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【読書コラム】ハイ・ライズ - テクノロジーという欲望のアンプ

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はイギリスのSF作家J・G・バラード氏の「ハイ・ライズ」。2015年に実写映画化した作品らしいので、小説は読んでいなくても、映画は見たことがあるという方もいるかもしれませんね。

 

かなり癖の強い作家さんで、この作品も手放しに万人に勧められるような作品ではないのですが、僕としては非常に楽しむことができたし、色々と考えさせられる作品だったので、今回このような形でコラムを書くことにしました。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回はそこまでネタバレ要素は多くありません。物語としての大まかな流れについては言及しますが、一人一人の登場人物についての描写や結末についての踏み込んだ議論はありませんので、未読の方でもそれほど抵抗なく読めるのではないかと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

この本を読んで僕が考えたことは、テクノロジーとの付き合い方についてです。考えた結果、僕の中での結論としては「テクノロジーには人間の野生や欲望を増幅するという特性があると認識することが重要である」ということ、そして「テクノロジーによる欲望の沼からは極力離れるべきだ」ということです。

 

本作はJ・G・バラード氏のSF作品のうち、テクノロジー三部作と呼ばれる作品群に含まれる小説です。この作品を通してテクノロジーのあり方や、人間とテクノロジーの関係というテーマについて考えさせられました。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

物語の世界観とあらすじ

まずは簡単にあらすじとこの物語の世界観について説明します。

 

この物語はロンドンの郊外に建てられた高層マンションを舞台にしたSF小説です。40階建の超高層マンションには2000人を超える人が住んでおり、そのマンションの中にはスーパーや銀行、ジムや小学校まで揃っており、その中で一つの世界を形作っています。今の時代からするとそこまで突飛な設定ではないようにも見えますが、この小説が書かれたのが1970年代(約40年前!)であることを考えると、当時としては非常に斬新な設定だったのだと思います。

 

物語で描かれるのは、この高層マンションを舞台とした野生帰りともいうべき住人たちの狂気です。人々が理性を失って欲望に忠実になった結果、互いに罵り合い、暴力を行使し、破壊の限りを尽くすという、高級マンションという舞台に全く不釣り合いで非常にグロテスクな地獄絵図 ー それがこの小説全体に渡って展開されます(だからこそあまり万人にオススメは出ないのですが…)。

 

このマンションは、階層ごとに住人のタイプが異なっており、1〜10Fくらいまでの低層には雇われの労働者、10〜35Fくらいまでの中層には医者や弁護士、会計士などの知的労働者、35F以上の高層には実業家や経営者、映画女優などのいわゆるセレブが住んでいます。そのような階層社会において、ほんの些細なきっかけから始まった階層間の対立がどんどんエスカレートしていき、マンション全体が欲望にまみれた狂気の無法地帯に変わっていく様子が非常にグロテスクに描かれています。

 

これは余談ですが、僕がこの小説を読んでいて印象的だったのは、どんどん理性を失って過激な階層間対立を繰り返す住人たちの様子を見て、狂っていると思いつつも、それを見ていて「面白い」と思っている自分もいたことです。ちょっと理解しがたい感情かもしれませんが、週刊誌やワイドショーで展開されるゴシップを見ているような面白さ、というとなんとなく想像できるかも知れません。

 

僕は、基本的にそう言ったゴシップは低俗なものと思っていて、週刊誌やワイドショーを見ることはありません。しかし、そんな自分でもこの物語に引き込まれてしまったというのが衝撃でした。登場人物の野生化を描くことで、読者の方までも野生に引きずり落とすあたりがJ・G・バラードという作家の凄さだと認めざるを得ません。

 

欲望の増幅器(アンプ)

さて、それではなぜそのような理想に満ちた高級マンションが狂気の世界に転落してしまったのかを考えてみましょう。

 

この高級マンションは、最新のテクノロジーを駆使した建造物で有り、すでに述べたようにマンション内にスーパーやジム、プールから小学校まで揃っており、至れり尽くせりな作りになっています。今となってはそこまで物珍しい訳ではないかも知れませんが、それでも字面だけ見ると誰もが羨む環境と言って差し支え無いと思います。そんなマンションのどこがいけなかったのでしょうか?

 

もちろん、色々要因あるとは思いますが、僕が注目しているのは次の二点です。つまり内部だけで完結されたクローズな閉鎖空間だということ、そして住んでいる物理的な上下関係がそのまま社会的な上下関係を表しているという階層構造です。マンション内にさまざまな設備を取り入れることができたがために閉鎖的なコミュニティとなってしまったこと、そして、多層に分断された高層マンションという設備自体がその狂気を生み出したのではないかと思います。

 

閉鎖的な社会では、一般的な倫理観が欠如し、欲望や本能が暴走した結果、集団的な錯誤が起こりやすいと理解できますし、物理的な階層構造が高層の人たちの支配欲や優越感、低層の人たちの嫉妬や劣等感を想起させたと考えるのは想像に難くありません。

 

そういう意味では、テクノロジーを結集した高層マンションの構造自体が人間の欲望や本能を増幅させる方向に働いたと言えるでしょう。このように、「テクノロジーには人間の野生や欲望を増幅するという特性がある」というのがこの小説における一つのテーマではないかと思います。

 

当時の社会的背景と今のテクノロジーに思うこと

バラードが小説(特にテクノロジー三部作)を通して描きたかったことは、テクノロジーへの危惧であるというのは間違いないと思います。同じくテクノロジー三部作の一つである「クラッシュ」の冒頭に前書きとして次のような文が書かれています。

 

いうまでもなかろうが、『クラッシュ』の究極の役割は警告にある。テクノロジカル・ランドスケープの辺境からますます強まりつつある声で呼びかける、この野蛮な、エロティックな、光り輝く領域への警戒信号なのである。

 

正直、僕自身もこの文章の主張している内容を完全に理解しているとは言い難いですが、テクノロジーに対する警鐘であることは疑いないと思います。

 

これもよく言われることだとは思いますが、バラードのこの技術に対する危機感というのは、この小説が描かれた社会的背景も関係していると考えられます。1970年代というのはまさに米露による冷戦があった時代です。核戦力技術の発達に伴い、互いを征服せしめんとする欲望がテクノロジーにより増幅され、お互いが世界を壊滅させられるに足る戦力を持つという危機に瀕した時代です。このような、壊滅的・破滅的な局面において、このテクノロジーの持つ力やそのあり方について問うているのが、バラードのテクノロジー三部作であり、「ハイ・ライズ」ではないかと思うのです。

 

そして、テクノロジーとの関わり方という意味では、現代を生きる我々にとっても重要な課題であるように思います。もちろん、時代が違えばテクノロジーも違うので、全てを一緒くたに話すのは理性を欠いていると思いますが、テクノロジーが人間の欲望を増幅するという側面は我々の身近なレベルでも散見されるように思います。以下は、あくまでも僕が違和感を覚えるというレベルのものであり、それを全面的に否定するつもりはありません。ただ、ちょっと立ち止まって冷静に考えてみてもいいのかなとは思います。

 

ぱっと思いつく例がネット上で繰り広げられる不毛な罵り合いや差別的な表現です。もはや日常に溶け込んでしまい、テクノロジーと言うには少し違和感を感じるインターネットですが、それによって顔の見えない同士が簡単に(しかも匿名で)交流できるようになりました。しかし、議論がエスカレートしていくに従って、本能的な攻撃性が増幅された結果、面と向かってであれば絶対にしないような過激な表現が平然となされていることは、冷静に考えると恐ろしいことだと思います。

 

また、最近の話題でいうとAmazonなんかで採用されている、AIを利用したリコメンド機能なんかも結構危ないと思っています。もちろん適切に使っている分には問題ないと思いますが、自分にとって魅力的なものがテクノロジーによって次々と目の前に差し出されるというのはなかなかディストピア感溢れる光景です。他人を傷つける類のものではないものの、欲求の増幅に直結するシステムであり、一度はまってしまうと自己破滅的な行動に繋がりやすいと思います。これは、スマホゲームにおける課金ガチャなんかにも言えることかもしれませんね(僕はスマホゲームはやらないので実態はわかりませんが)。

 

あと、これは対して害のない物なのでそこまで問題視しているわけではないですが、SNSでのイイねやフォロワー数に対する執着なんかも、見ていて欲求の増幅という単語が頭をよぎります。もちろん、そういったものを自分のやりたいことのモチベーションにするならいいと思いますが、それ自体が目的になっているようなケースも多い気がします。

 

最近Twitterでちょくちょく見かける「フォロー&リツイートしてくれたら拡散します」的な企画も、フォロワーを増やしたい人がフォロワーを増やしたいという欲望を利用してフォロワーを増やしていくみたいな自己増幅機能的な構造がみえるような気がします。まあ、本人たちが楽しんでやっているだけなら別に僕が口を出すようなことではないですが、それによって一喜一憂して本当にやりたいことができないならば本末転倒だと思います。

 

これらの例は、冷戦における危惧に比べると議論を矮小化させすぎなことは否めません。しかし、テクノロジーが人間の欲求や本能を増幅させ、理性を失う特性を持っているという側面においては、全く同じ構造であると言えるでしょう。

 

テクノロジーとの付き合い方

では我々は、このような危うさを持つテクノロジーとどのように付き合っていくべきなのでしょうか?

 

もちろん、テクノロジーに良い面もあるのはまぎれもない事実です。テクノロジーによって我々の生活水準は飛躍的に上がりましたし、場所や出自、人種と言った壁を超えて世の中をオープンにしたという功績は強調してもしきれません(この辺りは以前「フラット化する世界」のコラムで書きました)。

 

【読書コラム】フラット化する世界 - 先進国におけるグローバル化の意味 - たった一つの冴えた生き様

 

それに、これだけテクノロジーに囲まれた生活を強いられている現代人にとって、テクノロジーを手放すことは現実的ではありません。

 

やはり大事なことは、テクノロジーを利用しつつも、常にその負の側面を忘れないということだと思います。僕も含めて人間はどうしても欲望というものに引っ張られがちです。理性的に行動しているつもりでも、気がついたら欲望の沼にはまっていたというケースは少なくないと思います。だからこそ、常に自分が沼にはまっていないかを省みて、もしそこに浸かっているようであれば即急に脱出するという決意を持つことが重要だと思うのです。

 

あとは、欲望の沼からはそもそも距離を置いておくというのも一つの手ですね。僕自身がスマホゲームに手を出さないのもそれが理由の一つで、一度手を出すと歯止めがかからなくなってしまうのではないか、という危惧があるのでそもそも手をつけないという戦略をとっています。やらないと困ることであればそうもいきませんが、スマホゲームくらいならやらなくても特に損をするわけでもないので、時間の節約という意味でもやらないと決めているわけです。

 

これこそが、冒頭に書いた「テクノロジーには人間の野生や欲望を増幅するという特性があると認識することが重要である」ということ、そして「テクノロジーによる欲望の沼からは極力離れるべきだ」という言葉の意味です。僕はもともと理系だということもあり、テクノロジーには興味が尽きないですが、そのいい面と悪い面をしっかり見据えつつ利用できるような人間でありたいですね。間違ってもテクノロジーに使われる人間にはなりたくないものです。

 

まとめ

今回はJ・G・バラード氏の「ハイ・ライズ」を読んで考えたことを書いてみました。改めて考えてみると、約40年前の作品とは思えないくらい、示唆に富んだ作品であると思いました。テクノロジーの発達はとどまるところ知らないので、人間とテクノロジーの関係は今後も問い続けていくべき課題なのだと思います。そういったものに対して思いを巡らせることができる、ということこそがSFの醍醐味ですね!

 

それでは、また!