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【読書コラム】砂の女 - 意味の探求とその挫折 -

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は日本を代表する昭和の作家の一人・安倍公房さんの『砂の女』(新潮文庫)。有名な小説なので読んだことのある方も多いと思いますが、とある中年の学校教師がひょんなことから奇妙な砂の集落に迷い込み、悪戦苦闘する話です。奇妙な物語でありながら、不思議と現代社会を生きる自分たちにも通じる部分を感じてしまい、色々と考えさせられた小説でした。今回はそんな「砂の女」を読んで考えたことを書いていきたいと思います。

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おことわり

本文へと入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回はかなりの部分ネタバレを含みます。この方の小説の醍醐味は、あらすじというよりは、むしろその芸術的な描写・表現にあると思うので、そこまで気にしなくても良いとは思います。ただ、気になる方はご注意ください。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

「砂の女」

この物語は、とある中年の学校教師の男が、昆虫採集のために砂丘へと立ち入るところから始まります。夕暮れまで昆虫採集に熱中していた主人公が、そこで見つけた謎の集落の人に一晩泊めてもらうことになったわけですが、それこそが村の人々が仕掛けたトラップなのでした。まんまと砂漠のある家に閉じ込められた主人公は、女との共同生活を余儀なくされます。

なんとなくおかしいところがあると思いつつ、次の日には帰れると信じていた主人公でしたが、そうは問屋がおろしません。集落の人々の様子や、共同生活をしている女の態度から、徐々に自分が閉じ込められていることに気づき、不満を爆発させます。主人公を閉じ込めた目的は、砂に埋まりつつある女の家を守るために、日々落ちてくる砂をどける働き手が必要だったため。それを聞いた男は、ただ砂を掻くためだけの人生はまっぴらごめんだと反発しました。

その後の男の行動原理はシンプルでした。それは、なんとしてもこの砂地から脱出することです。手を変え品を変え、なんとか集落から逃避できないか、さまざまな計略をはかるわけです。

綿密な計画が功を奏して、一度は集落からの脱出に成功したかに見えました。しかし、あと少しというところで砂地獄に阻まれてその挑戦も失敗に終わります。気を失った男が目覚めたのは、やはりまた例の女の家。どんなに逃げようとしても同じところに引き戻されてしまう、そんな蟻地獄のような状況です。

集落からの脱出に失敗した男は、こんどは別のアプローチからの脱出の手立てを考えます。具体的には鳥を捕まえて外部のメッセージを送るための罠の開発です。しかし、その途中、偶然に水の入手するための装置を発明し、以降はその装置の開発に勤しみます。そんな開発に勤しむ男を微笑ましく見守る女との共同生活を描きつつ、物語は終焉に向かいます。

これが「砂の女」の大雑把なあらすじです。安倍公房の小説一般に言えるのかもしれませんが、とても不思議で独特な雰囲気の小説です。絶対ありえないような設定ですが、それにもかかわらずなんとなくありそうな気もしてしまう、そんなところでしょうか。ただ砂を掻くためだけに生きる、そんな集落の人々の姿は、現代人の日常の比喩のようにも解釈できるでしょう。

今回は、そんな奇妙な小説「砂の女」について、男の行動原理にスポットをあてて考えていきたいと思います。

流動と普遍の狭間

この小説を語る上で欠かせないキーワードは、タイトルにも入っている言葉でもある「砂」です。物語の冒頭の部分からして、主人公が「砂」の魅力に魅せられた人物であることが明確になっていますし、物語の全体を通して幾度となく「砂」についての話が挿入されます。

では、この繰り返されるキーワードである「砂」が表すものは何なのでしょうか? ここまで徹底して「砂」にフォーカスが当てられた小説である以上、そこに何らかのイメージや象徴的意味が付与されていると考えるべきです。文中の表現を見る限り、それを一言で言うならば「流動性」という言葉がもっとも適しています。以下は物語序盤からの引用です。

その、流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。砂の不毛はふつう考えられているように、単な乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかり強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。



これが砂の本質を表している文章だと言えるでしょう。これは主人公の心の声なわけですが、ここから読み取れる男の感情は、流動し続ける砂に対するあこがれと、しがみつく(流動しない)ことに対する嫌悪です。

さて、それではこの「流動性」という言葉を考えるために、その対立する言葉について考えてみます。上記の引用の直後に「定着」という言葉が出てきますが、それをもう少し端的に言えば「普遍」と言い換えることができるでしょう。流動性が移り変わるものであるならば、その対立概念は「普遍性」という変わらないものであるのは明らかです。要するに、当初の男の感情としては、変わらない日常の「普遍」に飽き飽きした結果、砂に象徴される「流動性」を求めたと考えることができそうです。

しかし、ここで注目すべきは同じく物語序盤の下記の文章。

彼等マニア連中がねらっているのは、自分の標本箱を派手にかざることでもなければ、分類学的関心でもなく、またむろん漢方薬の原料さがしでもない。昆虫採集には、もっと素朴で、直接的なよろこびがあるのだ。新種の発見というやつである。それにありつけさえすれば、長いラテン語の学名といっしょに、自分の名前もイタリック活字で昆虫大図鑑に書きとめられ、そしておそらく、半永久的に保存されることだろう。



この文章からわかるのは、男が昆虫採集に熱中していたのは、自分の名前を昆虫の名前として残すこと「定着さえること」にある、ということです。しかし、先程の議論を振り返ってみれば、ここに明らかな矛盾があることがわかります。それは、「流動性」に魅せられた主人公が目指したのは、自分の名前を「普遍的な」ものにすることだという矛盾です。この矛盾は、物語後半に出てくる幻覚の描写にも現れています。

(対策のことなんか言っているんじゃない、おれの苦しみのことだよ……砂漠の中だろうと、沼地の中だろうと、不法監禁が、不法だってことに、なんら変りはないはずじゃないか!)
(ああ、不法監禁……しかし、人間、欲を言ってちゃ、きりがないからなあ……せっかくこうして、部落の連中からも、重宝がられているのだし……)
(糞でもくらえだ!おれにだって、もっとましな存在理由があるはずだ!)
(いいのかい、大好物の砂に、そんなけちをつけるようなことを言ったりして?)



ここで男が主張の根拠にしているのが、砂のなかだろうと不法であることには「変りはない」、ということは注目に値するでしょう。そう、あれだけ砂の流動性を熱弁していた主人公が、ここにきて流動性を否定し、普遍性を持ち出してきているわけです。この物語を読んだ方ならわかるとおり、砂の集落には砂の集落の論理があるわけです。それがいいか悪いかは別として、主人公のかつての世界の「不法」が必ずしも「普遍的な」価値観でないのは明らかで、ここで「不法であることには代わりはない」と主張するのは、砂の「流動性」の否定とも言えます。だからこそ、「砂にけちをつける」という表現が出てくるのでしょう。

振り返ってみれば明らかなように、この矛盾は「砂の女」という物語全体を貫く矛盾です。普遍性を否定して日常から抜け出したはずが、求めていたのはやはり名を残すという「普遍化」であり、あれだけ求めていた「砂」の「流動性」の中に生きる集落のやり方を否定しているわけです。

ここまでの考察からわかるのは、主人公は必ずしも普遍を忌避し、流動を求めていたわけではないということです。それは先に引用した裁判のシーンを見てもはっきりとわかるでしょう。次に考えるべきは、主人公は本当にもとめていたのは何だったのか?という問いです。

意味の探求とその挫折

男が求めていたもの。それに対する僕なりの答えは、一般的に「意味」とか「価値」などと呼ばれるものです。

この小説では、「賽の河原」というアナロジーが繰り返し用いられています。ご存知の方も多いと思いますが、「賽の河原」とは、なんの意味もないムダな努力の象徴です。この砂の集落での生活を「賽の河原」と例えた主人公が耐えられなかったのは、その生活の「意味のなさ」であったことは疑う余地がないでしょう。

それは、先ほど引用した箇所に出てきた「もっとましな存在理由があるはずだ」という言葉にも現れています。さらに、物語中盤に出てくる集落の人間との対話のなかではこのようにも述べています。

…こんな、砂掻きなんか、訓練すれば、猿にだって出来ることじゃないか……ぼくには、もっと、ましなことが出来るはずだ……人間には、自分のもっている能力を、じゅうぶんに役立てる義務があるはずだ……



これらの表現から示唆されるのは、主人公が真に求めていたのは自分の存在理由であり、自分という存在の意味だったということです。だからこそ、本質的に興味をもっているわけではない昆虫採集という方法を使ってでも、その名を残そうとしたのでしょう。主人公は本当の意味で流動性を求めていたのわけではなく、意味のない普遍から意味のある普遍への転換を求めたというのが本質ではないか、それがこの小説の僕なりの解釈です。

では、さらに思考をすすめて、その存在の「意味」とは何をあらわすのか?それを考えてみたいと思います。これはあまりにも大きな問いなので、一般的な答えをここでだすことが不可能なのは言うまでもないでしょう。ただし、少なくとも間違いないのは、「意味」をつけるのは人間であって、それ以上でも以下でもないということです。

この前提をもとに、以下の議論を見てみたいと思います。これは先ほどでてきた裁判の場面からの抜粋です。

(それなら、もっと素直にふるまってほしいものだね。いくら自分の立場が例外だからって、気に病んだりすることは、すこしもありゃしないんだ。世間には、色変わりの毛虫を救う義務がないと同様、それを裁く権利もないのだから……)
(毛虫?……不法監禁に抗議することが、なんで色変わりの毛虫なんだ!)
(いまさらそんな白を切っちゃいけないよ……日本のような、典型的多湿温帯地域で、しかも、年間災害の八十七パーセントを水害が占めているような条件において、こんな飛砂による被害なんぞ、コンマ以下三桁にもなりはしない。サハラ砂漠で、水害対策の特別立法するくらい、ナンセンスな話さ!)



「ナンセンス」という言葉が「意味がない」ことであることを考慮すれば、ここからわかることは明らかです。つまり、「意味がある」とは、多くの人がそれに「意味がある」と認めることにある、ということです。一見するとこれは同語反復的に聞こえるかも知れないですが、そうではありません。要するに、絶対的な「意味」などというものがあるわけではなく、「意味」とはあくまでも多数の人が認めることにあるというわけです。だからこそ、サハラ砂漠で水害対策を考えるのはナンセンスなのです。

そう考えたとき、主人公の心がトドメを指されたのが、集落の秘密を知ったときであるのも偶然ではありません。当初、主人公としては、自分の扱いが「理不尽・非合理」であると考えてきたわけですが、最後の最後でこれがひっくり返ります。それが正当であると全面的に認めることは難しいながらも、集落には集落の理論があり、集落から見たときに加害者側である男がその理論を覆すのは困難です。

結局の所「意味」などというものは実態として存在しないし、それこそが真の意味での「流動性」である。主人公が最終的にたどり着いたのは、そのような洞察なのだと思います。自分の名前を昆虫の学名として残すことも、砂かきに明け暮れる人生も等しく意味がないというわけです。

(いずれ五十歩百歩じゃないのかねえ……釣り落とした魚は、いつだって大きなものさ。)



この一文がすべてを物語っていると言っても過言ではないでしょう。

集落と言う中間項と日常と社会の再接続

自分の存在の「意味」の追求に挫折した主人公がたどり着いたところ、それが地下水を組み上げる装置の開発です。

この物語の結末は、読者の評価が分かれると思います。すなわち、主人公が新たな生きがいを見つけているとしてポジティブに受け取るか、それとも現状に甘んじて意味のない研究に逃避しているとしてネガティブに受け取るか、です。

僕自身も読んだ当初はちょっと判断がつき兼ねましたが、いろいろなことを考えたうえで、現時点ではこの結末をポジティブなものだと捉えています。ここまで議論してきたように、昆虫の名前に自分の名を残すことも、水の汲み上げ装置を作り上げることも、結局のところ等しく(絶対的な)意味などないというのが僕の考えです。一般的に見れば、新しい昆虫を発見するほうが「意味」のある行為であるように思われますが、それはあくまでも「マジョリティである」ということにしか根拠は求められません。

さらに、ここで以下の文章に注目したいと思います。

装置の研究は、いくつもの条件を組み合わせねばならず、意外に手間取った。資料の数は増えても、なかなかその資料を統一する法則がつかめない。さらに、正確な資料をとろうとすれば、どうしてもラジオで、天気の予報や概況をたしかめておく必要があった。ラジオは二人の共通の目標になったのである。



僕は、こここそがこの本の中で最も重要な部分だと思っています。その理由は、2つ。1つは、ラジオを通して共感関係の希薄な女との意思統合ができていること、そして何より、ラジオが自らの困りごとという日常と社会で起こっている現象を接続することに成功していることにあります。

これはなんてことのないように思えるかもしれません。しかし、それまでの主人公と社会の距離感を考えれば、その重要さがわかるはずです。

新聞記事も、相変わらずだった。どこに一週間もの空白があったのやら、ほとんどその痕跡さえ見分けられない。これが、外の世界に通ずる窓なら、どうやらそのガラスは、くもりガラスで出来ているらしい。



これは物語の中盤、久しぶりに新聞記事に触れた主人公の心の声です。ここで出てくる「くもりガラス」という比喩表現に安倍公房の作家としての力量を感じてしまうわけですが、この比喩もまた物語のなかで重要な意味を持っていると思います。おそらく、安倍公房がここで読者に訴えたかったのは、社会で起こっていることが、一見自分の近くにあるようで、そんなことは全くないという現実でしょう。

砂丘を訪れて以降、かつてないほどの激動の経験をしている主人公に対して、それまでと何ら変わりもなく流れていく世の中。あまりにも当然のことですが、男一人が社会から姿を消したことなど全くお構いなしに社会は動き続けます。

この新聞記事と「くもりガラス」という表現から暗示されるのは、社会と日常の分断です。自分の他愛もない日常と世の中で起こっていることの間に超えられない壁があり、社会における自分の存在をどう位置づけて良いのかがわからない。それを無理に押し込もうとすれば、自分の存在価値のなさを痛感せざるを得ない…

おそらくですが、主人公が昆虫採集を通じて名を残したかったのは、日常のなかに自分の存在意義を見出すことができなかったからでしょう。だからこそ、砂を掻くために生きるような生活もまた絶えられなかったのです。

もちろん、これはこの小説の中に限った話ではありません。この「くもりガラス」の役割はラジオ・新聞からテレビへと移り、現代であれば、それは言うまでもなくインターネットを指しています。

グローバルの世界で目まぐるしく動く世界と変わらぬ日常。途上国で貧困あえぐ子どもたちや海外で起こる過激なデモやテロリズムと、日本という国でのほほんと生きる自分たち。安倍公房が生きた時代に見えていた世界は今ほど広く・速くなかったのは間違いないですが、その問題の本質は変わりません。つまり、社会という名の大きな物語とちっぽけな日常の間のあまりにも大きな溝です。

だからこそ、僕は最後の場面で主人公がラジオを求めたことが重要だと思うのです。「砂丘の水の傾向を解き明かし、安定した水を得る」という極めて個人的な困りごとを解決するために、世界へのアクセスを求める。主人公のこの欲望は、分断された日常と社会を自らの課題を通してシームレスに繋げているものにほかなりません。

さらに、この小説のラスト一ページの文章もまた、注目に値するでしょう。

それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。



ここで主人公は、あれだけ憎んでいた集落の人間にたいして「水」の入手方法を共有たいという意思をもっていることがわかります。もちろん、それは自己顕示欲によるものなのかも知れませんが、男の共有した情報が集落の人間を大いに助けるであろうことは間違いありません。世界全体のほとんど人からすればなんの役にも立たない知識かも知れませんが、この集落の人にとってはこの上ない価値を持つのは明らかです。

なんの変哲もない日常の困りごとを解決するために世界の情報に接続する。そして、そこから得た、一般的にはなんの価値もない洞察を集落という中間項(同じ課題をもった集団)に還元する。色々と意見はあるとは思いますが、僕はこれこそが理想的な世界との接続のありかただと考えます。だからこそ、物語終盤の主人公はあんなにも生き生きしているようにみえるのではないか、そんなふうに思うのです。

自らの課題

それでは、なぜ主人公はそのような世界との接続をなし得たのでしょうか? 僕なりの回答は、「自分にとって解決しなければならない課題に直面し、さらに、それを直視せざるを得ない状況になったから」です。

過去の主人公の描写を振り返って見ると、本当の意味で直視しなければならない、彼自身の問題である教師としての仕事や妻との関係を直視できていたとは言い難いと思います。

おそらくそれを直視しないために固執したのが昆虫採集だったのでしょうが、それは本当の意味で主人公自身にとっての問題だったとは思えず、単に自分の名前を残すための手段でしかなかったように見受けられます。歴史に名を残すような発見は確かに人類にとっては「意味」のあることかも知れませんが、物語の中の表現を見る限り、男が新しい昆虫を見つけることの学術上の意義に興味を持っていたとはとても思えません。

しかし、ひょんなことから放り込まれた集落での生活ではそうはいきません。なんとしても解決せねばならない課題に直面したからこそ、世界へのアクセスを求めたわけです。人類にとっての「意味」の探求を放棄し、ちっぽけな自分の課題に直面したからこそなし得た接続なのです。

当たり前のことですが、人間は一人で生きていくことができないがゆえに、日常は世界と何らかのつながりを持たなければなりません。その程度ややり方は人それぞれですが、いずれにしても、日常と世界の乖離がそれを阻害しうるのは明らかです。だからこそ、ますます多くの人が小さな領域に閉じこもるのでしょう。それ自体を否定することはできませんが、僕はもう少しそれに抗って、もっとおもしろいことをしてみたい。

そのヒントがこの小説にはあります。それはすなわち、マジョリティの評価で決まるような「意味」を放棄し、自身の切実な課題を直視することです。世の中にとっては役に立たないジャンクでしかないのかも知れないし、事実、世の中にはそんなジャンクであふれているのも否定できません。しかしそれでもなお、そんなジャンクを生成することが重要なのです。真に向き合うべきなのは、世の中の役に立つ一般論ではなく、ほとんどジャンクでしかない個人の問題である。そこに現れる創意工夫こそが、おもしろさや新たな創造を生む源泉となるのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、そのためには、自分自身や自分の生成物の意味や価値を否定・放棄するのが重要なのでしょう。

「世間様から、いくら情けをかけていただいたところで、肝心の補助金をまわしていただかないことには、なんともなりません」
「だから、その補助金を獲得する運動をおこそうってわけですよ。」
「役所のきまりで、飛砂の被害は、災害補償の枠に入っちゃいないらしいんですわ。」
「それを認めさせるように、働きかければいい!」
「こんな、貧乏県に、なにが出来るもんですかね…私ら、はっきり愛想つかしております…」



この言葉で示唆されているように、資本主義・民主主義の論理はマイノリティの課題を解決するには向いていません。それは、資本主義の世界で「価値」を持つことはマジョリティにとっての「価値」に他ならないことを考えれば明らかです。もちろんだからといって「資本主義や民主主義はけしからん」と言うつもりはありませんが、それだけではカバーできないところが多いのは言うまでもありません。

さらに言えば、どんどん高度化していく世界における「価値」と、個人の「日常」を接続するのはほとんどの人にとっては極めて困難です。テクノロジーも、経済も、政治も、現代解決されていない課題の多くは複雑すぎるがゆえにそこに直接アクセスできる人間はごく限られていると言わざるを得ないでしょう。文明が高度化すればするほど、日常と世界の分断は開くばかりです。

だからこそ僕はこう言いたい。自分の「価値」や「存在の意味」を投げ捨てることが重要であると。人生の「意味」や「価値」を求めることをやめ、自らをジャンクに貶め、目の前の困難を打開ために他者とつながる。それこそが充実した生活の秘訣ではないかと思うのです。

あとがき

今回は安倍公房の「砂の女」について考えたことを書いていきました。この本の結末はどちらかというと否定的に捉えられることが多かったのではないかと思うのですが、今回の記事では、あえてそういった一般論とは別の視点から考えてみました(その理由はこの文章を読んだ方ならなんとなくわかると思います)。

気づいた方もいるかも知れませんが、今回の話は前回書いたエッセイともかなり近い関係にあります。「砂の女」からDIYとオープンソースの思想を汲み取るのは無理がある気はしないでもないですが、こうして見てみると、案外問題意識の在り処は近いのかも知れないなと思いました。

それでは、また!