに足りないものなのです』という言葉に端的に現れていると言えるでしょう。特権階級のために作られた物は、自由主義経済の競争によって生み出されるものの良さにはかなわないのです。この辺りは、エリートによる計画経済がうまくいかず崩壊したソビエト連邦や、未だに明確な支配階級が残っている数少ない国々(北朝鮮など)を見れば一目瞭然でしょう(余談ですが、この辺りは以前僕が「素晴らしい新世界」のコラムで書いたことにもつながってきます)。

そこでさらに、このような自由主義経済に基づいた現代において「悪」や「世界征服」が可能なのだろうかという問いを発します。ここがおそらく岡田さんがこの本の中で一番言いたいことなのだと思います。

それを一言で言うと「自由主義経済」と「情報自由化」の否定です。「自由主義経済」の問題点として貧富の格差を肯定するシステムであることを、「情報自由化」の問題点として「学ぶプロセスの軽視」を指摘した上で、これらの価値観を否定する「世界征服」が可能であるというのがこの本の結論です。「現代の悪の組織」とはボランティア形式で、エコロジー団体みたいなもので、案外ハートウォーミングな合言葉で集まっているような団体」ではないか、それが岡田さんの想像する次世代の「悪」の姿です。

冒頭に書いた通り、この主張に対して僕は否定的な考えを持っていますが、そこはおいおい説明したいと思います。いずれにしても、非常に身近で趣味的な領域から考察を進めていき、最終的に社会や人類のあり方に至るという非常に刺激的な本であったのは間違いありません。だからこそ、こうして改めて自分で考えてみようと思ったわけです。漫画・アニメ作品が大量に出てくるものの、知らない人でも読めるように一つ一つの説明はしっかりとしているので、万人にお勧めできる一冊の一つです。

悪の不可能性と正義の不可能性

この本を読んで僕の頭に思い浮かんだのは、ガンダムシリーズをはじめとした、やたらと人間関係が複雑なサブカル作品についてです。ロボットものやヒーローものというと正義が悪を打ち砕くという単純な構造のイメージを抱きがちですが、ある種の作品については正義/悪の単純な二項対立的な物語ではなく、各キャラクターがそれぞれの立場から物事を考え、自分なりに正しいと思う行動をとっているのが特徴です。主人公が対峙するのは、必ずしも世界征服を企む黒幕であったり、人類の滅亡を目論む異星人ではありません。

なぜそんな複雑な物語が求められるのか? その答えがこの本の中にあるように思いました。すなわち、わかりやすい「悪」を描くのが難しいという現実です。岡田さんも本の中で再三指摘しているように、世界征服というのは非常にコスパが悪く、あまりにも現実的ではありません。個人的に印象的だったのは「銀行強盗でもなんでも、実は非合法手段というのは効率が悪いです。犯罪は大規模・長期間になればなるほど利の薄いビジネスなんです」という部分です。これが100%正しいかというと怪しいですが、それでも一理ある考え方のように思えます。だからこそ、人はなんだかんだで真っ当に生きるのでしょう。

これこそが、わかりやすい「悪」を描くことの難しさに他なりません。大規模に「悪」を行使しようとすると非常に効率が悪いので非現実的に見えてしまいます。かと言って「悪」の規模を小さくするほど物語としてのスケールは小粒にならざるを得ません。このようなジレンマに陥るため、現実的な「悪」をフィクションで描くことは、本質的に難しいのだと思います。

このジレンマの解決法の一つは、「悪役」側のキャラクターに「たとえ効率が悪くても悪を行使せざるを得ない状況」を作ることです。一番わかりやすいのが、この本の中でも紹介されている、「機動戦士ガンダム」におけるライバル役シャア・アズナブルでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、彼が地球に対して反乱を起こしたのは、彼の所属する宇宙国家・ジオン公国が地球からの搾取に苛まれていたためです。岡田さんが「支配されそうだから逆に支配する」という形で紹介していることからもわかる通り、シャア側に「地球からの搾取」という悪を行使せざるを得ない状況を作り上げることで「悪」を描くことに成功しています。

機動戦士ガンダムという作品はこのように「悪」を描くことに成功しているわけですが、ここで一つ問題が生じます。それは、このような状況におかれて「悪」を行使せざるを得なくなったシャアを打ち倒すことが、本当に「正義」と言えるのだろうか? という問いです。あまりピンとこなければ、帝国主義時代における植民地と支配国家の関係を思い浮かべてみるとイメージしやすいと思います。搾取され続けてきた植民地地域のリーダーが支配国家に反乱を起こすことが「悪」であり、それを鎮圧することが「正義」である、と決めつけることは難しいのは言うまでもありません。むしろ現代においては、それを逆に捉える人の方が多いのではないでしょうか? それこそが、シャア・アズナブルをはじめとする「悪のカリスマ」という存在が支持を集める所以でもあるのだと思います。

さて、ここまでで「悪」を描くことの難しさと、それでも「悪」を描こうするならばぶつかるであろう「正義」の正当性への懐疑について述べてきました。しかし、問題は必ずしもそれで済むものではなく、それが、人が根本的に求める生きる意味(物語・ナラティブ)を脅かしうることにあります。人は誰しもなにかしらの形で自身の生きる意味を求めてしまうものであり、「正義」がその大きな基盤になっていることは間違いありません。

古今東西、人は「正義が悪を倒す」というストーリーを求め、創り、語り継いできました。各種の神話から指輪物語、ハリーポッターにアメコミ、最近の国内であれば半沢直樹まで、人々に広く支持される作品というのは、勧善懲悪スタイルの話が圧倒的に多いと言えます。おそらくこれは人間の「左脳」の機能によるものであると考えられますが、いずれにせよ、我々の生きる意味の根拠として「正義であること」が大きな位置を占めていたことは間違い無いでしょう。

このことと前の章で議論したことをまとめると問題点が明確になってきます。すなわち、人は「正義」であることに生きる意味を見出すものの、そもそも「正義」の正当性が揺らいでいるというジレンマです。これは、言いかれば「生きる意味」が揺らいでいると言っても良いと思います。これは日本に限らず世界各地で起こっている現象であり、過激な保守主義が台頭したり、イスラム国などいったカルト組織に身を寄せてしまう人が後を立たないのもこれが要因のひとつです。こう言った思想は「生きる意味」を失った人々に、新たな「生きる意味」を提示するからこそ、ある種の人にとって魅力的に映るのだと思います(たとえそれが他人を蔑ろにするものであったとしても)。

このような現代にあって、何が「正義」であり何が「悪」であるのかを明確にするのは不可能です。しかし一方で、現状が望ましい世界かというと、自信をもって頷ける人は多くはないでしょう。僕個人としても、絶望するほど酷い世界だとは思いませんが、現状のままで良いのかと問われると首を捻らざるを得ません。世界には未解決の課題がまだまだたくさんあります。そう考えたとき、岡田さんの考える「既存の価値観の否定」である「悪」が必要になってくるのは間違いないでしょう。今の価値観のまま物事がうまくいくとは思えませんし、状況は混迷を深めるばかりです。現状の価値観を打破する「悪」をいかに提示できるか、 それが今求められているのでしょう。

自由主義を悪に仕立てるのは可能か?

このような「悪」と「正義」の概念がゆらぐ中において、本書の中で岡田斗司夫氏が提示するのは「やさしく、エコロジーな思想」による「世界征服」です。 「悪とは既存の価値観の否定である」という定義のもと、現代の「自由主義」を否定する、という理想は、はたして有効に働きうるのでしょうか?

たしかに斗司夫氏の主張する言い分は一見すると非常に魅力的に見えます。過度な競争や抜け駆け、独り占めを排除し、富を分け合うという理想は僕自身としても理想的だと思いますし、人々がそのような意思を持ち続けること非常に重要であると考えます。少なくとも、ちくまプリマー文庫のターゲットであると思われる中高生の読者層へのメッセージなら十分であると言えるでしょう(余談ですが、ちくまプリマーの本は、本書も含めて根本的であるがゆえにハッとさせられるテーマが多く、30を超えた今でも結構好きなレーベルの一つです)。

しかし、ここでもう少し考えていきたいと思います。それは、その理想がはたしてどこまで機能しうるのだろうか?という点です。確かに、去年話題になった「FACTFULNESS」にも描かれているように、世界の不平等や貧困はここ最近で急速に減っていますし、それを推進したのが上記の思想であるのは間違いない事実です。いろんな意味での困難に喘ぐ人たちに手を差し伸べようとするやさしく、エコロジーな人たちが果たした役割は否定されるべきではないでしょう。

しかし、やはりそれはあまりにも理想主義的であると言わざるを得ないと考えます。もちろん、これはこれで必要なことであることは間違い無いですが、少なくともそれだけで全て解決するような問題ではない、というのが僕の正直な考えです。

理由はいくつかありますが、その一つが「みんなに優しい世界」は他人に優しくしなければならないという同調圧力をうむということです。これは私有財産による抜け駆けを許さなかった旧ソ連の構造に非常に近いのですが、「みんなに優しく」が高く掲げられた瞬間に、「他人には優しくされるけど、自分は優しくしない」という抜け駆け的なポジションが許されなくなります。

確かに「みんなに優しくしましょう」という標語は立派なものだと思いますが、多くの場合それは同調圧力とセットなのは忘れてはならないことだと思います。「優しい世界」は優しくない人に優しくできるほど寛容ではないのです。現代起こっている、自粛している人たちが自粛しない人を叩く「自粛監視社会」と全く同じ構造だと言って良いでしょう。「みんなに優しく」が世界征服をした暁に訪れるのは、「優しさ監視社会」であることは想像に難くありません。

僕がこの理想に賛成できない理由をもう一つあげると、そもそも多くの人は平等など求めていないのではないかという疑念です。先に話題に出した過激な保護主義の筆頭として挙げられる「トランプ政権」は格差社会がもたらしたものと文脈で語られがちですが、僕はそうは思っていません。正確にいうと、アメリカ国内というミクロなレベルでは正しいかもしれないけれど、その根本にあるのはグローバルなフラット化(格差の解消)にあると考えています。わかりやすく言うと、自身の努力や能力ではなく、情報の囲いこみや言語・制度の壁で守られていたアメリカの中流階級の人々が、途上国の発展に伴って労働を巡る競争が激化し、生活レベルを落とさざるを得なくなってきたいるというのが現実です。これはアメリカに限らず、日本を含む先進諸国の中流階級全般に言える話です。

要するに、グローバル化によって既得権益が失われることに耐えられない人が多いがゆえに起こっているのが今の潮流です。冷静に考えれば当たり前なことですが、世界が平等になればなるほど、もともと上位にいた人たちの生活レベルは下がっていくのは避けようがない事実です(実際は世の中全体の価値も増えているので、その分の補正は必要ですが)。これこそが、「そもそも人は平等など求めていない」という言葉の意味です。基本的に平等を求めるのは、平均より下の人たちであるという事実から目を逸らすべきではないでしょう(もちろん、平均より上であっても平等を求める人がいることは否定しません)。

ここまでの話をまとめると、「他人に優しく」を標語とする世界征服は同調圧力をうむ可能性が高く、さらに、そもそも人は平等を求めていない以上、必ずしも有効に働くわけではない、というのがこの章で僕が言いたいことです。もちろん、一人一人が「他人に優しくしよう」「あらゆる人に平等に接しよう」と考えること自体は重要なことです。しかし、その負の側面は過小評価されるべきでないと思います。

「他人のために生きる」という価値観の放棄

さて、ここまでで岡田斗司夫さんの主張する理想像に対して反論を加えたわけですが、否定だけから新しいものが生まれるとも思えないので、ここでは僕なりの新しい「悪」の価値観を提示したいと思います。ここでいう「悪」とは、岡田さんの本で使われている意味と同じく「既存の価値観の否定」です。

僕がこの文章で主張したいことを端的にいうと、「他人のために生きる」という価値観の否定です。身もふたもない言い方をすると、自身の内から生じる情熱や美学という極めて身勝手な情動に従って生きるという意識を持つことだとも言えます。

『「他人のために生きる」という価値観の否定』というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、これははっきり言って当たり前のことだと思います。私たちが「他人のために何かをする」場合のモチベーションが自分の側にあることは言うまでもありません。他人が喜ぶことによって自分に利益があるからこそ、一見すると「他人のため」に見えることにしているというわけです。もちろん、ここでいう「利益」とは必ずしも金銭に関することではなく(むしろ金銭のことは少ないと思います)、他人が喜ぶのを見て嬉しいとか、それによって信頼関係が深まるとか、今まで受けた借りのお返しとか、そういった精神的・心理的なモチベーションも含みます。

念のため追記しておきますが、僕自身はそれが悪いことだとは全く思っていませんし、それを偽善的だと言って糾弾するつもりもありません。これはビックリするくらい見落とされがちなことですが、利己的な行動と利他的な行動は対立する概念ではないので、たとえそのモチベーションが利己的なものであったとしてもそれが別段問題だとは思いません(というより、利己的なモチベーションを利他につなげる行為が一般に「利他的な行為」と呼ばれているに過ぎません)。

僕が問題だと思うのは、本来は自分の感情に基づいたものを「他人のため」という皮をかぶせて捉えることです。基本的に、いかに「他人のため」と自分が信じている行動であっても、動作の主体が自己にある以上、それは身勝手な行動に過ぎません。一般的には「身勝手」かどうかは、それを受けた人が満足するかどうかに左右されていると思いますが、それはあくまで結果であって、利他的な行為なるものは本質的に「身勝手」なものだというのが僕の考えです。何度でも言いますが、僕は「身勝手」だから悪いというつもりはありません。

「良かれと思ってやったことが否定され、その人が嫌いになった」「『あなたのためを思って…』と主張する人の話にうんざりする」という経験は誰しもあると思います。これらコミュニケーションのすれ違いの根本にあるのは、本来は「自分のため」の行為を「他人のため」と捉えてしまうところにあるのは明らかです。自分の身勝手を一方的に押し付けようとすれば、うまくいかないのは当たり前のことでしょう。重要なことは、自分の「身勝手さ」に自覚的になり、双方の身勝手の落とし所を探ることです。

ここまで読んだ方なら分かると思いますが、ここで僕が言っているのは他人の利益になるようなことをすべきでない、ということでは全くありません。「あくまでも自分のために他人の力になる」ということを意識できるなら、積極的に人助けをした方がむしろ満足度は上がる人の方が多いかも知れません。どのように振る舞うのがベストなのかはおそらく人によるのでしょう。他人を気にせず自分の作業に没頭することを楽しめる人もいるでしょうし、逆に人を助けることに大きな喜びを感じる人もいると思います。大事なのは、それぞれが「身勝手に」振る舞いつつ、必要なときには合意を形成することであり、合意の外側に対してイチャモンをつけることではありません。僕は「他人を気にしない自由」というのも認められるべきだと思います。

使い古された言葉ではありますが、ここまでの話をまとめると「情けは人のためならず」という一言に尽きます。結局人は身勝手にしか生きられないものなので、その身勝手さに自覚的になり、「他人のための行動をすべきという価値観を放棄する」ことが必要なのではないか、それが今回の結論です。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と見出したように、結局のところ確かなものは自分の内なるところにしかありません(これはこれで多少怪しいとは思っていますが、とりあえずここではそういうことにしておきます)。このような時代だからこそ、自分の内なる欲望に向き合うことが必要なのではないか、そんな風に思えてなりません…

まとめ

今回は『世界征服は可能か?』を読んで考えたことを書いてみました。「正義」とは何かという議論は散々され尽くされているとは思いますが、逆に「悪」とは何かという方向からアプローチしていくのも面白いと書いていて思いました。こういう新たな視座が得られるのが本を読むことの良さですね。

個人的には今回書いた「他人のために生きるという価値観を放棄する」ことは、あまりにも当たり前のことだと思ってはいますが、実際に他の方にとってはどうなのかはちょっと気になります。割と異質な考え方であると受け止めて貰えるなら書いた価値があると思えるのですが、そうでなければあまり新しい価値観にもならないかなとも思うので…。自分以外の人が世の中をどう捉えているのかはよくわからないところなので、書いていて悩ましいところですね。

それでは、また!