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【読書コラム】フラット化する世界 - 先進国におけるグローバル化の意味

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はトーマス・フリードマン氏の「フラット化する世界」。もう十年くらい前の本ですが、2000年代から急速に進んでいるグローバル化の流れを理解するうえでは、今でも十分参考になる本だと思います。

 

あまり本の内容について突っ込んだ部分に対する議論があるわけではないので、ネタバレは特に気にせず読めると思います。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回はビジネス書ということもあり、特にネタバレは気にしなくていいかと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のサブタイトルは「先進国におけるグローバル化の意味」です。結論から言ってしまうと、グローバル化の本質は「先進国からの既得権益の剥奪」である、というのが僕の考えです。ややエキセントリックな表現ですが、もうちょっと柔らかく「先進国から途上国への既得権益の一部譲渡」と言い換えてもいいかもしれません。それを踏まえて、「常に自分の頭で考え続け、学び続けることが必要である」というのが、この本を読んで僕の考えたことです。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

発展途上国の台頭

グローバル化については、その言葉が広く知られるようになってから長い時間がたっているので、皆さん既にご存知のことと思います。特にビジネスの世界では、中国とインドの台頭が著しく、先進各国の産業や雇用に大きな影響を与えています。

 

この本の中で、グローバル化の流れの要因について詳しく書かれていますが、一番大きいのは皆さん想像の通りITツールの発達でしょう。20年前は事務所で紙とペンを使って行われてきた仕事の多くは、瞬く間にパソコンを使った仕事に置き換えられ、インターネットの発達によってノートパソコンとWifi環境さえあればどこでも仕事が出来る時代になりました。

 

打ち合わせや会議なども、今となっては必ずしも全員が同じ場所に集まる必要はなく、Webツールを通して遠隔地から行うことも可能です。これにより、これまで日本やアメリカ、ヨーロッパの先進国に集中していた仕事が、途上国でもできるようになったというわけです。

 

また、このITの発達に伴い、教育格差が是正されてきているというのも大きなポイントです。これまで、先進国の図書館や資料室にしかなかったような知の集積が、インターネットによってオープン化されるようになりました。これによって、(英語さえ出来れば)世界中のどこからでも最先端の情報にふれることが出来るようになり、必ずしもしっかりした教育制度の無い国の人でも高度な教材を安価で手に入れることが可能になりました。

 

このような背景により、発展途上国の人たちがグローバルなビジネスの舞台に突如としてなだれ込んできたわけです。プログラマーなんかはかなり分かりやすい例ですね。単純にプログラムを組むことしか出来ない日本のプログラマーにとって、いまや情報大国となっているインドのプログラマーとの戦いは不可避です。彼らは日本人より人件費が安い上、英語を標準装備しているので、正面からぶつかるとかなり分の悪い消耗戦を強いられます。日本においてSEの仕事がブラックと言われることが多い理由は、このあたりにもある気がします。

 

保護主義の流れ

この本の中で、途上国の台頭の脅威にさらされた先進国の反応のひとつとして、保護主義の流れが指摘されています。つまり、先進国が国内雇用や産業の保護のため、関税など様々な障壁をつくろうとする動きです。

 

もちろん、これも皆さんご存知の通り、先進国全体の方針としてこの保護主義が掲げられているわけではありません。むしろ保護主義をやめてオープンにするべきだという意見は先進国の中でもあり、日本においても(色々と課題はあるものの)TPPの議論が進んでいたり、日-EUの自由貿易協定が結ばれたりとオープン化の動きも進んでいます。

 

しかし、この保護主義の問題は根強くのこっており、この本が出版されてから10年たった現代でも解決にはほど遠い状況です。イギリスのEU離脱問題があったりトランプ政権による米中貿易戦争などの話は皆さんご存知のことと思います。

 

グローバル化の本質

ここまで、途上国の台頭と先進国における保護主義について書いたわけですが、「そもそもグローバル化の意味するところはなんなのか?」ということを考えてみます。

 

確かに途上国の台頭は先進国に生きる人にとって大きな脅威となります。先に書いたプログラマーの例を見ても、それはなんとなく理解できると思います。しかし、一度ニュートラルな立場に立って「出自や人種に関わらず頑張った人が報われる社会になる」と考えるとグローバル化自体は非常に望ましいことであると言えます。

 

そう考えると、グローバル化の本当の意味が分かってきます。つまり、以前の社会では、教育レベルや情報などの偏りによって先進国の人にしかなかったチャンスが、全人類に対して等しく与えられるようになるということです。

 

スマホさえあれば英語の勉強用のアプリは簡単に手に入りますし、Youtubeを見れば中等教育レベルの教材は無料でいくらでも閲覧できます。そういったものを駆使して必死に勉強する途上国の子どもと、遊んでいるだけの先進国の子どもを比べたとき、どちらが将来的に良い生活をすべきかを問われれば、多くの人が前者を選ぶことでしょう(あくまで例であって、途上国の人のほうが努力家だとか先進国の人が怠け者だとかという議論をするつもりはありません)。

 

これを先進国の立場から言い換えたのが、冒頭に書いた「先進国の既得権益の剥奪」と言うわけです。すなわち、今までは全人類の数%しかいない自分達だけしかアクセス出来なかった情報(既得権益)に、大量のフリーライダーが押し寄せてきたために、その優位性が揺らいできているという構図です。保護主義とは、この流れに対して、既得権益を守るために直接的・間接的にバリアを設けることに他なりません。

 

もちろん、全ての障壁を今すぐに無くすべきというつもりはありませんが、これらの障壁は既得権益を守るためのものである、ということは認識しておくべきことだと思っています。そのような背景もあり、既得権益を守ることに注力するのではなく、フラットな世界でも生き抜くために「常に自分の頭で考え続け、学び続けることが必要である」というのが僕の考えです。

 

頑張らなくていい?

上記の議論だけだと、いつも言っている内容と大して変わらない気がするので、今回はもうちょっと突っ込んだところまで話したいと思います。「学び続ける必要がある」と言うと、「そんなに頑張らなくても生きていけるからいいじゃないか」と思われる方も多いと思います。僕は、この「頑張らなくていい」というのは半分正しく、半分間違っていると感じます。

 

まず、同意できる部分について話すと、「学ぶこと」と「頑張ること」は必ずしも一致しないので、頑張ることは絶対に必要なわけではないと思います。正直言って、僕自身も自分が頑張っているという意識はありません。本を読んだり、人と話したりして知識や新しい価値観が入ってくるのはとてもワクワクすることですし、一度習慣化してしまうと特に学ぶことが大変だとも思いません。

 

一方で、だからと言って「学ぶ必要がない」とは思いません。そもそも、何も考えなくても安定してそこそこ良い生活できるというのは、先進国というごく限られた地域の、ごく限られた時代の幻想ではないかと考えています。人類はその起こりから、常に考え、新たな知を発見し、発展してきました。狩りの時代から農業を発展させることで定住を可能とし、産業革命に始まる工業によって便利なものがつくられ、今は情報化の真っ只中にいるわけです。そうやって少しずつ安定し、生きやすい社会を作り続けてきたわけですが、残念ながらまだ本当の意味での全人類の安定が得られているとは言えません。

 

確かに、日本は高度成長期からバブル崩壊のあたりまでの期間、一般人は何も考えなくても汗を流しさえすれば安定した生活が得られるという「一億総中流社会」という社会モデルを作りあげました。それはそれで非常に上手くいっていたし、その時代はそれで問題なかったのだと思います。しかし、全人類規模でそれ行うのが現実的ではないということは火を見るより明らかです。言い換えれば「頑張らなくても(≒学ばなくても)生きていける」というのは、先進国という砦に守られていることが前提であり、その他多数の途上国を締め出しているからこそ成立する、ということです。

 

例えて言うならば、古代ギリシアで哲学を楽しんでいたソフィスト達の背後には、奴隷階層がいたということから目を背けてはいけないと思うのです。もちろん、だから古代ギリシア人は極悪非道だ、という意味ではないです。現代の価値観から古代の社会を非難するのはフェアではないでしょう。ただ、そういう事実から我々が何を学べるか?という話です。

 

こういう話をすると、先進国としての利益を享受しながら、そのようなことを言うのは偽善的ではないか?と感じる方もいるかもしれません。それはそれで正しい指摘だと思いますが、僕がしたいのは善悪の議論ではなく、こういった実態を踏まえて自分がどう生きたいと思うのか?についての議論です。

 

僕は途上国を締め出すことが前提で、ほぼ崩壊寸前の先進国という砦の中で「頑張らなくてもいいよね」と言いながら生きるよりも、全人類が同じ土俵の中で、互いに高めあいながら生きるほうを選びたいです。もちろん、これはもう個人の選択なので、こういった状況を踏まえたうえで「頑張らなくてもいい」ということを選ぶのであれば、僕にどうこう言う資格はありません。ただ、自分が今立っている場所の土台にあるものについて、少しでも目を向けて欲しいなというのが僕の偽らざる思いです。

 

まとめ

今回はトーマス・フリードマン氏の「フラット化する世界」を読んで感じたことを書いてみました。自分で書いてみて思いましたが、ちょっといつもより説教くさいですね(汗)。あくまでも自分の思いを書いていたらこうなってしまったので、大目に見て頂けるとありがたいです。

 

それでは、また!