たった一つの冴えた生き様

The Only Neat Way to Live - Book reading, Fitness

【読書コラム】教室内(スクール)カースト - 「モテるのが正義」という価値観

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は鈴木翔さんという方の新書『教室内(スクール)カースト』(光文社新書)。この本は、おそらく誰もが一度は耳にしたことのある「スクールカースト」について論じた新書です。この本を読んで、色々と思うところがあったので、今回はこの本についてのコラムを書いていきたいと思います。

 

f:id:KinjiKamizaki:20190728201527j:plain

 

 

おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。
本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

正直にいうと、僕はこの本を読んでいて、なんとも言えない不快感を抱きました。詳細は後述しますが、新書やビジネス書、評論の類を読んでいて感情的になることは多くないので、我ながら珍しい読書体験だったことが印象的です。今回はその不快感を踏まえつつも、現代日本の教育に関して考えたことを書いていきたいと思います。

 

今回の記事で僕が言いたいのは「学校を疑う目線をもつことが必要である」ということです。僕自身は教育業界に身を置く人間ではないので、そこまで具体的に踏み込んだ提言をすることはできませんが、全体的な方向性として僕なりに思うところをまとめてみたいと思った次第です。

 

それでは、詳しく見ていきましょう。

 

「教室内(スクール)カースト」

この本の内容は、スクールカーストの当事者たちへのインタビューと、それをもとにした筆者の考察です。インタビューの対象は高校を卒業したばかりの学生や教師であり、学生としてはカーストの上位層から下位層まで幅広く聞き取り調査を行なっているのが特徴です。

 

その聞き取り調査をもとに、筆者は、このままだと「スクールカースト」は維持されてしまうことを予見しています。その上で、学校システムの改善が必要であることを提言し、現在当事者としてスクールカーストに関わっている人たちへのアドバイスを送る形でこの本をまとめています。

 

自分が学生時代、割とカースト下位に属するタイプだったこともあり、 インタビューを受けている方々の生々しい意見には、色々と考えさせられるものがあります。後程詳しく見ていきますが、特に教師陣の物言いには珍しくイライラするほどの感情を抱きました。

 

色々と思うところのある本だったわけですが、あえて残念なところをあげるならば、インタビューの母数があまり多くないことです。そのため、ここに書かれている意見だけで判断することは難しいと思います。しかし、この本の本質は、学校という制度のそのシステム的問題点を指摘したことにあります。

 

今回は僕が感じた不快感とシステム上の問題点という軸で学校制度について考えていることを書いていきます。

 

教師への憤りとシステム的問題点

この本を読んでいて僕が憤りを感じたのはインタビューを受けた教師陣の意見です。その内容を一言でまとめると、教室の運営のためにスクールカーストを積極的に活用する、というものです。つまり、カースト上位層を優遇して媚を売る一方、下位層は長いものに巻かれるだけの社会的に「使えない」生徒とみなし、スクールカーストを教室の安定のために利用しているという実態です。

 

実際のやり取りは是非この本を読んで確かめてほしいのですが、まあとにかくその言い方や考え方に憤りを覚えるわけです。学校という世界しか知らない教師が社会で「使える」かどうかの判断をすることの傲慢さや、長いものに巻かれる下位層を嘲笑する一方で上位層には媚を売るという自己矛盾、カースト下位層へのアプローチという教師としての役割の放棄、読んでいる間はそういったものに対するイライラが隠せませんでした。

 

しかし、読み終わってしばらくしてからクールダウンして考えると、少しは冷静にものごとが見られるようになりました。そこで気づいたのは、現行の学校制度のシステム的な問題点です。つまり、教師が安定した教室運営のために、スクールカーストを助長するインセンティブが働きうる、ということです。これだけだとちょっとわかりにくいと思うので、もう少し詳しく説明します。

 

教師の役割の大前提として、安定した教室運営があることは多くの人にとって納得できると思います。いかに崇高な理想を持っていても、学級崩壊を起こすようではその理想は何の意味も持ちません。生徒一人一人に向き合うことは大事ではありますが、それも学級が成り立っていることが大前提の議論です。例えば、高校の学園祭で、あるクラスだけが出し物を完成できなかったとなれば、その教師の能力を問われるのは間違いありません。

 

このように考えると、教師にとっての最優先事項はどんな形であれクラスがまとまってくれることです。このとき、教師の方針として「スクールカーストを助長し、利用すること」が合理的な選択肢として浮上します。たとえそれが理想的な形ではないとしても、カースト下位層というスケープゴートを立てることで集団の結束力を高められるのであれば、教師の利害関係としては理にかなっていると言えます。

 

これがシステム的な問題という言葉の意味です。つまり、全体にとって理想的でない行動が、個人にとっての合理的な行動になってしまうということです。このような構造から、教師がスクールカーストを助長する可能性はどこまで言っても否定できないのです。

 

もちろん、この本に書かれている教師陣は全体の一部でしかありませんし、高い理想と誇りを持って職務に当たっている教師の方もたくさんおられることは十分理解しています。しかし、教師全員に倫理を求めるのは現実的ではないし、教師も自身の生活があるので、その倫理にも限界があります。だからこそ、個人攻撃や感情論をしていても何も変わらないのです。

 

「モテるのが正義」という価値観

個人的にスクールカーストの悪影響として考えているのは、特定の価値観に異常なまでの荷重がかかってしまうことです。すなわち、学校という狭い世界での序列が、人間にとっての絶対的な価値観であるかのような認識を抱いてしまうことが問題ではないかという考えです。

 

スクールカーストとはどのような序列なのか?それはこの本の中でも議論されています。おそらく皆さんが持っているイメージにも近いと思いますが、カースト上位層の特徴をざっくりいうと「容姿が良い」「コミュニケーション力がある」「自分の意見をはっきり主張できる」あたりになると思います。これは端的に言って「異性にとっての魅力度」という一言にまとめられます。身もふたもない言い方をすれば「モテるのが正義」ということです。

 

スクールカーストが顕著になる中学から高校の時期というのは、人間が生物学的に繁殖の準備にとりかかり、性的に成熟していく時期と一致します。この時期に、異性からの目線を過剰に重視してしまうことは、人間の生物学的特性としてどうしても仕方がないことだと思います。だからこそ、異性への訴求力がそのまま権力の序列になってしまうのでしょう。

 

これは余談のうえに単なる個人的な邪推ですが、いわゆる日常系と呼ばれるサブカル作品群の登場人物が女性キャラばかりなのは、もしかしたらこの辺りと関係があるのかもしれません。「異性にとっての魅力度」を重視するスクールカースト的な価値観への反抗心があったからこそ、徹底的なまでに異性からの目を排した作品が受けたのではないか、という気がするのです(日常系への批判や皮肉の意図は全くありません。念のため)。

 

集団生活を通じて、組織の中での立ち振る舞い方を学ぶことが学校という教育機関の役割だと言えます。そういう意味でスクールカーストはある程度は必然的な存在なのかもしれません。問題は、その権力の序列に「異性への訴求力」という特定の価値観に過剰なウェイトがかかってしまうこと、そして、教師がそれを助長することでその価値観が固定化されてしまうことだと思います。

 

これも余談ですが、マスメディアとの相互作用も無視できないように思います。メディアが「異性にとっての魅力」を人間の唯一の価値であるかのような言説を垂れ流し、それに曝された学生たちがそれによるカースト構造を構築する。一方で、その価値観に染まった人たちの求めに応じて、メディアはそれを助長する発信を行う。そんな相互作用によって、この価値観が増幅されている面もあるのではないかとも思います。

 

スクールカースト的価値観のメタ化

ここまで議論してきたことをまとめると、「構造的に教師はスクールカーストを助長する方向に行動しうること」「スクールカーストにおいては特定の価値観に過剰な

ウェイトがかかること」の二点です。

 

構造的に、教師側にスクールカーストを助長するインセンティブが働く以上、現行の学校制度でスクールカーストをすぐに取り除くことは難しいです。これはこの本の中で筆者も認めているところでもあります。だからこそ、僕が必要だと思っているのは、学校以外の価値観に触れる機会を増やすことです。

 

先に述べた通り、スクールカーストにおける価値観の核心は「異性への訴求力」であり、その能力の有無によって権力の序列が決まります。もちろん、それはそれで人間にとって必要な価値観であるのは間違いないと思いますが、それだけで人の価値が決まるわけではありません。これは当たり前のことではありますが、学生にとって、学校はあまりにも長い時間を過ごす場所であるため、そこでの常識が世界の常識のように考えがちです。

 

当時自分や周りにいた人たちを振り返ったり、この本のインタビューを読んだりすると、その価値観から抜け出すことはなかなか難しいと感じます。もっと言ってしまうと、高校生に限らず、大学生や社会人でもこの価値観から離れられない人が多いのではないでしょうか。いわゆる「恋愛至上主義」と呼ばれるもので、自分が 「イケてる」存在でないことから極端に卑屈になってしまったり、見た目が「イケてない」人を下にみる気持ちなどは、心当たりがある方も少なくないでしょう。

 

僕は恋愛至上主義がそこまで悪いとは思いません。ただ世の中を見ていて、人間の価値の大部分が異性への魅力であるかのような言説があまりにも多いことに違和感を覚えます。いずれにしても、大事なことはこの価値観から脱却することです。

 

前述の通り、スクールカースト的な価値観が重要でないと言うつもりはありませんが、あくまでも数ある価値観の一つであると客観的にみることが大事です。これが「学校を疑う目線をもつことが必要である」という言葉の意味です。

 

そのために、子どもにとって必要なのは学校以外で過ごす時間を増やすことではないかと思うのです。学校のような同じ世代と教師しかいない環境ではなく、多様な年代、価値観、性別、できれば国籍の人々と触れ合う時間を増やすことで、相対的にスクールカースト的な価値観に触れる比重は下がります。学校ではやりがい・生きがいは見つけられなくとも、別の場所で自分の良さを発揮できるような仕組みが求められているのではないでしょうか。

 

もちろん、学校自体が多様な価値観を大事にし、それらを尊重できるような環境になるのが理想なのかもしれません。しかし、学校の規模や教師の負担を考えるとそれはちょっと現実的ではないでしょう。教師は教室を運営することや学力を伸ばすことで精一杯なのではないかと思います。

 

家庭で色々なコミュニティに積極的に参加出来るような、時間的・経済的余裕のある家はいいのですが、世の中はそういう家庭ばかりではありません。そのため、家庭頼りにせず、公的に支援できる仕組みが必要なのだろうとは思います。特に、余裕のない家庭の子どもにとって、学校が大きすぎる存在になっていることが問題かな、というのが今回の核心です。

 

まとめ

今回はスクールカーストについて考えたことを書いてみました。正直、書いていてやや消化不良な感は否めませんが、教育論もいろいろと意見があるのでなかなかまとまらないのは仕方がないのかもしれません。

 

なんにせよ、スクールカーストに苦しむ中高生が減るのを切に願っています。人間関係の訓練として多少辛い思いをすることは必要かもしれませんが、自ら死を選ぶほどの苦痛はやはりいきすぎでしょう。なんとかそれを救える世の中になってほしいものです。

 

それでは、また!