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【読書コラム】「理系」という生き方- Stand On the Spectrum

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は毎日新聞化学環境部によって書かれた『「理系」という生き方』。この本では理系という切り口で教育論を論じている本であり、僕がもともと違和感を抱いていた「理系」「文系」という区分について考えるきっかけになりました。今回はそれについて書いていきます。

 

今回は特にネタバレを気にする必要はないと思います。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います、

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

 今回のコラムで僕が主張したいことは「二極思考からの脱却し、その間に立つという意識を持つべき」だという事です。それが副題の「Stand On the Spectrum」という言葉の意味です。これも当たり前といえば当たり前で、ありきたりと思える主張ではあると思いますが、今回は「理系」「文系」を出発点に上記の結論までの思索を書いていきます。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

本の内容

この本では、そもそも「理系」「文系」という区分が生まれた理由や背景を説明したのち、今の時代における科学技術教育の重要性や、「理系」の人の生き方についてなどの話題について論じています。

 

端的にいうと、「理系」「文系」に分かれた理由は「大学受験に有利だから」ということのようです。学校側としても、極力垣根は設けずに幅広く教えたいという気持ちはあるものの、大学入試を考えると理文を分けた方が効率が良く、有名大学への進学実績を作るためにも分けざるを得ないというのが本音のようです。

 

以前の記事でも書いている通り、僕自身は学生時代、理系の学部を専攻していたわけですが、当時から「理系」「文系」という区分については違和感を感じていました。今回はこの本を読んだことをきっかけに、この「理文」という切り口で考えてみたというわけです。

 

理系・文系のイメージ

まず、みなさんは理系・文系にそれぞれどのようなイメージをお持ちでしょうか?

 

理系は、学生時代に主に数学と理科系(物理や化学など)を専門とした人であると言えるでしょう。数字に強く、論理的な考え方を持っている一方、少しドライで冷たいイメージがあるかもしれませんね。また、やや理屈っぽくてどちらというとコミュニケーションがうまくない印象がある方もおられるでしょう。

 

職業としてはエンジニアやプログラマー、研究者などがぱっと思い浮かびます。いずれの職業も専門性が高く、チームで何かやるよりも一人で突き詰める方が得意なイメージです。

 

逆に文系は主に英語と国語、社会などを専門とした人です。共感能力が高くてコミュニケーションがうまく、暖かい印象を受ける人が多いのかもしれません。

 

職業としては営業やマーケティング、企画や経営、人事など多岐にわたっている印象です。どちらかというとチームでの作業を好む人が多いというイメージもあります。

 

だいぶ僕個人の偏見に満ちていますが(笑)、理系・文系に対する一般的なイメージはだいたいこのようなものではないかと思います。 

 

理文の垣根が崩れつつある?

このような理系・文系の区分ですが、最近ではこの垣根が崩れつつあるという主旨の言説を良く目にします。

 

これからの時代、エンジニアや研究者にも経営的な考え方やコミュニケーション力が不可欠であり、逆に文系の職業でもテクノロジーについての知識や数字の扱い方は知っていなければならない、というわけです。これについては読んでいる方々の多くも頷けるのではないかと思います。

 

しかし、本当に垣根が崩れつつあると言えるのでしょうか?

 

僕はそんなことは無いと思っています。その意味は、理文の垣根などというものは幻想でしかなく、そもそも垣根なんてものはもともとなかったということです 。

 

冒頭にも書いたとおり、この本の主張が正しいのであれば「理系」「文系」の区分は、あくまでも大学受験のための便宜的なものにすぎません。そう考えると、大学受験とは直接関係していない社会の仕事と、この区分が明確に対応していないのは当たり前と言えるでしょう。むしろ、現実の仕事が綺麗に理系と文系に分かれているという方がおかしいです。

 

例えば心理学は人文学という文系寄りの分野であると言えますが、そこで要求される統計学のレベルはかなり高度です。アンケート調査や統計情報から人間の行動パターンや心理状況を扱う学問である以上、そこに統計的な有意性が求められるのは当然といえるでしょう。

 

また、経済学も文系を代表する学問領域ですが、それを理解する上で数学の微分積分が必須なのは有名な話です。会計や財務、経営の仕事にも数字が付いて回ることも想像に難くないでしょう。

 

逆に、理系的な職業であっても英語が必須の人は多いということは言うまでもないでしょう。僕は世の中の全員が英語が完璧にできるべきとは思いませんが、海外のビジネスに関わる人はもちろん、そうでなくとも文献調査や情報交換のために英語ができるできないで見える世界は全く違うものになってしまいます。

 

コミュニケーション力についても今更強調する必要はないと思います。当たり前のことですが、自分一人でできる仕事というのはとても限られているので、どんな仕事をするにしてもコミュニケーション力は不可欠です。コミュニケーション力は言葉の使い方や人の社会的背景など、どちらかというと文系的な素養になるとは思いますが、理系と言われる職業であってもそれを蔑ろにすることはできません(もちろん、ここでいうコミュニケーション力は誰とでもすぐに仲良くなるという話ではないです)。

 

このように見ていくと明らかなように、それぞれの仕事に対して明確に文系職・理系職と分けることはできません。繰り返しになりますが、あくまでも大学受験用の区分でしかない文系・理系という概念を、それ以外のものに当てはめてもうまくいかないのは当たり前です。この分類は、一つの大雑把な区分にすぎませんし、とても一面的な尺度でしかありません。

 

僕は学生時代から、理系文系と区別して将来を考えることに対して違和感を覚えていました。周りの友人が言う『自分は「理系」だから英語は適当にやっておけばいい』。確かに大学受験だけを考えるのであればで正しいかもしれませんが、大学に入ってもなおそれを主張するのはやや思慮を欠いていると思います。

 

とはいえ、僕自身「理系だから歴史はよくわからない」といったことを前にブログの記事に書いた気がします。これも冷静に考えるとおかしな話で、理系であることと歴史を知っていることに直接の因果関係はありません。単純に「歴史をそこまで本気に勉強していないからよくわかっていない」というだけの話であり、「理系」と言う言葉を免罪符のように使っている点は反省すべきことだと思います。そういう意味では、今回の記事は自戒も込めた記事と言えるのかもしれません。

 

「あなた」と「こなた」を分かつもの

それでは、大学受験のための区分でしかない「理系」「文系」という概念が、なぜここまで大きなものになってしまったのでしょうか?

 

これは、大学受験を一つのゴールにしてしまっているという現代社会の風潮とは無関係ではないでしょう。人々の意識として、人生における大学受験の比重が大きいために、その時の分類が後にも影響を及ぼしているという考えはそこまで的外れでは無いように思います。

 

この論点についても言いたいことはたくさんありますが、今回はこちらはあまり深入りせずに、別の観点から見てみます。

 

今回議論したい内容は、区分を作ったがために生み出された帰属意識についてです。

 

そもそも、理文という一面的な切り口で考えたとしても、理系 or 文系といったように、明確に二極に分かれるようなものではありません。超理系科目特化の人もいれば、かなり文系寄りの理系といった人もいるわけで、簡単に二分して考えられるほど単純ではありません。これはとても当たり前のことです。

 

大学受験のためざっくりと引いた人為的なボーダーによって生まれた区分、それが「理系」「文系」というレッテルです。大学受験のお世話をする高校や予備校の立場からすれば、たくさんいる受験生を「超理系、やや理系、やや文系、超文系」と言ったクラス分けをするのは非効率この上ないですし、そうしたとしてもレッテル貼りという意味においてはあまり状況は変わりません。

 

こうして、効率化のために作られたレッテルが、逆にその中にいる人たちの行動様式やマインドセットを規定しているのではないか?というが今回の記事の核心部分です。

 

確かに「理系はこういう人」「文系はああいう人」といったように人を二分して、「あちら」と「こちら」に分けると世の中をシンプルに理解することができます。「こちら」の人は大切にすべき仲間であり、「あちら」の人とは相容れない価値観を持っている、と一括りにして考えると非常にわかりやすいです。

 

理系は文系を感情的だと罵り、文系は理系を理屈っぽいと不平を漏らす。ここまで極端なケースは少ないと思いますが、レッテルを貼って「あちら」と「こちら」で分けて考えること自体は人間が日常的にやっていることであり、おそらくこれは人間の自然な心理なのだと思います。

 

確かに内部の人たちと仲良くしたり、互いに切磋琢磨して高め合うこと自体は健全だと思いますし、推奨されて然るべきでしょう。問題は、帰属するレッテルによって自分の可能性を狭めてしまうこと、そしてなによりも仲間以外に対して排他的になってしまうことです。これは理系文系というカテゴライズに限った話ではなく、あらゆるレッテル貼りに共通することです。

 

先に述べたように「理系だから〇〇はやらなくていい」「文系だからこれだけやっておけばいい」自らのレッテルを免罪符として振りかざすことは往々にして行われています。このような形で人間の可能性を狭めてしまいうというのは非常にもったいないことのように思います。

 

また、罵り合い、時には暴力性が伴う右翼(保守派)と左翼(革新派)の対立や、互いに終わりのない報復を繰り返す宗教間対立、ユダヤ人を虐殺したヒトラー率いるナチスなどなど、内外を区別したことに伴う暴力性の例を上げれば枚挙に暇ないでしょう。「あなた」と「こなた」を分かつ考え方が排他的な対立構造を生み出し、それがエスカレートした末には不当な暴力が行使されうる、これが歴史が示してきた事実です。

 

Stand On the Spectrum

少し話がそれたので、一旦理文の対立の話に戻します。

 

これまでの思索から分かるように、大事なことは「理系」「文系」という二極的な考え方から脱却することです。その上で「あなた」と「こなた」を不可分な連続的属性と考え、その中に立つという意識を持つことが求められるのではないか?と言うのが今回の記事で主張したいことです。

 

ちょっと分かりにくいと思うので、例を使って説明します。

 

みなさんはSpectrumという言葉はご存知でしょうか?

これは連続体を意味する英語であり、日本語ではスペクトルという言葉が使われます。

 

この言葉は光の波長(色)に対して使われることが多く、可視光線のSpectrumを例にとるとイメージしやすいと思います。可視光線のSpectrumとは、赤から紫までの虹のようなグラディエーションであり、実際に「Spectrum」や「スペクトル」でGoogle画像検索をすると、このグラディエーションの画像がヒットするはずです。

 

虹に限らず、このような連続的にグラディエーション状に変化する様子、というのがSpectrumのざっくりとした説明です。ここまで書くと、僕が何を言いたいかピンときた方もいるかもしれませんね。

 

つまり、「理系」「文系」という概念を単純な二元論として考えず、緩やかにつながる連続体(Spectrum)として認識すること、そしてその中に自分を位置づける、というのが理想的なあり方ではないかと思うのです。これが冒頭に書いた「二極思考からの脱却し、その間に立つという意識を持つべき」という主張の意味するところであり、サブタイトルである「Stand On the Spetrum」につながるわけです。

 

確かに、大学入試という目的のために戦略的に科目を取捨選択する自体が悪いことだとは思いません。しかし、その考え方はあくまでも大学受験という限られた領域に最適化されたものでしかなく、人生そのものに適用するのは適切ではないように思います。

 

そして、これは「理系」「文系」に限った話ではありません。例えば、保守と革新は必ずしも両極端な考え方ではなく、多くの人は個別の論点ごとに維持すべき・変えていくべきという考え方を持っているのではないかと思います。そう考えると右翼と左翼というのは程度の問題でしかなく、安易に二分できるものではないという事が分かるでしょう。ここでも大事ことは、レッテル貼り(人為的なボーダーの規定)による安易な敵味方との区別をやめることです。

 

残念ながら、人は「白」か「黒」かを断定してくれるものに魅力を感じるものだし、意識しないとその方向に考えがいってしまうものなのだと思います。だからこそ、大学に入った後も「理系」「文系」という、もはや意味を失ったカテゴライズに執着してしまうのでしょう。残虐なヒトラーという人間にドイツの政治を託してしまったのは、決して当時のドイツ人がバカだったからではなく、人間が内と外を分けるものに魅力を感じる生物だからではないかと思うのです。

 

家族愛や仲間との絆という言葉に惹かれるのも同じ心理なのだと思います。もちろん、それ自体は大切なものであると思いますし、人生を豊かにしてくれるものでしょう。しかし、内と外を分かつ二極思考の行き着く先がユダヤ人の虐殺であることは頭に入れていていいのではないかと思えてなりません。

 

まとめ

今回は『「理系」という行き方』という本を読んで考えたことを書いてみました。ちょっと理系文系の話から飛躍のしすぎの感はありますが、そこまで突拍子のない話だとは思いませんし、最近のコラムではこの程度の飛躍はそこまで珍しくもないのでよしとしましょう(笑)。

それでは、また!