たった一つの冴えた生き様

The Only Neat Way to Live - Book reading, Fitness

【読書コラム】服従 - アドラー心理学は特効薬なのか?

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はフランスの現代作家ミシェル・ウェルベック氏の「服従」。この小説はイスラム化するフランスを描いた近未来小説であり、政治や思想、アカデミズムなど、まさに現代ヨーロッパが直面している問題がユーモアとブラックジョークを交えて書かれています。

 

今回は小説がテーマではありますが、登場人物の行動や物語展開などについて立ち入った議論をする気はないので、ネタバレはそこまで気にならないとは思います。

 

f:id:KinjiKamizaki:20190406154316j:plain

 

 

おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

ネタバレについては冒頭に書いた通りです。気になる方はお気をつけください。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のサブタイトルは「アドラー心理学は特効薬なのか?」です。先に断っておきますが、この小説の中でアドラー心理学に対する直接的な言及があったわけではありません。ただ、僕がこの本を読んだり、読後に色々考えていたとき、昨今のアドラー心理学に関する言説や自分の認識に対して思うところがあったので、今回はそれについて書こうと思ったわけです。

 

今回の僕なりの結論は「アドラー心理学の考え方はあくまで一つの思想でしかなく、絶対的な原理原則ではない」という事です。当たり前といえば当たり前のことかもしれませんが、割と見落とされがちなところだと思うので、小説の内容と絡めつつ議論していきたいと思います。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

本の内容

冒頭に書いた通り、この小説の舞台はイスラム化するフランス社会です。主人公の大学教授の視点から、フランスがイスラム化していくまでの政治的抗争や改宗していく人々がユーモアを交えて描かれています。もちろん、この話自体はフィクションですが、イスラム人口の増加という潮流は、現実のヨーロッパでまさに今起こっていることだったりします。現在のロンドンの市長がイスラム教徒だというのは有名な話です。そういった背景もあり、フランス国内で大いに物議を醸した作品です。

 

現代先進国家の基本的な理念である個人主義・自由主義のもとで人口減少していく生粋のフランス人と、イスラムの教えのもと数を増やしてくイスラム系移民。日本にいるとなかなか接する機会のないイスラム教ですが、ヨーロッパではそれが大きな社会的な課題となっていることを、改めて感じさせる小説でした。現在移民を制限している日本ですが、この本を読む中で将来的には直面しなければならない課題なのだろうなと感じました。

 

特に印象的だったのが、もともとのフランス人の思想の根底である個人主義・自由主義の限界や、その中で疲弊する人たちが描かれていたことです。また、それに対して「宗教への回帰が必然だ」という主張があったことも僕の価値観を大きく揺さぶるものでした。

 

アドラー心理学との関係

この本を読んでいて思い出したのが、冒頭にも書いたアドラー心理学についてです。これを読んでいる皆さんはアドラー心理学をご存知でしょうか?

 

最近「嫌われる勇気(岸見一郎、古賀史健著 ダイアモンド社)」がベストセラーになったことで広く知られるようになった考え方であり、自己啓発書を読む方なら一度は目にしたことがあるかもしれません。詳しくはご自身で調べていただければと思いますが、基本的な考え方は、「他人の期待に答えるために生きるのではなく、自分のための人生を歩みなさい」というものです。自分の問題と他人の問題を分離して考える「課題の分離」という考え方はその根幹であると言えるでしょう。

 

アドラー心理学は個人心理学とも呼ばれており、上記の考え方からも分かる通り自由であることを大事にする思想です。すなわち、極めて西洋的な個人主義・自由主義的な考え方であると言えるでしょう。だからこそ、この本を読んでいてアドラー心理学が頭に浮かんだのだと思います。

 

一方、この小説の中で個人主義・自由主義に対立する考え方として描かれているイスラム教は、これとは真逆とも言える考え方です。イスラム教では信者に唯一神への絶対的服従を求め、個人の自由という考え方は希薄です。さらに言えば個人主義としては当然の権利として認められるべき男女平等という考え方は、イスラム教にはなく、女性は男性に服従すべきであるというのが基本スタンスです。このような観点で見ると、両者の融和がいかに難しいものであるかがわかると思います。

 

実は、僕はそれが「アドラー心理学」という名前だと知る前から、アドラーと似たような考え方を持っていました。初めてアドラー心理学の話を聞いた時には、自分の考えとあまりにも近くて驚いたものです(この辺りの話もそのうちコラムに書きたいですね)。各種の関連書籍を読んでからも、アドラー心理学は好ましい考え方だと思いましたし、それ自体は今も変わりません。しかし、この「服従」という小説を読んで、少しだけアドラー心理学の考え方に疑問を抱くようになりました。

 

なぜなら、この小説で描かれていたものは個人主義・自由主義の限界であり、それがイスラム教に取って代わられるという世の中だったからです。もちろん、それが単なるフィクションであれば絵空事だと言えたかもしれません。しかし、現実を見ると、十分に起こり得る未来だと言わざるを得ず、一笑に付すことは難しいです。

 

そう考えた時に、「本当にアドラー心理学的な個人主義・自由主義が人類にとって正しい形なのだろうか?」「イスラム教がマジョリティになった時に自分の今の信条を貫くことができるのか?」「社会全体として、どちらの考え方が幸福なのか?」といった問いが頭の中に浮上していました。

 

自由でいることの難しさ

実際問題として個人主義・自由主義の限界は至る所で現れていると思います。今の日本で孤独感や閉塞感、何が正しいのかがわからない不安感がただよっている、ということは理解いただけると思います。また、色々な本やニュースを見る限り、これは日本に限った話ではなく、ヨーロッパ各国やアメリカなどの主要先進国やお隣の韓国でも同様の傾向にあるようです(一応言っておきますが、僕はシリコンバレーはアメリカを代表しているとは思っていません)。

 

この小説でも書かれていますが、その根底にあるのは自由に対する疲弊なのではないかと思いました。つまり、正しいと言える明確な基準がない中で無数の選択肢から物事を選ぶことへの疲労、そしてその選択の責任を全て自分で背負わなければならないというプレッシャー、これらに押しつぶされかけているのではないか?というのが僕の考えです。

 

もしかしたら、人によっては選択に対する疲労というのがピンとこないかもしれません。選択の幅は広いほうが自分の好みにハマるものを選べるので、選択肢は多いほうがいい、という考え方は一見すると合理的に見えます。しかし、実は心理学の世界では、人間はあまり多くの選択肢から物事を選択することが得意ではなく、それには大きなストレスが伴うと言われています。「ジャムの実験」という有名な実験があり、多すぎる選択肢から選ぶことの難しさはその実験によって裏付けられています(気になる方はググってみてください)。

 

また、責任を背負うことに対するプレッシャーも無視できない要素です。他人の人生ではなく、自分の人生を生きるということは、ある意味自分を言い訳ができない状況に追い込んでいると言えます。もちろん、自分の行動を他人のせいにせず、自分で自分の責任を取るというのは道徳的に素晴らしい行為だと思います。しかし、改めて考えると、果たして常にその責任を背負いながら生きて行けるほどに人間は強い存在であるのか?という問いが頭をもたげてきます。

 

個人主義か宗教への回帰か

このように思索を進めていくと、「個人主義が生き残るか、宗教への回帰が進むのか」そのポイントは、「これらの選択や責任に対するストレスを抱えつつ、人間が幸福に生きられるのか?」にかかっていると思われます。

 

これは僕の個人的な考えですが、選択や責任に対する困難に対応するための装置こそが宗教ではないかと思うのです。何かの権威が善しとするものを信じることで、多すぎる選択肢から選択する困難を避けられますし、それらの権威が責任を肩代わりすることでストレスから解放されます。これらの重荷を背負えるほどに人間が強ければ自由主義・個人主義が台頭するでしょうし、そうでなければ宗教への回帰は現実的なものとなるでしょう。

 

そう考えると、一昔前のスピリチュアルブームや最近のインフルエンサー界隈なんかも同じような欲求に基づいている気がします。特に最近感じるのが、アドラー心理学を賞賛しつつ、インフルエンサーを盲信するという人達に対する違和感です。インフルエンサーの価値観に盲従することは、他人の人生をいきることに他ならないような気がしてなりません。これまでの社会通念にとらわれずに自分らしく生きようといいながら、やっていることは新しい信仰に乗り換えているだけのようにも見えます。

 

かといって、僕はそれを否定するつもりはありません。おそらく、多すぎる選択肢から逃れたいとか、責任を負いたくないというのは人間の根源的な欲求ではないかと思うのです。冷静に考えてみれば、個人主義・自由主義の歴史は、イスラム教に限らず宗教の歴史に比べるとはるかに浅いです。言い換えれば、非常に新しい考え方だと言えるでしょう。今までアドラー心理学は好ましい考え方だと思っていながらも、この本を読むまではそんなことにすら気づかなかった、というのは自分でも驚きを隠せません。

 

アドラー心理学は特効薬なのか?

これまで何度も書いている通り、僕自身は「アドラー心理学」的な考え方は好きです。全てを自分で考えて行動できているというほど傲慢ではないですが、基本的には他人の人生ではなく自分の人生を過ごしているつもりではあります。ただし、それは僕が五体満足で割と不自由なく暮らせているからそう思っているだけで、状況が変わればそれを継続できる保証はどこにもありません。それに社会全体がその重圧に耐えきれるかどうかもわかりません。昨今のインフルエンサー界隈を見ていると、ちょっと懐疑的な気持ちも湧いてきます。

 

そう考えた時、アドラー的な考え方が幸福になるための原則である、というだけの根拠はないように思えてなりません。もしかしたら、宗教への盲信こそが社会全体にとって好ましい形なのかもしれません。いずれにせよ、これこそが、今回書きたかった内容である「アドラー心理学の考え方はあくまで一つの思想でしかなく、絶対的な原理原則ではない」ということです。何かに「服従」することが人間の根源的な欲求なのだとしたら、アドラー心理学は銀色の弾丸にはなり得ないと言えるでしょう。

 

まとめ

今回はミシェル・ウェルベック氏の「服従」を読んで感じたことを書いてみました。やはり自分の価値観を揺るがすような視点を与えてくれる本は思索のしがいがありますね。この本を読んでいなければ、ここまでしっかりイスラム教について考えることもなかったともいますし、こういったことを考えたことは今回の話題だけでなく、今の国際情勢を考える上でも意味があると思います。

それでは、また!