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【読書コラム】零號琴 - 教養はなぜ必要か?

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は飛浩隆さんの小説「零號琴」。この作品は2018年の10月に出たばかりのSF小説です。作者の長編としては16年ぶりの作品ということで、出版された当初はTwitterなどのSF界隈は非常に盛り上がっていました。ユーモア溢れるエンタメ作品としての面白さもさることながら、「物語」という言葉をキーワードとして考えさせられることも多かったので、今回はそれについて書いていきたいと思います。

 

今回は小説の核心部分に触れるようなネタバレの記載も多いので、未読の方はご注意お願いいたします。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

ネタバレについては冒頭に書いた通りです。物語の核心に迫る内容も書いていくので、未読の方はお気をつけください。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のサブタイトルは「教養はなぜ必要か?」です。読んだことがある方は、この小説と教養という言葉に何の関係があるのかが良くわからないかもしれません。この記事ではそれを順を追って説明してきます。

 

結論から言うと、教養とは「物語のメタ化」であり、「物語の脚本を書き換えるために教養が必要だ」というのが僕の意見です。もしかしたら「物語」「脚本」と言ったキーワードから小説の内容との関係に察しがついた方もいるかもしれませんね。

 

それでは、詳細を見てきましょう。

 

本の内容

今回のコラムも前回の「スカイ・クロラ」の記事と同様に既読の方を意識していますが、「スカイ・クロラ」に比べると読んでいる方も少ないかと思うので簡単にポイントを説明します。

 

【読書コラム】スカイ・クロラ - 人生のミッションという名の退屈凌ぎ - たった一つの冴えた生き様

 

物語の舞台は「美褥」という惑星です。やや東洋的で独特の文化を持つ惑星「美褥」ですが、中でも特徴的なのが、人々が「假面」と呼ばれる特殊な仮面をかぶって「假劇」と呼ばれる劇を行うと言う奇妙な伝統です。そして、この「美褥」に住む人々は歳をとらず、壊滅的なダメージを受けなければ何度でも蘇ることができると言う、とても不思議な特性をもっています。

 

物語はこの美褥の開府500年記念祭に行われる「假劇」を巡って進んでいきます。この記念祭で鳴らさせれると伝えられる伝説の秘曲こそがタイトルの「零號琴」というわけです。

 

このときに演じられる「假劇」は美褥に伝わる神話とプリキュア・ゴレンジャーのマッシュアップという非常にカオスなもので(笑)、そのノリとテンションがめちゃくちゃ面白いのですが、今回はそこは直接は関係ないので詳細は割愛します。 

 

いきなり物語の中核となるネタバレの話となりますが、最終シーンで明かされる真実は、この美褥に生きる人々は実は「ムヒ(漢字が出ない。。。)」と呼ばれる特殊生物であり、その「ムヒ」たちが人間のふりをして生活を営んでいたにすぎなかった、という事実です。本人たちを含め、美褥に住んでいる人たちは誰もが人間だと信じていましたが、実はそうではなく、ムヒという生物が人間の役割を演じていただけだったという悲しい真実です。

 

このムヒと呼ばれる生物は、共感能という能力を持っており、近くの生物の感情に共感して自身の形状を任意に変えることができます。この能力を使って人間の形を模倣していたというわけです。

 

過去、人類同士の争いにより、美褥世界は人間が生きていくことができない環境になってしまいました。この事実に直面した過去の人間達(これは文字通りの人間)は、物語を作り、ムヒにそこで生きる人たちの役割を与えて惑星の運命を託しました。各個人を残して生きていくことができなくなった人類が、個を放棄してでも美褥世界が存続できる道を探した末の苦渋の選択です。

 

ちなみに、先に述べた特徴的な伝統である假面と假劇は、先人達によって作られた物語を忘れないために生み出された装置だったことが明らかにされます。

 

文章にするとあっけないですが、物語のなかで少しずつ明かされていく真実が非常に刺激的で面白い本でした。上記の説明だと未読の方はあまりピンと来ないと思うので、興味を持った方は是非自分の目で確かめてほしいと思います。

 

しかし、その一方、この小説の中で語られる「物語の中で生きるムヒ」の姿には少し思うところがありました。今回はその引っ掛かりを元に思索を進めていきます。

 

美褥世界の考察

さて、本の内容で解説した通り、この小説の舞台となっている惑星「美褥」はいわば作られた世界だったわけです。この内容から「物語」とは何なのかについて考えてみたいと思います。

 

端的にいうとその構成要素は、共有する過去、役割分担、そして約束事の三つではないかと思います。もちろんこの3つだけだとは思いませんが、この本を読んでいて、この3つがムヒを人たらしめていた物語を構成する大きな要素ではないかと思いました。

 

まずはなんといっても共有する過去です。美褥では、皆が同じ神話を共有することで一体感を生み出していました。それは過去の人類が経験した災厄をもとに創作されたものでしたが、その物語が人々を結びつけ、美褥の人々の一体感を作り出していたことは間違いありません。美褥の住人のみんなが参加する假面と假劇がまさにそれを象徴しています。

 

そして美褥の人々を結びつけていたものの一つとして、役割分担が挙げられます。この世界では仮面職人、脚本家、假面屋、企画屋などの職能組織が高度に発達していました。おそらく、その役割分担も過去の人類によって創作されたものでしょう。それぞれの人(正確にはムヒですが)が役割を与えられ、それを全うすることによって共同体が運営され、假劇という伝統が語り継がれてきたわけです。

 

最後に約束事。美褥世界の意思決定のやり方である合議制や蘇りのシステムが美褥世界を継続させるにあたって大きな役割を持っていたことは想像に難くありません。特に蘇りのシステムは非常に面白く、永遠の命を持つムヒという存在にとって、長期にわたって社会を維持するため、このようなシステムが必要だったという解説にはなんとなく納得してしまいます。美褥の人々が蘇りのシステムという生物学上は不要なものを、当たり前のように受け入れていたのは、皆がそれに合意した約束事だったからに他なりません(ムヒに対して生物学上という言葉が適切かは微妙ですが)。

 

物語におけるこれらの要素が、美褥世界の安定に寄与していたのは間違いないでしょう。過去の人々が、これらのどこまでを意識して設計したのかはわかりませんが、極めて合理的な社会設計であるように思います。

 

人々が共有する過去を持ち、共同体を形成することは、社会にとっての強力なリスクヘッジになります。端的にいうと、共同体のうち誰かが偶発的に死んでしまったとしても、美褥世界は継続することができるということです。株式投資をする際、一つの銘柄に全てをかけず、分散して投資することで、一つの会社が潰れても致命的なダメージにはなりにくいことを想像するとわかりやすいかもしれません。

 

また、役割分担は社会の発展の効率化に大きく寄与します。現在、企業を初めとする多くの組織が業務の効率化のために分業をしていることは今更説明するまでもないでしょう。ある程度の大きさの組織になったとき、一人で全ての業務を覚えるのは非常に効率が悪いので、それぞれの専門に特化することで組織全体を効率化させるわけです。

 

そして、約束事は世の中の安定に寄与し、効率的なコミュニケーションや意思決定を可能にします。多くの人が意思決定をする際、全ての人の意見を全て取り入れることはあまりにも非現実的です。だからこそ、職能組織のトップによる合議によって物事を決めると言う約束事が必要になってくるわけです。

 

このように、共有する過去、役割分担、そして約束事を含んだ物語の設計がされていたからこそ、ムヒによる空虚な営みでしかない美褥世界が安定して存続し続けたと言っても過言ではないでしょう。

 

人間と物語

ここまでの美褥世界につての考察を見ていくと、その構造が我々の人間社会となんら変わりないことに気づくでしょう。美褥世界が存続し続けた理由は、そのまま人間がここまで生き延び続けた理由であるといってもいいと思います。

 

そのような立場で考えたとき、人間の持っている特性が物語に驚くほど適合しているのがわかります。

 

まずはなんといっても人間の持っている共感能力です。人間の脳にはミラーニューロンという神経細胞があり、それにより他人の気持ちに共感することができます。他人との関係を作るうえでこの神経細胞が担っている役割は大きく、他人との共感はもちろん、共同体の過去(過去の人間たち)に共感することで、共同体の価値観を信じることができます。

 

また、人間は本質的にマルチタスクが苦手だと言われています。勉強や仕事に集中しているときに、声をかけられると一気に能率が落ちてしまうと言う経験は誰しもあると思います。つまり、基本的には人間は同時に複数のことができず、一つのことに集中することで最大の能力を発揮できる生き物です。このような、集中によるベストパフォーマンスの発揮が分業制と適合しているというのは言うまでもないでしょう。

 

これは以前別の記事でも書きましたが、そもそも人間は多すぎる選択肢が苦手という特性があります。それを解決してくるのが共同体の約束事です。共同体の約束事が、「良い事」と「悪い事」を教えてくれるので、膨大な選択肢に戸惑うことはあまり多くありません。我々はムカつく相手がいたとしても、その人を殺すかどうか迷う必要はありません。なぜなら、人を殺すことは「悪い事」だと共同体の約束事として決まっているからです(もしかしたらこの例えだとちょっと納得できない人もいるかもしれませんが)。

 

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このように、人間は物語に対する適合性が恐ろしく高いことがわかります。

 

ここまでの議論を簡単にまとめると、物語は生き残りに非常に有利になるものであり、人間は物語に適合しているということです。だからこそ、人間は発展し続け、地球の覇権を握るに至ったのではないかと思うのです。

 

さて、ここで「共有する過去」、「役割分担」、「約束事」という構成要素を持つ物語の典型例としてあげられるものは何か考えてみましょう。ここまでの話で仄めかしがあったので、ピンときた方もいるかもしれませんが、この物語の典型的な例が「宗教」です。

 

言うまでもなく、宗教には共有する過去として神を正当化するための「神話」があります。そして、多くの場合は神の代弁者たる預言者やシャーマン(巫女)を筆頭とした分業制を持っています。さらに、約束事として「教義」や「聖典」を持っていることは誰の目にも明らかです。

 

そのように考えると、世界各地の人間社会の中で自然発生的に宗教が生まれたことはそこまで驚くに値しないのかもしれません。

 

僕はもともと、当時交流があったとは思えないほどの広範囲の各地に同じように宗教が発生したことが不思議で仕方ありませんでした。しかし、これまでの議論を考慮すると、宗教は発生するべくして発生したのではないかとも思えます。さらに、その物語を徹底して実践したキリスト教世界が中世までの世界の覇権を握っていたのも歴史の必然だったのかもしれません。

 

もちろん、物語に適合する特性自体は今の我々も引き継いでいると思います。物語はなにも宗教に限った話ではなく、この世の中に存在するあらゆるコミュニティに存在するものだと思います。というより、コミュニティ自体が一つの物語だと言えるのかもしれません。学校、企業、国家、地方公共団体、NPO。それぞれの団体がそれぞれのレベルで共有する過去・役割分担、そして約束事を持ちながら、その共同体を営んでいるというわけです。

 

そういう意味では、我々も物語の中を生きる住人だと言えるでしょう。共有する過去として歴史を学び、法律・倫理・契約と言った約束事で結びつき、役割分担することで効率的な社会を形成する。これが現代の人類が信じている「物語」です。

 

物語が誰かに創作されたものなのか、自然発生的に生じたか、という違いはあるものの、本質的には今を生きる人類と美褥で生きるムヒたちとはなんら変わるところはありません。

 

教養と実用と

ここまで筆を進めたところで、ようやくサブタイトルの内容につながって来ます。つまり、先の章で述べた項目(宗教、歴史、倫理など)はまさに教養と呼ばれるものに一致するということです。そう考えたとき、教養とは『「物語」を学ぶ事である』とわかります。

 

もう少し詳しく「教養」という言葉を理解するために、対義語と考えらえる「実用」との比較をしてみましょう。

 

皆さんは、「実用」という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

 

もう少しわかりやすく言い換えると、「実用的な」知識とは何かを考えると想像しやすいと思います。パッと思いつくのは、英語、コミュニケーションスキル、会計、プログラミングなどです。これらの知識が「実用的な」知識である、という主張に異を唱える人は多くないと思います。

 

我々は、普段の仕事や生活に根付いたものを「実用」というわけです。「教養」はすぐに役立つものではない、とよく言われますが、それに対して実用はすぐに役にたつものと言えるでしょう。英語ができればビジネスチャンスは大きく広がりますし、コミュニケーションスキルがあると生活面でも仕事面でも円滑な意思疎通ができるようになります。また、プログラミングや会計の知識・スキルがあれば働き口の幅はぐっと広がるでしょう。

 

これらの実用的知識の共通点をまとめると、今を生き抜くために必要な知識であると言えます。言い換えると、今の物語の中で生き抜くための知識が「実用的な」知識であるというわけです。ゲームのプレイヤーとしてルールの中で戦うためのノウハウと言っても差し支えないかもしれません。

 

この「実用」との対比によって「教養」という言葉の意味が見えてきます。つまり、「実用」が物語の中で生きるための知識であるならば、「教養」はその物語自体を理解するための知識だということです。

 

今の物語の根底にある価値観や倫理・哲学はなんなのか?

どのような経緯で世界が今の形になったのか?

どのような社会が過去成功し、失敗したのか?

その要因はなんだったのか?

歴史が明らかにする人間という種の特性とはなんなのか?

今の物語の問題は何か?

 

このような問いを続けながら、今の物語を少しでも望ましいと信じる方向に変えていく。そのために必要な知識や、それに伴う果てしない自問自答こそが教養ではないかと思うのです。

 

わかりやすくいうと、自分の周りの狭い範囲の物語で生き残る術を学ぶのが「実用」、自分とは空間的にも時間的にも離れた物語を含めてその全体を学ぶのが「教養」といってもいいのかもしれません。

 

自己を取り巻く物語を盲信するのではなく、自らの属する物語を「メタ的に」捉える視点こそが教養の本質だと思います。

 

たまに、歴史を学んでも役に立たないからもっと実用的な英語やプログラミングを学ぶべきという意見を見かけます。僕はそれはそれで間違っているとは思いませんし、実用的な知識が不要だとも思いません。しかし、問題はそのノウハウは今の物語の中で役にたつものでしかないということです。

 

僕がここであえて強調するまでもなく、世界を支配するルールは驚くほどのスピードで変わり続けています。今の物語で実用的だった知識が、あっという間に陳腐化してしまうというケースは枚挙にいとまないです。リアルタイムの自動翻訳の技術が発達すればもはや英語を学ぶ必要性は薄れてくるでしょうし、プログラムを書くプログラムの技術が発達すれば、人間がプログラミングをする必要がなくなるかもしれません(自動プログラミングについては知識が十分でないので、どこまで出来るのかはちょっと僕自身は判断しかねますが)。

 

いずれにしても大事なのは、今の社会を作っている物語がどのように変わっていくのかを考えることです。場合によってはその物語を、いかに変えていくのかを考えなければならないかもしれません。ルールを変え、物語を作っていくためには今の物語の中の役者として一喜一憂するだけでなく、今の物語をメタ的に眺める視点が必要です。

 

これが冒頭の、教養とは「物語のメタ化」であり、「物語の脚本を書き換えるために教養が必要だ」という言葉の意味です。

 

AI時代における物語の意味

以降は余談になりますが、今回の結論はコンピュータ・AI時代において特に重要になってくることでもあります。

 

コンピュータは決められた物語・ルールの中で圧倒的な計算スピードと膨大な記憶容量という物量を武器に最適を見出すのが非常に得意です。そのため、人間がコンピュータと同じ土俵で戦っても勝ち目はありません。人間のやっている手続きが明確な言語で記述でき、物理的な制約がなくなったタイミングで、その土俵から人間ははじき出されてしまいます。

 

しかし、今のところコンピュータは複雑な物語・ルールを規定することはできません。AIについての知識がある方であれば聞いたことがあるかもしれませんが、AIにおける本質的な困難としてフレーム問題というものがあります。フレーム問題をざっくりと説明すると以下のようになります。

 

『「全ての状況を想定するAI」を作ろうとすると、当然このAIは無限の事象を想定して行動を判断する必要がある。しかし、無限の可能性を処理するためには無限の計算時間がかかるので、結果としてAIは永遠に動き出さない』という問題です。

 

このようなフレーム問題を人間の脳がどのようなアルゴリズムで回避しているのかは定かではありませんが、少なくとも人間は永遠に動かないということはないので何かしらの形でこのフレーム問題を回避しているわけです。人間はなにがしかの方法で課題を有限の時間で処理できるように「フレーミング」しており、ここが現代におけるAIと人間を隔てている本質的な差異であると言えます。

 

現代のAIを動かすためには、AIがどんな問題を解けばいいのかを人間が指定する必要があるのが現実です。このように、人間が課題解決のための「フレーミング」を指定してやって初めて、AIがその能力を存分に発揮できます。Aiはあらゆる可能性を有する現実の課題を直接は解くことができない一方で、将棋や碁といった有限の指し手というルールを持った「フレーム」を与えた瞬間に、人間を上回るほどの猛威を振るうことを思い出していただけるとイメージしやすいと思います。

 

ここまで話せばもう察しはついたと思いますが、この「フレーミング」が今回議論してきた「物語」に対応する、というのがここで僕が言いたいことです。人間がすべきことは「方程式を解くこと」ではなく、「目の前の課題を解決するためにはどんな方程式を解けばいいかを決める(フレーミングする)」ことです。だからこそ、今の時代を生きる人たちに教養が必要なわけです。

 

もちろん、AIが永遠にフレーム問題を解決できないと言える根拠は全くありません。AIがフレーム問題を解決できない理由は、人間がどのようなメカニズムでフレーム問題を解決しているのかがよくわかっていないためではないかと思います。つまり、このメカニズムが明確に解明され、アルゴリズム化ができた時点でAIはフレーム問題を克服できるはずです。

 

(人間の脳とコンピュータのCPUはハードウェア的な違いはあれど、根本的な機能面の違いはありません)

 

いずれにせよ、これからの人間に要求されることは、物語の一役者として生きるだけではなく、物語を書き換えていくことではないかと思うのです。今を生きる我々が教養を学ぶ意味はそこにある、というのが今回の記事で僕が考えたことの結論です。

 

まとめ

今回は飛浩隆さんの「零號琴」を読んで考えたことを書いてみました。考えていくにつれて、思索があらぬ方向に飛んで行っている気がしないでもないですが、「零號琴」という作品が今回の思考のきっかけになったのは間違いないので良しとしましょう。どうせ途中から話がどんどん本の内容から離れていくのはいつものことです(笑)

 

正直、思った以上に分量が多くなってしまって分割しようかとも思いましたが、途中で切るのも締まりが悪いので一本で投稿させていただきました。

 

それでは、また!