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【エッセイ】ねじ二本から始めるDIY - 「by yourself」から「for yourself」へ



今回はエッセイを書いていこうと思う。最近、「読書コラム」は自分の中でハードルが高くなりすぎて、時間も労力もかかるようになったので、もう少し気軽に書ける形ということでエッセイだ。割と書きやすいネタを思いついたというのも本音もあるにはある。まず、なにはともあれこの写真を見てほしい。

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ここに写っているのは、僕の部屋の一角であり、普段作業しているときに座っている座椅子の右手側にある。今回書いていきたいのは、ここに写っているなんの変哲もないねじについてだ。

今回の記事をブログに書くか、noteに書くかはちょっと悩んだが、最終的にはこちらのブログに書くことにした。noteを始めた当初の考えとしては、ストック的な文章はブログに、フロー的な文章はnoteにという、ふわっとした区分けでしかなかったわけだが、今回の文章を書くにあたってもう少しはっきりした基準が見えてきた。

それは、書くこと自体を目的としたブログと、行為の記録としてのnoteという区分だ。ちょっとわかりにくいかもしれないが、何かに対して自分なりの「考え」や「思想」に重点を置いているのがこちらで、読書会や紙の本の自炊などの「行為」に重点を置いているのがnoteだというと少しわかりやすいかもしれない。

要するに何が言いたいかというと、今回の記事は一見「DIY」という行為について書いているように見えるかもしれないが、実際にこの文章を通して僕が言いたいのはその背後にある思想や価値転換だということである。

さて、前置きが長くなった。今回の話題は冒頭に書いたように二本の「ねじ」だ。そもそも、なぜこのようなねじを取り付けるに至ったのか、というところから説明したいと思う。

ここ最近、在宅勤務が続いていることも有り、家にいる時間が以前よりはるかに長くなったわけだが、自宅でスマホをどこに置くか?という問題が浮上した。これまでであれば、家にいる時間は短かったから適当に作業机代わりのテーブルに置いておけばよかったのだが、家にいる時間が長くなるとその弊害が目立ってくる。

普段からこのブログを見ている方はわかるとおり、僕はスマホによって時間が奪われることに対してかなり強い問題意識を持っている。もちろん、主体的な目的をもって利用すれば便利このうえないデバイスであることに異論はないが、それが経済的な合理性に適合しすぎているがゆえに、利用者はある種の依存症のように時間を吸い取られてしまう。こういったデジタルデバイス依存に警鐘を鳴らす「デジタル・ミニマリスト(カル・ニューポート著)」の言葉を借りるならば、「有益かどうかは問題ではない。主体性が奪われているのが問題なのだ」ということである。

これまでならば、平日家にいる時間は限られるのでそこまで問題ではなかったが、こう四六時中家にいる状況で、常にスマホが目に入っている状況というのは好ましくない。「デジタル・ミニマリスト」を読んでからは、各種デバイスの通知は切っているし、SNSのアプリもスマホから削除したが、それでも常にそれが目に入っている状況だと触りたくなってしまうのが人間である。まさに、「僕らはそれに抵抗できない」のだ。

とはいえ、敗北宣言をするのはまだ早い。スマホをテーブルの上に置くことで、目に入ってしまうのが問題ならば、目に入らないような場所に片づけてしまえばいい。「片づけ」を「自分のリソースを目標に向かって集中できる環境をつくること」だと定義してのはメンタリストDaiGoだが、長く引きこもり生活をしている彼から学べることは多いだろう(褒め言葉)。

それならばと、スマホを全然違うところに置いておくのも一つの手なのだが、わからないことについてすぐに調べられるというスマホの機能自体はやはり手放しがたい。ふと頭に浮かんだアイデアについて調べたり、英単語のスペルや意味を確認したり、自分で書いている文章のファクトチェックしたりと、すぐに情報を確認したいことは多く、そういったケースでのスマホの瞬発力はやはり心強い。

ということで、作業中目に入らず、それでいてすぐに取り出せる場所ということで、座椅子のすぐ横の床にスマホを置いていたわけだが、流石に床に直おきはあまり美しくない。きちんとケースに入っていれば踏みつけてもすぐに壊れることはないだろうが、何かの拍子に蹴飛ばしてしまったり、コーヒーをかけてしまうと言うリスクは常につきまとう。

そこで登場するのが、今回のタイトルである「ねじ」である。ここまで長々とスマホの話をしてきて、それが「ねじ」とどう関係があるのかと思った方も多いかもしれないが、それがここでつながるのである。そう、このねじの使い方はこんな感じだ。



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なんてことはない。見ての通り、「ねじ」を使ったスマホ置き場である。そんな、なんてことないスマホ置き場ではあるが、見た目的にもスッキリしてるし、充電したいときにはすぐにケーブルに接続できるので、個人的にはなかなか満足している。ちなみにこのねじの上には100均で買ったケースを使ったiPad置き場があるのだが、そのiPadの影になって普段はスマホが見えないこともポイントだ。それでいて、必要なときにはすぐに取り出せるのも良い。

作業自体の所要時間は5分もかからないくらいだったと思うが、驚くことに、たったこれだけのことでスマホの置き場の問題は解決してしまった。ねじも家にあった物を使ったので、コストも全くかかっていない(新しく買うとしてもねじ二本などたかだかしれているだろう)。

最近、僕は「ものづくり」への興味が強くなっており、「DIY」というのもキーワードの一つだ。「Do It Youself」。「自分自身で作る」と訳されることも多く、イメージとしては、日曜大工的に自宅の家具や機材を自分で素材から作ることだと捉えている人が多いだろう。最近だと、100均ショップで素材を買ってくるおしゃれDIYのイメージのイメージを持つ人も増えて来ているのかもしれない。

はたして、今回の「ねじ二本」はDIYと呼べるのだろうか? もし呼べたとしても、かなり「ミニマルなDIY」なのは間違いないだろう。いずれにしても、これをDIYと呼ぶかどうかは僕にとってはどうでもいい。僕がここで考えたいのは、そもそも生活必需品が何でもAmazonで手に入る現代において、DIYの役割は何なのだろうか? ということだ。

これはなかなか重要な論点だと思う。確かに、かつては自分で作るほうが市販品を買うより安上がりにすむ、という明確なメリットがあった。そもそも自分の欲しいものが市場に流通していないし、流通していたとしてもそれを購入するには多大な輸送コストがかかったはずだ。このような状況においては、市販品ではなく自作品を作るメリットは非常にわかりやすい。

しかし、現代の環境はどうだろうか? Amazonという巨大な仮想市場であらゆるものが購入することができ、その広大な物流網は製品を各家庭に直接配送するところまで膨張している。そんな中にあっては自作による価格メリットは非常に少ないと言わざるを得ないし、むしろ自作のほうが高くつくことも珍しくない。自作パソコンなどはその典型的な例のひとつだ。かつては安くパソコンを組むための選択肢として存在した「自作パソコン」だが、今となっては市販品を買ったほうが(少なくとも標準的な仕様であれば)安くすむことのほうが多いと思う。労力・コスト・時間、どれをとっても市販品を購入したほうが合理的なのは明らかだ。

ここで考えられる反論は、「作ること自体が楽しいのだ」というものだろう。僕はその意見には100%同意するし、作ること自体の楽しさを見出す愛好家が存在することも否定しない。その感情はとても重要なものだと思うし、先にも書いたとおり「ものづくり」に強い興味を持っている立場からすると、作ること自体にやりがいを見出す感情には強く共感することができる。自分で作ってみることで初めて気づくこともたくさんあるだろう。

しかし、共感できることはそこで思考を止めることを意味しない。もちろん、物をつくるのが好きで趣味としてそれを追求する人はそうすればいいと思うし、それを貶めたり、批判するつもりは全く無い。ただ、僕はもう少し別の観点から捉えてみたい。もはや、DIYとは一部のマニアックな愛好家のための言葉であって、そこに喜びを見いだせない人には無関係の言葉なのだろうかと。

少し余談になるが、僕は「物を作る」学問である工学系を専攻しつつ「ものづくり」という言葉に対しては強烈な違和感を持っていた。「ものづくりは素晴らしい」「ものづくりは楽しい」この国ではある種の自己陶酔のような形で「ものづくり」という言葉を用いてきたように思う。僕の違和感はおそらくその自己陶酔感に向けられたものであり、衰退しつつある日本の産業界を直視できない人たちを象徴する言葉のように感じていたからこそのものなのだと思う。

「作ること自体が楽しい」という言葉を使い、自分で作ることにこだわる姿勢。それは「ものづくり」に酔う人たちと少し重なって見えてしまう。繰り返しなるが、趣味的な形でものを作ることを楽しむ人たちを貶めたり否定するつもりは毛頭ない。ただ、DIYという言葉をもう一度べつの視点から捉え直し、新しこと・面白いところに繋げられないかというのが今回の文章の論点である。

ここで、今回の「ねじ」の話に戻りたいと思う。これをDIYと呼ぶなら鼻で笑う人も多いだろう。はっきり言って僕の中でも、正直どうなんだという気持ちもある。しかし、重要なことは、たった「ねじ二本」を使うだけで、僕の抱えていた問題が解決してしまったことだ。なんてことはないのかも知れないし、あまりにも当たり前のことかもしれないけれど、僕はこんなに簡単に困りごとが解消してしまったことのほうに驚いてしまった。

僕は、ここにこそポイントがあると思っている。DIYの本質は物をつくるところ自体にあるのではなく、「自分の課題」に対してアプローチすることが重要なのであると。言い換えれば、「DIY」の核心は必ずしも「By yourself」にあるのではなく、「For yourself」の方にもあるのではないかと言うことだ。あらゆるものがAmazonで手に入る現代において必要なのは、あえて自分で作ることだけではなく、Amazonを使っても解決できない「自分の課題」をはっきりさせることである、というわけだ。

Amazonがあれば何不自由なく暮らせるかと問われて、「Yes」と答える人はほとんどいないはずだ。これはAmazonに限らず、世の中にあるあらゆるモノ・サービスに言えるこだろう。つまり何が言いたいかというと、必ずしも自分ではっきりと自覚していなくても、ほとんどの人は何らかの課題を抱えている、ということだ。もちろん、その全てがモノやテクノロジーで解決するとは限らないが、解決できる問題は少なくない。直接的な形で解決できる場合はもちろん、生活がちょっと便利になって気持ちに余裕ができたり、おしゃれなものを見て少し気分がよくなったりという形で間接的にアプローチできることもある。

このように、「自分の課題」に対してモノやテクノロジーによる解決を図るプロセスがDIYである、僕はそう捉え直したいと思う。それは決して単に物を作ることだけを表した言葉ではない。

これはDIY精神の権化とも言える、オープンソース開発からも見て取れる。知らない方のためにオープンソース開発という言葉を簡単に説明すると、プログラムのソースコードを開発者や開発会社が囲い込むのではなく、ネット上に公開し、利用・改善を促すことでプログラムを開発する手法である。パソコンの無料OSであるLinuxはその代表的な例だ。

そのオープンソースの教義的な本である「伽藍とバザール(エリック・レイモンド著)」に注目すべき文言がある。

これはもう不動の真実だ。最高のハックは、作者の日常的な問題に対する個人的な解決策として始まる。

おもしろい問題を解決するには、まず自分にとっておもしろい問題をみつけることから始めよう

この言葉がすべてを物語っているように思う。オープンソース開発が機能するのは、単純に無料だからというわけではなく、それぞれの利用者が使っていて感じる問題点を共有したり、それを自分で解決したりというプロセスが有効に働くからだ。レイモンド氏が書いているように、新しさや面白さの源泉は自分の問題の発見にこそある。

現代はとかくモノも情報も過剰な時代である。あらゆるものがインターネットのショールームに並べられ、広告はダイエットだの健康だの転職だの婚活だの育毛だの脱毛だの、多くの人が悩むであろうありきたりな課題にあふれている。ありきたりな課題だから価値がないと言うつもりはないが、その全てに付き合っているほど人生は長くない。自分の課題が何かがわからなければ、自分のものでない課題にリソースを費やすことになり、面白いものも生まれないし、自分の本当の課題は残されたままになってしまう。その状況には抗いたい。

これは少し余談になるが、ここのところの外出自粛の潮流を受けて、手作りマスクを始めとしたDIYの機運は高まっていると思う。おそらく、それは自宅にこもらなければならない関係上、それぞれが自身の問題に向き合わざるを得ない環境になったのが関係しているのだと思う。この文章の冒頭の僕もまさにその典型だ。

僕としては、その流れは今回の騒動でもたらされたよい側面の一つだと思う。人と合わなければ容姿に過度に気を遣う必要はなくなるし(容姿を気にすることが悪いとは思わないけれど)、人間関係の不毛なしがらみから一度距離を置くことで見えてくる自分の問題もあるはずだ。

もちろん、それは人間関係を否定するものではまったくない。他人の課題解決が何らかのインスピレーションを与えてくれることもあるし、自分の課題に対して誰かが冴えたやり方を教えてくれるかも知れない。逆もまた然りだ。そもそも、オープンソース開発はそのような生態系によってなされているという側面が大きい。僕にとっては、それが理想的な人間関係だと思う。それは決して、同じ課題を共有することで安心したり、自分と異なる課題を否定したり、誰の解決が正しいのかを競うマウンティングをしたりすることではない。



DIYで重要なのは「自分の課題」を見つけることである、それが腑に落ちたとき、「ものづくり」についても同じなのだということを理解した。「ものづくり」の本質的な意味は、ものをつくること自体にあるのではなく、何らかの課題を発見し、ものをつくることを通してそれを解決することにあるのだろう。そこまでの洞察が得られたことで、僕の中で「ものづくり」という言葉を躊躇なく使うことができるようになった。それは必ずしも一般的な意味とは違うのかも知れないけど、少なくともそういう心意気をもってこの言葉を使いたいと思う。

これから世の中がどうなるかはわからないけれど、どう転がったとしても、今の状況が与えてくれた洞察を大事にしたいと思う。自分の課題を常に見失わず、見えていない課題を探す意識を胸に。ねじ二本で作った置き場にスマホを置いて…