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【読書コラム】思考する機械 コンピュータ - 一神教的教義における人間の限界領域

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はコンピュータめぐるノンフィクション『思考する機械 コンピュータ』(草思社文庫)。2000年に刊行された本ということもあり、進歩のスピードの速いIT業界においてはもはや古典というべき本なのかも知れませんが、コンピュータがなんたるかを基礎から解説した良書だと思います。

内容としては、論理回路からアルゴリズム、プログラミングや各種構成要素の役割等々のコンピュータサイエンスの基礎をカバーしつつ、当時の新しいトピックとして並列コンピューティングや人工知能、量子コンピュータなんかにも触れられています。今回は、主にアルゴリズム・計算可能性について印象深かった部分を引用しつつ、人間を一つの計算機と見た場合のコンピュータとの違いや、コンピュータの高度発展期における人間の位置付けについて考えてみたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの論点は、人間とコンピュータの違いについてです。なんだかSFめいた話ではありますが、人間を一つの計算機とみた場合に、この論点はどうしても避けられません。「AIに仕事が奪われる論」が跋扈する現代だからこそ、それを考えてみる意味はあるのではないかと思います。

今回のコラムで僕が言いたいことは「人間にとって意味のある「問い」は人間にしか立てられない」という、やや同語反復的な僕なりの考えです。そんな中で、機械と比較した際の人間の位置付けは「普遍的な意味はないかもしれないけれど、自分にとっては重要な生きがいを探すこと」ではないか、というのが今回の結論です。

ちなみに、「生きがい」という言葉は僕の中ではかなりマイルドかつ手垢のついた表現であり、ちょっとしっくりきていないのが正直な思いです。僕の感覚に正直な言葉使いをするならば「死ぬまでの暇つぶし」という言い方が正しいです。本文では、(やや不本意ながら)無駄に角が立たないように「生きがい」という言葉を使っていきますが、この辺りをどう感じるかは人それぞれだと思うので、ご自身にとってしっくり来る形に読み替えていただければと思います。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「思考する機械 コンピュータ」

冒頭に述べた通り、この本はコンピュータサイエンスの基礎が記載されたノンフィクションであり、その守備範囲は情報工学の初歩から量子コンピューターまで幅広いです。とはいえ、技術書ではなくあくまでも一般書なので、そこまで高度な内容を含んでいるわけではありません。数式などもなく、あまり馴染みのない方でも十分読めると思います。

2000年の本ということもあり、記述としては古い部分も見られますが、計算機についての主要な論点は網羅しており、これからコンピュータについて勉強しようと思っている方にはお勧めの一冊です。プログラムとはそもそもどのような物なのか?コンピュータの中では何が行われているのか?について、ざっくりとした知識は十分得られると思います。

今回論点にしたいのは、この本に書かれているチューリングマシン・計算可能性についての話。要するに、どこまでの問題をコンピュータによって解くことができるのか?という問題です。この知識自体は読む前から知っていたものの、そこから導かれる人間にとっての位置付けについては深く考えたことがなかったので、強く印象にのこった記憶があります。ポイントになるのは以下の文章です。

「全てのコンピュータは何ができるかにおいて基本的に等価である。」

一口にコンピュータと言っても、現在普及している半導体ベースのものも有れば、水流コンピューターや機械式コンピュータというのも理論的には作ることができます。Minecraftというゲームに触れたことのある方なら、ゲーム内のアイテムである「レッドストーン」を使ってコンピュータを作ることができるということをご存知の方もいるかも知れません。

もちろん、計算スピードや経済性、サイズや安定性などを考えればこれらの原始的なコンピュータを何かの計算に使うのは現実的ではないですが、できること自体は半導体コンピュータとなんら変わりがありません(計算力に関していえば、違いはメモリサイズと計算スピードの問題程度です)。上の記述で言っているのは、こういった種々のコンピュータで出来ること(解ける問題)自体はどれも変わらないということです。そこまで疑問に思う話ではないと思います。しかし、以下の文はいかがでしょうか?

「このことは、万能コンピュータと適切なプログラムがあれば、人間の脳機能がシミュレーションできることを示唆している。」

「理論上、コンピュータのできることには限界がある。しかし、それは人間をマシンから区別するような事実ではない。我々の知る限り、脳は一種のコンピュータであり、人間の思考は複雑な演算に過ぎない。」

パッと見るとあまりにも大きな飛躍があるように思えますが、冷静に考えると、これらの文章で言っていることは100%正しいと思います。上記の計算可能性についての議論を参照するのであれば、人間の脳(正確には神経系)を計算機とみなした場合、ある問題が脳によって解けるかどうかはコンピュータによって解けるかどうかと全く違いはないはずです。それは、半導体コンピュータが機械式コンピュータとできることは何一つ変わらないのと全く同じ話です。

僕がこの本を読んでいて一番印象にのこったのはこの部分です。言われてみれば当たり前の事ですが、「人間の脳」と「コンピュータ」で計算できるものが何一つ変わらないという事実を改めて目にしたとき、少しドキッとしてしまいました。

「その上で、人間の意識活動は、物理法則が支配する現象と複雑な演算によってもたらされると私は思っている。だからといって、人間の意識活動が神秘的でないとか、素晴らしくないと考えているわけではない。」

この文章はこの本の最終部分に書かれている内容です。少し意表を突かれたものの、僕自身の考えとしては基本的にこの意見にほぼ同意です。改めて、コンピュータと人間との関係を問い直すという意味でも洞察に満ちた一冊だと言えるでしょう。

人間にできることはコンピュータにもできるという現実

さて、前の章で強調した部分を、もう少し突っ込んで考えてみましょう。繰り返しにはなりますが、ある問題があった時、それが計算できるかどうかという側面で見る限り、人間とコンピュータを分かつものはありません。その違いは単純に、演算を行うハードウェアがタンパク質かシリコンかの違いです。

コンピュータの核を担うのは「AND」「OR」「NOT」などの論理回路です(よくわからない方は、Wikipediaの記事をご覧ください)。先に書いた通り、その回路を形作るものはなんでもいいのですが、現代のコンピュータは半導体であるシリコン基板を使うのが最も一般的です。その経済性と安定性、計算スピードを考慮すると、少なくともしばらくは代替品は現れないと思います(次にくるのは量子コンピュータだろうとは思いますが、それがどのようなハードウェアを持つのかは僕はちょっとわかりません)。

論理回路 - Wikipedia

翻って人間では主にタンパク質がこの機能を担っています。特定のタンパク質のみに作用する酵素や細胞内外の電位差、神経細胞の結合パターンなどを利用して各種論理回路を作り、演算を行う。それが我々の体の中で行われている計算です(もちろん、詳細はまだまだよくわからないというのが実情だとは思います)。

それぞれ別のメディア(媒介物)を使って演算している人間とコンピュータですが、その大きな違いの一つが「ハードウェア」プログラムか「ソフトウェア」プログラムかの違いです。

「ハードウェア」プログラムとは、「ソースコード」のような個別のソフトウェアがなく、あくまでも物自体の動きを利用してプログラムを組むものを言います。あまり馴染みのない方はピンとこないかもしれませんが、電子工作で使われるリレー回路なんかはこのハードウェアプログラムの典型的な例だと言えるでしょう。人間の行動特性を変えることが難しいのは、各種タンパク質や神経細胞という「物自体」にプログラムが組み込まれているためです。

一方で、皆さんご存知の通り、コンピュータは主に「ソースコード」を利用したソフトウェアプログラムを利用しています。もちろん、ものが無ければ計算自体はできないので、核心部分だけはシリコン基盤というハードウェアプログラムを使っているわけですが、この最小限のハードウェアプログラムを流れる信号を「ソフトウェア」によって制御することで、多種多様な計算ができるというわけです。

この違いが何を意味するかというと、できることの柔軟性が人間とコンピュータでは全く異なるということです。つまり、人間の体は「物自体」にプログラムが組み込まれているため、それを変更することは困難を極めますが、コンピュータは「ソースコード」を書き換えることでどんな計算でも自在に扱うことができます。これこそが、コンピュータが汎用計算機とよばれるゆえんです。

このように考えるたとき、人間の演算アルゴリズムを全てコード化することができれば、コンピュータに軍配が上がることは明らかでしょう。もちろん向き不向きはありますが、少なくとも人間にできることはコンピュータにもでき、さらに可塑性はコンピュータの方が圧倒的に高いのは明らかです。もちろん、人間の演算アルゴリズムを解き明かし、コード化するには途方もないほどの時間がかかるでしょうし、人類が絶滅するまでにそれはなされないかもしれません。それでも、ポテンシャルという面で言えば人間にできることはコンピュータにもできるということは疑いようのない事実です。

一神教的教義における人間の限界領域

前の章では、機械は万能ではないものの、計算力のポテンシャルとしては人間と同等であるという事を議論しました。これを踏まえて、もう少し話を身近なところに戻していきましょう。

ここでの論点はAI脅威論です。産業革命時のラッダイド運動から連なる機械排除運動は未だに健在で、昨今はAIによって仕事が奪われることが懸念されています。今までホワイトカラーがやっていたような仕事がAIによってなされるようになると、職を失う人が大量に出てしまうのではないかという議論は一度は耳にしたことがあるでしょう。

それに対する一つの対抗策としては、AIが苦手とする分野に特化するという方法があげられます。昨年話題になった新井紀子さんの「AIに負けない子どもを育てる」(東洋経済新報社)という本にも書かれているように、人間の得意領域に特化するのは一つのやり方だと言えるでしょう。

現代のAIは人間が扱う自然言語の解釈が極端に苦手で、AIに負けないために読解力をつけていきましょうというのがあの本の主張であり、それはそれで全く間違っていないと思います。しかし、それは一つの限界領域への逃避に他なりません。いずれはコンピュータがその領域でも人間に匹敵する日は来るはずです。前の章で述べた通り、人間に処理できる問題は原理的にはコンピュータでも処理できるのです。

問題は、その時に人間がどうするのか?です。コンピュータが今できないことに逃げるのは一つの方法ですが、それは一時凌ぎにしかならず、いずれは機械側からの追い上げが来るであろうことは間違いないと思います。

この問いを考えるために立ち戻りたいのは、そもそもなぜそんなにも仕事を奪われるのが怖いのか?という点です。よくある議論として、AIが発達すれば経済が自動的に発展するようになるので、全ての人にベーシックインカム(BI)を配ることで働きたくない人は働かなくても良くなるという議論があります。ある程度の説得力はある言説だと思いますし、全ての人に行き渡るかどうかはともかく、世界全体としてはBIの方向に進んでいくんじゃないかと思っています。

しかし、僕が疑問に感じているのはBIが有ればAIは怖くないのか?という点で、おそらくそうではないだろうと考えます。たとえBIによって最低限度の生活が担保されたとしても、自分の仕事がAIに奪われればその尊厳は大きく傷つけられるのではないかと思います。

それはなぜかというと、現代人の多くは「人間の価値=資本主義市場での価値」とみなしているから、という点に帰結します。もちろんこれが全てというほど極端な人は少ないと思いますが、人間の価値についての根底にこのような思想があるからこそ、仕事をしようとしない人やニート、生活保護受給者などを白い目で見るのでしょう。就活性が内定を取ることができなくて、「自分には価値がない」と考えてしまうのも、やはりこの価値観があります。古い言い方ではありますが「働かざるもの食うべからず」の価値観です。

普通に生活しているとなかなか意識できないところではありますが、現代は「貨幣」という共通価値と「幻想」が人間の価値を決めていると言えます。逆に言えば、そういう価値観を持った社会が資本主義社会であると言ってもいいのかもしれません。全ての価値を貨幣に還元し、それによって存在の意味づけを行うという極めて一神教的な世界観。もちろん、それが良いとか悪いとかいう話ではなく、資本主義社会とはそういうものだということです。

だからこそAIが怖いのです。AIより自分の生産性が低いということは、自分という人間の価値がコンピュータよりも低いということに他なりません。そして、それは資本主義経済の視点から見るとぐうの音が出ないほど正しいのです(非常に悲しいことではありますが)。自分という存在の否定、それがAI脅威論の実態ではないか、僕はそう思ってます(そしてこれはラッダイド運動からずっと同じ構造を持っていると思います)。

「我が子をAIに負けない子どもにしたい」という気持ちはわかりますし、それはそれで間違った行動だとも思いませんが、結局は勝ち目のないレースに参戦しているに過ぎません。確かに次の世代までなら間違いなく勝ち抜けるでしょうが、時間が経つにつれて人間の優位性はどんどん小さくなっていくと思われます。資本主義経済という価値観で勝負を続ける限り、人間が機械に勝てる領域はどんどん減っていくのは必然であると言えるでしょう。

「資本の最大化」という一つの目的変数をめぐるレースだと、十分長期的に考えると機械が優勢になるのは間違いありません。だから必要になってくるのが、資本主義的価値観からの脱却です。

そんなこと当たり前だと言われるかもしれませんが、仕事ができない人や勉強ができない人に向ける冷たい眼差しはその価値観に基づいているのは明らかです。また、男女の結婚に際して年収が大きなファクターになっていることもこの価値観に基づく判断をしている事を示唆しています。実際のところ、本当の意味で人の価値を資本主義的な価値観から切り離して考えられている人はほとんどいないでしょう(こんな偉そうな事を言っている僕自身も含めて、です)。繰り返しますが、必要なことは価値観のアップデートです。

現代の様々な場面でよく言われているのが「問い」を立てる能力の必要性です。これは恐らく、資本主義における貨幣という単一の価値観(目的変数)で物事を測ることの行き詰まりに由来します。貨幣はあらゆる価値を単一の指標に還元することで、分業と交換を促進し、これまでの人類に発展に寄与して来たのは間違いありません。しかし、機械やAIの発達によって、交換に出すだけの価値を生み出すことができる人間が極少数になったとき、この制度はほとんどの人間の幸福には寄与しないであろうことは想像に難くないです。

これまで見てきたことからも明らかなように、一つの価値観に基づく「問題解決能力」は多くの場合に機械側に分があります。だからこそ、「問い」を立てる力が求められるのです。資本の最大化に代わる「問い」をいかにして立てられるか?それがこれから必要になってくるのでしょう。

「問いを立てる」とはどういう意味か?

しかし、ここで話を終えるわけにはいきません。長期的に見た場合、その「問い」を立てる能力ですらもコンピュータが上回るだろうからです。フレーム問題という大きな壁はあるでしょうが、人間の脳がなんとかしてそれを克服している以上、なんとかできるアルゴリズムは実装しうるのでしょう。そんな中で、果たして人間が「問い」を立てる意味は何なのか?を考える必要があります。

それを突破するには、そもそも「問いを立てる」とはどういうことなのか?という問題提起にまで戻る必要があると考えます。「問い」と言ってもその種類はいくらでもありますが、「解決すべき問題」と言い換えてみると少し見通しが良くなります。

物事を解決するために何が必要なのかと考えてみると、「問いを立てる」という言葉の意味がなんとなく見えてきます。そう考えた時、僕なりの「問いを立てる」という言葉の意味は、「目的変数」と「制約条件」を設定することです。つまり、どのような「条件」のもと、「何を最大化(または最小化)するのか」を決めるという事です。この二つの項目が明らかになれば、それを達成するために具体的に何をすればいいのか?という議論(問題の解決フェーズ)に入ることができます。

これは、AIを動かす時に考えなければいけないことと全く同じ話です。何を最大化すればいいのか?という問題、こればっかりは機械側で決めることはできません。もちろん、なんらかの方法で機械によって選択することもできるでしょうが、それによって駆動された演算は人間にとっての意味は極めて不明確です。例えば、火曜日の午後3時にシンデレラ城に入る客が最大になるような某テーマパークのオペレーション計画を渡されても、途方に暮れるしかないでしょう(あまりスマートなたとえではありませんが)。

これを逆に言えば、「人間にとって意味のある「問い」は人間にしか立てられない」ということを意味します。僕は、これこそが人間を機械と分け得る部分だと考えます。なんとなく、自作自演というか、同語反復な印象が否めないのは事実ですが…

多くの場合、人が人生に求める「目的関数」は幸福であり、言い換えれば「生きがい」だと思います。しかし、これらは主観的な感情であるがゆえに、他人や機械とは共有しえないし、おそらくそれは人によって最適解は異なるのでしょう。もちろん、ある程度は全体に共通する傾向はあるだろうと思いますが、遺伝子配列と成長に伴う経験の個別性は十分に多様性を生み出しえます。

だから、我々に必要なのは「自分にとっての生きがい」を見つけだすことです。主に貨幣経済やテクノロジー上の制約によって一様化させざるを得なかった一神教的価値観から脱却し、それぞれの「生きがい」を追求する価値観へ舵を切る必要があります。そうでなければ、機械が人間を圧倒することで、ほとんどの人間は不要の存在になってしまう。

それが、社会的な活動なのか、極めて個人的な欲望を追求することなのかは人それぞれでしょう。「生きがい」を一つに絞る必要もないと思いますし、生活を営むための衣食住も制約条件として考慮すべきです。いずれにしても、自分なりの「生きがい」の設定を計算機側に委ねることはできない以上、それは自分で決めなければなりません。そして、自分にとっての「生きがい」を定めた上で、それを追求する際には機械が心強い力になるであろうことは言うまでもありません。

人間として生まれた以上、多くの人は何もしないでいつづけることは難しいでしょうし、かと言って「生きがい」がないからといって死を選べる程強くもありません。自分が望もうと望むまいと、一度手にしてしまった一生をどのように過ごすのか、それを考えることが必要なことなのだと思います。

これは考え方にもよると思いますが、僕は人間の生きる意味はやはり自分の欲望に求めるしかない、と思います。そこに超越的な存在や普遍的な意義を見出すのは難しく、それを認めようとすると、同質化やそこに入れないものの排除につながります(それはそれで幸せなのかも知れませんが)。また、その世界観で人間がコンピュータと勝負して勝ち続けるのは現実的ではありません。だからこそ、コンピュータが人間の能力を超える可能性を受け入れた上で「普遍的な意味はないかもしれないけれど、自分にとっては重要な生きがいを探すこと」それが人間に求められることなのではないか、それが今回の結論です。

まとめ

今回は『思考する機械 コンピュータ』を読んで考えたことを書いてみました。今回の話は、あくまでも「人間の脳が計算機」としてみなしうる、という前提に立っているので、そもそもこの前提を受け入れられない人にとっては、かなり異質なものに見えたかも知れません。そこは考え方の違いということでご容赦ください。僕は今のところ人間存在に超越的な「何か」を想定するのは難しいと思っています(ある種のジレンマがそこにあるのはたしかですが)。

書いていて思いましたが、やはり「生きがい」という言葉を使ってしまうとチープになってしまう感はありますね。僕としての言葉の意味は、冒頭に書いた通り「死ぬまでの暇つぶし」であり、「生きるために「生きる目的」を見つける」という再帰的な(Self-Referentialな)欲望です。こんなことを書いていたら、円城塔氏の「Self Reference Engine」を読みたくなって来ました(笑)。今なら、彼の小説の意味はもうちょっと理解できるのかも知れません。読んだらそのうち、このコラムでも取り合えげてみたいところです。

それでは、また!