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【エッセイ】ここではないどこかへ

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年の瀬も迫ってきたことだし、2020年の振り返りも兼ねてエッセイという形で久しぶりにこのブログを更新したいと思う。今年の中盤以降はnoteへの投稿が中心となり、ろくにブログを更新していなかったが、年末くらいはきちんと考えて文章を書いてもいいだろう。

今年の自分を語る上でのキーワードは、「プロジェクト」という言葉だ。noteの方に定期的に書いている個人的なレベルのもの、読書会仲間との文フリ出展、さらには仕事を変えたことによる新たなプロジェクトへの参加。今年はあらゆる意味でのプロジェクトに邁進していた一年だと言える。

ここで考えたいのは、「プロジェクト」とはそもそもなんなのか、ということだ。「プロジェクトX」という番組が有名なので、なんとなく仕事や計画のようなイメージを持っている人が多いとは思うが、ここではもうちょっと幅広い視点で見てみたいと思う。

Wikipediaで軽く調べた限りではあるが、その語源はラテン語に遡るらしい。もともとはpro(前に)とject(投げる)の合成語であり、「前方に向かって投げかけること」を意味することだそうだ。会議などで使うプロジェクターや、ここ最近演出の世界で話題になっている「プロジェクション・マッピング」などはまさにこの語源から直接派生した言葉であろう。

一転して、いわゆる「計画」と訳されるような意味での「プロジェクト」においてはこの語源とどう結びつければ良いのだろうか?

明確な答えがあるものではないかも知れないが、僕の考えは「前方」を「未来」と解釈し、未来に達成すべき姿を提案すること、そしてそれに向かって進んでいくこと、それが「プロジェクト」だということだ。プロジェクターのように、未来の望ましい姿・今とは違う姿を描き出し、その実現に向けて行動していくことが「プロジェクト」の本質なのだと思う。

そういう意味で、僕個人にとってのこの一年は、「今とは違うどこか」を追いかけ続けた期間だといえるだろう。この一年を通してプログラムや電子工作の知識は一年前より遥かに成長したし、仕事としてもこれまでとは大きく異なる業界に身を置くことにした。まして、仲間と一緒に同人誌を発行するなど、過去の自分からすればまったく想像がつかないことだっただろう。

あらゆる意味で試行錯誤の一年であり、大変なことが多かったことも事実だが、それ以上に新たな物を追いかける面白さを十分に堪能したことは間違いない。

その中で、今まで自分とは内面レベルでも大きく変わったことがある。それは、目線の変化だ。

これまでの自分は、どちらかというと社会や人の繋がりの部分に興味をもっていたが、今年はどちらかと言うと新たな価値を生み出すことや、新たなことの実現に目を向けるようになったということだ。このあたりは、読んでいる本の傾向なんかを辿ってみると明らかに見えてくるからおもしろいw

今回の記事では、もうちょっとこのあたりの部分を深堀して考えてみたい。







僕がここで紹介したいのは、今年読んだ本の中でも印象に残っている「安心社会から信頼社会へ」という一冊だ。この本は山岸俊男という社会心理学者によって書かれたもので、日本の旧来のムラ社会的コミュニケーションのあり方を問うている本である。30年前の1990年出版の本にも関わらず、「安心」の崩壊と一般的信頼をベースとした人間関係の構築の必要性を説くという、今の人が読んでも一定の示唆は与える本だと思う。

今回の話に関連して参照するのは、筆者がこの本の中で提唱している「地図型知性」と「ヘッドライト型知性」に関する部分だ。これは要するに「安心社会」的な人間関係のスタイルと「信頼社会」的なそれを端的にあらわしている言葉なわけだが、それだけだとよくわからないと思うので、それぞれ簡単に紹介しよう。

「地図型知性」は筆者が「集団主義社会」と呼んでいる関係性で発揮される知性スタイルであり、まわりの人間関係を明らかにする「社会的地図」をつくる能力だ。誰と誰がどのような関係にあり、集団の中で力をもっているのが誰なのかをキャッチする能力だと言えよう。この知性の持ち主の特徴としては、『安心できる関係を求めて、安心できる相手とだけつきあっていこうとしている人たち』だということだ。つまり、相手と自分との関係性についての知識にもとづいて相手の行動を予測することで、不安(=社会的不確実性)を排除するのがこのスタイルだといえる。

一方で、「ヘッドライト型知性」は『他者の立場に身を置くこと、すなわち認知的共感ないし役割取得の能力を中心として』相手の行動を予測しようとする。相手との関係性が明確でない状況で(社会的な地図がない状況で)、相手の立場に立って考えるという能力をつかって自ら道を照らすように人間関係を築いていくというわけだ。

これは筆者の社会心理学的実験にもとづいたものであり、100%鵜呑みにできるものではないという前提は必要ながらも、なかなか興味深い視点だと思う。「地図型知性」は限られた範囲であれば効率的にコミュニケーションができる一方、そこから一歩出るとまったく通用しないという欠点をもつ。一方で、そういったケースに力を発揮するのがヘッドライト型知性だというのは言うまでもない。

誤解をおそれずに極端に言えば、前者が旧来のムラ社会的な関係、後者は西洋の個人主義的な人間関係のありかたとも対応するように思える。もちろん、そのどちらが良い・悪いと断じるようなものではないので、お互いの良いところ・悪いところを考えながら上手く取り入れていくのがベストなのだろう。

僕がこのくだりを読んだ時に、日本人のゴシップ好きの由来を見た気がした。つまり、不倫騒動や芸能人のプライベートを知りたがる欲求の根底にあるのは、人間関係の地図を作りたい欲求だということだ。

ワイドショーよく登場する「関係者の相関図」のフリップは、まさに人々の「人間関係の地図を知りたい」という欲求を満たす装置だと言える。そしてこれは、週刊誌やワイドショーに限らず、小さな共同体の中での噂話や、友人同士でやたらとプライベートを詮索してしまうことなどにも共通しているだろう。

これにはきちんとした根拠がある話ではなく、単なる思いつきにすぎないのは間違いない。しかし、ムラ社会的な集団において人間関係の地図を作ることが生き残りに寄与したのであれば、それを嗜好する特性があっても不思議ではない。

もちろん、他の人に迷惑をかけない限りに置いてゴシップを求めて週刊誌やワイドショーを楽しむ人を否定するつもりもないし、それはそれでしかたのないことだと思う。しかし、僕はそれをあまりおもしろいとは思わないし、クローズな領域の人間関係を探りあう関係が望ましいものであるとも思わない。外部を持たない閉鎖的な関係の行き着く先は、人間関係の地図の領域を奪い合うものにしかならない(マウンティングという不毛なコミュニケーションのやり方は、まさにこの構図の中で生まれているのだと思う)。

さて、この本では地図型からヘッドライト型への変革を謳っているわけだが、問題はこの本から30年たった今でも状況はほとんどかわらないということだ。むしろ、SNS等の登場によって、それがさらに加速しているようにすら思える。人々は人間関係について語り、人間関係のための人間関係に終止する。もちろん、人間は一人で生きてはいけない以上、人間関係自体が不可欠であるのは言うまでもない。しかし、人間関係それ自体が目的になったとき、それは不毛なものに発展しうる。

僕はそんな違和感から、今年はソーシャルなものからは一定の距離をおき、シンプルに自分が熱中できるものに時間をつかうようになっていた。

おそらく、そここそが今年一番考えが変わったところだと思う。以前はコミュニティ的なものや豊かな人間関係があれば良い世の中になるのではないかと考えていたが、単にコミュニティ的なモノがあるだけでは、むしろ排他的でムラ社会的な方向に傾きうることをもう少しまじめに考えるようになった。

では、必要なのはなんなのか?

現時点での僕の考えは、それこそが「プロジェクト」であり、もう少し砕いて言えばそこに「こことは違うどこか」「望ましい将来」が見えているかどうかだ。









あくまでも個人的な解釈と言う枕詞をおいたうえで、話のスケールをもう少し大きくしたいと思う。それは、現在の日本の閉塞感の要因がムラ社会的な人間関係のゲームにとらわれていることではないかということだ。

そんなことを考えたきっかけは、健康診断を受けるために行った病院で見たテレビ報道だ(僕は普段テレビを見ることがほとんどないので、テレビを見ることは珍しい)。そのときはたまたま自民党総裁選のタイミングで、菅さんが首相に選ばれた時であった。念の為断っておくが、この文章の論旨は、僕が菅首相に賛成・反対などの立場を表明するものではまったくなく、論点はその報道のされかたにある。

菅さんが首相に選ばれたことを報じた直後、アナウンサーはこのような主旨のことを言っていた(正確な表現はさすがに覚えていない)。

「菅首相が誕生しましたが、話題はすでに内閣人事の話に移っています」

僕はこの言葉を聞いた時に、強烈な違和感を抱いてしまった。それはなぜかというと、首相が決まったあとに報道される内容が、その政策や日本をどのようにしていくかの方針ではなく、あくまでも人間関係の話であったことだ。

これも断っておくが、僕はそのテレビ局やアナウンサーを批判したいわけではない。どのテレビ局なのかも確かめていないし、テレビ局が経済的合理性にしたがって報道するならば、人々が求めること(視聴率がとれること)を報道するのはある程度理解できる(報道倫理的にどうなのかとは思うけども)。

これがすでに話したこととどうつながるかは、明らかだろう。要するに多くの人は日本がどのような方向にいくのかよりも、人間関係の地図を作ることのほうに興味があるのだ。そこでは外部や将来への視点は決定的に欠落しており、あくまでも内側の政局争い(人間関係の地図の領土の奪い合い)にのみ目が向けられている。

ここから示唆されるのは、限られたパイを奪い合うこと(再分配)に集中するあまり、パイを増やす目線が明らかに蔑ろにされているということだ。もちろん、再分配を考えること自体は重要なことだと思うが、それだけではジリ貧になるのは言うまでもない。「ここではないどこか」を作り出す視点、その欠如こそが現状の閉塞感を生み出しているのではないのだろうか?

もちろん、パイを増やすこと、今とは違う未来を描くのが難しい時代なのは間違いないだろう。使い古された言い方だとは思うが、日本が明治維新期にもっていた西洋のようなモデルもない。しかし、「今・ここではない場所」を探す視点、それを人々が持てるのかどうかが重要になるのではないかと思うのである。

ここで、「星の王子さま」で有名なサン・テグジュペリというフランス作家の「人間の土地」という小説のなかの一節を引用したい。

「ぼくら以外のところにあって、しかもぼくらのあいだに共通のある目的によって、兄弟たちと結ばれるとき、ぼくらははじめて楽に息がつける。また経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと」

ここまで読んだ方であれば、もはや僕が多くを説明する必要はないと思う。ようするに、今の我々はおたがいに顔を見すぎているのではないか、ということだ。





僕は、コロナウイルスの影響で自宅でのパソコンや電子工作の時間がだいぶ増えたわけだが、そこで思うのは「ここではないどこか」は思っているよりもずっと身近に溢れているということだ。毎日同じパターンの行動し、人間関係に明け暮れていると見えなかったことが見えるようになってきたとも言えよう。

実際に手を動かしてみて意外と個人レベルでもできることは多いとわかったし、もっと些細なレベルだと、散歩するなかで家の周りにも全然しらない場所や店がたくさんあることにも気づくことができた。

昨年に何度も参加していた読書会については今年は(オフラインでは)ほとんどできたかったけど、コロナだからこそ実現できた読書会の仲間との同人誌出版も、今年体験した「ここではないどこか」のひとつだ。とくにこれは、僕一人では絶対にやらなかった / できなかったことなので、非常にやりがいのある良い経験になった。実際に自分たちで本を作れたという達成感はもちろんだが、それを作り込んでいく過程自体が得がたい経験だったことは強調してもしすぎることはない。

このように、感染症によって人間関係から距離を置かざるを得なくなったからこそ、見えてきたことのあった一年だったというのが今年の総括だ。コロナウイルスが人類の驚異であるのは間違いないし、それによって犠牲になっている方は確実にいるので、あまり軽々しことを言うのは適切ではないだろう。また、緊迫した状況が続いている医療従事者の方々には頭があがらないのももちろんだ。しかし僕にとっては、目線の方向を人間関係から逸らしてくれたという点で悪いことばかりではなかった、そのように思うのである。

来年がどのような年になるのかはまったくわからないけれど、仕事でもプライベートでも、「ここではないどこか」へつながる道を歩いていきたい。そしてそれが誰かの何かとつながることでまた新たな面白さができれば、それ以上のことはないだろう。

2020年12月31日。やりたいことを整理した「やりたいことリスト」を眺めながら、そんなことを思うのである。。。