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【読書コラム】文明崩壊 - 「地球にやさしく」論は今すぐ投げ捨てるべき

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はジャレド・ダイアモンド氏の「文明崩壊」。同著者の「銃・病原菌・鉄」を読んだことをきっかけに、氏の鋭い洞察と明快な文章力に魅力を感じ、ほかの著作も読んでみようとして手に取った本です。「銃・病原菌・鉄」でもコラムを書きましたが、この本も色々と考えさせられる本だったため、コラムを書くことにしました。

 

【読書コラム】銃・病原菌・鉄 - 人生という名のぶん投げられたプロジェクト - たった一つの冴えた生き様

 

小説ではないのでそこまでネタバレは気にならないとは思いますが、一応本のなかで議論されている内容についての言及も多いので、気になる方はお気をつけください。ちなみに、なぜか「起動武闘伝Gガンダム」のネタバレがあるのでそこもご注意ください(笑)

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回はビジネス書ということもあり、特にネタバレは気にしなくていいかと思います。一応気になる方はお気をつけください。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のサブタイトルは「「地球にやさしく」論は今すぐ投げ捨てるべき」であり、環境問題をテーマにしたコラムです。珍しく少しエキセントリックなタイトルですが、その意味するところは環境保護をやめるべきである、ということでは決してありません。僕自身は、こういった問題は人類にとって喫緊の問題であり、世界全体として解決に向かわなければならない問題だと考えています。

 

このタイトルの意味するところは、「環境問題と信仰・感情の問題をごっちゃにして語るべきではない」ということです。これは環境問題が間違いなく深刻な問題であるという認識を前提としていることは言うまでもなく、大事だからこそ、ここをはき違えてはならないというのが僕の意見です。環境問題は多くの人が認識しているところであり、環境意識が高まっていること自体は望ましいことであると思いますが、最近その目的や目指しているところがズレている議論があるように感じます。それを踏まえての今回のコラムとなります。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

本の内容

この「文明崩壊」という本は上下巻からなる非常にボリューミーな本です。前半では主に、人類史において、崩壊した文明と崩壊しなかった文明の比較によって、崩壊した文明に共通する一定の法則を見出す試みが描かれています。著者によると、文明崩壊を語る上で重要なのは、限られた資源であるようです。

 

文明の発達によって人口が増加し、それに伴って限りある資源の奪い合いが起こったことや、最終的に資源が枯渇したことが文明崩壊の主因であると述べています。崩壊した文明の例としてはモアイで有名なイースター島の事例などが挙げられており、逆に崩壊しなかった文明としては日本の徳川幕府がピックアップされています。

 

後半では、現在のグローバル化した地球全体をひとつの文明ととらえ、石油や食料、森林などの資源の枯渇に対する危惧と未来への展望が述べられています。さまざまな地球環境問題の実態やその対策、マクロ的な収支に着目するという基本的ながら明快な理論が描かれており、非常に読み応えのある本でした。

 

特に土壌のサイクルについては、正直言って僕はまじめに考えたことがなかったので、とてもハッとさせられましたし、先進国の繁栄は過去の蓄積の浪費によってなされたということは、先進国の人間として改めて考えさせられることでありました。

 

環境問題に対する真の目標

ここで環境保護や持続可能社会に対する基本的な目標をはっきりさせたいと思います。それは「人類が生き残るため、人類という種がその生存を維持し続けるための取り組みである」ということです。それは何よりも、将来的に無為な戦争による悲劇を引き起こさないために必要なことです。資源の枯渇やその恐れが戦乱や虐殺の火種になることはすでに歴史が証明していることです。

 

だからこそ、省エネが声高に叫ばれているのであり、再生可能エネルギーの開発による石油資源からの脱脚もその一環です。もちろん、それだけでなく、動物保護も気候変動の回避も食料問題も、砂漠化の問題も全て人類が継続的に生き抜くための取り組みです。

 

石油や石炭は使い尽くせば再生はできないし、森林も人為的に再生するには途方も無い時間がかかるため、伐採のペースが植林のペースより早ければいずれは地球は丸坊主になってしまいます。そうなったとき、人類は生活を維持することはできなくなり、限られた資源を奪い合うために戦争や虐殺と言った悲劇が起こるのは間違いありません。

 

「人類のための環境保護」と言うと違和感を感じる人もいるかもしれませんし、ある意味そうであるからこそ、このコラムを書こうと思ったわけです。どちらかというと地球環境を守ること自体が目的であり、「人類が生き残るため」というと、なんとなく身勝手な印象を覚えるかも知れません。しかし、環境問題の本質は「人間にとって都合のいい」環境を維持することなのだと言うことを理解する必要があります。人類が生き残るために環境の維持が必要なのであって、環境の維持自体が目的ではないのです。

 

「地球にやさしく」論

「人類のための」地球環境の保護という考え方がピンとこない人は「人類が地球を汚してきたのだから、贖罪として地球を浄化する必要ある」といった考え方があるのではないかと思います。すなわち、「人類のための」環境保護ではなく、「地球のために」環境問題を考えるべきであるという考え方です。実はこの「地球のための環境保護」という考え方こそが、僕が『「地球にやさしく」論』と呼んでいるものです。僕は、この考え方は非常に感情的・情緒的であり、一つの信仰と呼んでも差し支えないすら思います。

 

こういうことを言うと勘違いされるかもしれませんが、もちろんそれ自体を否定するつもりはありません。ただ、これを環境問題解決という取り組みに持ち込むべきではありません。

 

この考え方に対する僕の反論は、地球にとっての絶対的な価値基準など無いということです。言い換えれば、地球にとって「良いこと/悪いこと」や「きれい/汚い」とは何か?という問いには誰も答えられないと言ってもいいでしょう。なぜなら、地球は地球であり、それは一個の人格を持った存在ではないからです。

 

もっと言うなら、その「良いこと/悪いこと」や「きれい/汚い」の価値規準を決めているのは他でもない人間です。ちょっと分かりづらいと思うので、いくつか例を出しましょう。

 

例えばNox,Soxと呼ばれるような大気汚染物質、もっと身近なものであればPM2.5と呼ばれる物質は一般的に「汚い」ものであり、地球を汚すものであると考えられています。では、なぜこれらは「汚い」と考えられているのでしょうか? 答えは簡単で、「人間にとって」それらの物質が有害であるからです。

 

また、猛暑や集中豪雨、豪雪や洪水などの自然災害は地球にとって「悪い」ことのように考えられがちですが、それが「悪い」とされる理由は、そこに住む人間の営みにとって都合が「悪い」からに他なりません。

 

ほかの例を出すならば、地球温暖化によって絶滅が危惧される動植物がいる一方、温暖化によって繁栄する動植物だっているはずです。そのどちらが地球にとって「良い」状態なのでしょうか?そんなものを決められるはずがないということは納得いただけると思います。

 

これらのことを考えると、「良いこと/悪いこと」や「きれい/汚い」と価値規準を決めているのは人間であって、地球それ自体ではないということが良く分かると思います。地球にとって「良いこと/悪いこと」「きれい/汚い」といったの価値規準なんてものは存在しないのです。

 

これは僕の個人的な考えですが、このような考え方が蔓延している背景としては、単純に環境問題の難しさというのがあるのだと思います。環境問題は非常に広範囲に及び、その全体像を把握することは極めて困難です。エネルギーやエントロピーといった熱力学の知識はもちろん、化学や農学、生物学や栄養学などいろいろな知識が必要で、その全てを理解することはなかなか難しいです(熱工学を専攻していた僕自身も、その全てを理解しているかというと怪しいです)。

 

一方、「人類が地球を汚していて、それを償うために浄化しなければならない」と言えば誰にでも理解できますし、そこに泣いている黒ずんだ地球のイラストなんかをつければ人間は簡単に共感できてしまいます。環境問題の理解を促進する上でこのようなアナロジーが大いに利用されたことが、環境問題の捉え方に大きく影響を与えているように思います。ただ、実際問題としてそれは非常に成功していると言っていいでしょう。皮肉なことに環境意識は過去に比べればずいぶんと高まっていると思います。

  

これはさらなる深読みですが、このような考え方は特に日本人には刺さりやすかったのではないかと思います。日本人には、もともとアニミズムという自然信仰が定着しており、存在するものすべてに精神性を見出す考え方が根付いています。

 

ここのところ特に顕著な、擬人化文化の流行もこれに基づいているのではないかと思っています。つまり、物質でしかない刀や戦艦を擬人化し、そこに人格を付与するというのは日本人には馴染み易かったのでしょう。そんな日本人だからこそ、人間に痛めつけられた地球という構図をうけいれやすい土壌が整っていたのではないかと思うのです。

 

環境問題に精神性を持ち込む危うさ

上記のような議論をすると、「結果的に環境意識が高まっているのであれば、問題ないではないか」という意見もあるかもしれません。しかし、僕はそれは正しいとは思えないのです。確かに人間にとっての利害と地球にとっての利害(そんなものがあるとするならば)が一致している分には問題はないようにみえます。

 

例えば、森林伐採に関して「木がかわいそうだから」という理由であっても、それが人類の存続に寄与するのであれば結果的には問題ありません。同じように、「石油は汚いエネルギーで、太陽光や風力はきれいなエネルギーなので、極力石油への依存度を下げましょう」という言説も、問題ないように見えます。

 

しかし、その利害が衝突した時、その精神性は環境保護の本来の目的を誤らせがちです。それの極端な例がガンダムシリーズの「起動武闘伝Gガンダム」に出てくるデビルガンダムの存在です。この話では、地球を浄化するためにつくられたアルティメットガンダムが、「人類は地球にとって害悪な存在である」と結論づけ、人類を抹殺するデビルガンダムに変貌するという展開が描かれています。

 

人類が地球を汚染する存在であるという結論はなんとなく納得してしまいがちですが、これまでの話を考えれば分かる通り、これは本末転倒の話です。すなわち、人類を守るための地球環境保護なのに、地球環境を保護するために人類を抹殺するという矛盾です。もちろんこれはフィクションの話なのであまり深刻に捉える必要はないかも知れませんが、環境保護自体が目的になった場合の危うさがなんとなく実感できる例ではないでしょうか?

 

そこまで極端な話ではなく、もう少し身近な例だと、農薬の開発に対する反発なんかが挙げられます。もちろん、農薬の開発にあたっては人体への安全性や環境に与える影響について十分検討されるべきですが、その開発自体が悪ではないことは明らかです。食に拘りを求める人が農薬をつかわない野菜や穀物を求めることに異論はありませんが、そのやり方で全人類の食物を供給することは不可能でしょう。

 

だからこそ、農薬の開発というテクノロジーが必要だということです。これもデビルガンダムの例と同じように、農薬が環境を汚染するから開発なんてするべきでないとすると、地球を守るために本当に守るべき人類が守れないという矛盾に直面します。

 

また、捕鯨の問題なんかも似たようなものを感じます。クジラが絶滅すると生態系が大きく変わる可能性があり、それが人類の生活に大きく影響を与えかねないからという理由で捕鯨に反対するのは理解できます。僕自身は人類による捕鯨が、クジラの生態系に与える影響を知るためのデータを持っていないので、それが真に合理的なレベルなのかは判断できないですが、その考え方自体には納得できます。

 

しかし、だからといってクジラがかわいそうだから捕鯨をするべきではないという話では決してありません。(僕がどう思うかは置いておいて)そういった議論を否定するつもりはありませんが、最近の議論を見ていると持続可能社会としての捕鯨問題と感情論がごっちゃにされて議論されているように感じます。互いに違う目標に向かっている限り議論に収集がつきませんし、本来するべき議論が感情論に矮小化されてしまう恐れもあります。

 

これらのことからも分かる通り、環境保護の本質目標は人類という種の維持だということを忘れてはいけないと思います。だからこそ、僕は「地球にやさしく」論などさっさと投げ捨てるべきだと考えるし、それこそが冒頭に書いた「環境問題と信仰・感情の問題をごっちゃにして語るべきではない」という言葉の意味です。

 

 念のために繰り返しますが、自然信仰やアニミズムそのものを否定するつもりはありません。フィクションの世界で擬人化を楽しむのもいいと思うし、僕自身も(最近は積極的にみることはないですが)SNSとかそういった情報が流れて来た時、面白いと思うものもあります。また、自然と人間の共生という考え方や、自然や物を大切にすること自体は非常に素晴らしいことだと思っています。

 

しかしそれでも、僕は「人類のために」という手前勝手な理由で環境保護をしているという視点は常に持っていなければならないと思います。人類のためという捉え方はとても身勝手に見えるかもしれませんが、僕はそれが将来の戦乱や虐殺と言った悲劇を避ける唯一の道だと信じています。

 

まとめ

今回はジャレド・ダイアモンド氏の「文明崩壊」を読んで感じたことを書いてみました。自然環境問題の議論は今更な感じはありますが、最近いろいろな場所での環境論を見ていて違和感を感じることが多かったので、僕の考えているところをまとめてみまた次第です。

 

それでは、また!