こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は芥川賞作家・村田沙耶香さんの『殺人出産』(講談社文庫)。詳細は後ほど書いていきますが、人々のイメージを軽々と飛び越えた世界観を描き出し、現代を生きる我々の常識を激しく揺さぶる、村田さんらしい小説だといえると思います。今回は、この本を読んで感じたことや、それをきっかけに考えた事を書いていきたいと思います。
おことわり
本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。
1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。
書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。
2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。
本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。
3. ネタバレ
冒頭に書いた通り、今回はネタバレ全開です。中編なのでそこまで気にならなかも知れませんが、気になる方は是非一度この小説を読んでからご覧いただければと思います。
前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。
総括
村田沙耶香さんは、僕が現代日本の作家としては非常に魅力的だと感じている作家の一人です。この「殺人出産」という小説も例に漏れずとても刺激的で、知的好奇心を揺さぶられ、色々な事を考えさせられる作品だと感じました。それ故に一つのコラムとしてまとめるのに苦労したわけですが、今回はある一つの切り口に焦点を当てて考えていきたいと思います。とても一度で語りきれる作品ではないと思うので、またいずれ別の切り口からコラムを書くことになるかもしれません。
今回考えてみたいのは、主に「価値転倒」という観点から見た人間の生と死についてです。このコラムで僕が提示したいのは「生命主義の行き詰まりを、いかにして突破するか」という問いです。おそらく、これは明確な答えが出るものではなく、それぞれが人生の中で問い続けるべきものなのだと思います。もやっとした形にはなってしまいますが、今回はあえてはっきりした結論を出さず、この「問いの言語化」という形でまとめたいと思います。
それでは、詳しく見ていきましょう。
「殺人出産」
この小説が描く世界観は非常に独特かつセンセーショナルなので、小説自体は読んでいなくても、その内容は聞いたことがある方も多いかも知れません。その世界観とは「10人出産すれば1人の殺人が認められる世界」。少子化の対策として打ち出されたシステムで、現実的かと言われると首をひねってしまいますが、なんとなく「そんな世界もありかもしれないな」と思わせるだけの説得力はあるように思います。
この「殺人出産システム」が構築された背景は、先の通り少子化への危機意識です。現実世界よりは一歩進んだ科学技術を持っており、人工授精技術が成熟したことに伴い、セックスと出産が完全に分離され、その結果深刻な少子化に至ります。その代案として提案されたのが、先に解説した「殺人出産システム」。容易に想像がつくように、当初は根強い反発があり、導入には時間がかかったようですが、最終的には広く受け入れられるに至った、という設定です。
この世界で紡がれる物語は、「産み人(殺人の権利を得るために10人の子どもができるまで出産を続ける人)」の姉をもつ主人公の職場に、佐藤早紀子という女性が入ってくるところから始まります。様々な人間模様を描きつつ、主人公の姉は着々と出産をつづけ、その報酬としてなされる殺人のシーンで幕を閉じる、というのがこの作品のざっくりとした展開です。
個性豊かな登場人物が多いので、気になる人物をあげればきりがないですが、今回注目したいのが、先に紹介した早紀子の存在です。当初は主人公の職場に入ってきた単なる同僚として描かれるものの、中盤からはその特徴的な人物は「ルドベキア会」と名乗る組織に所属していることを明かし、主人公の姉の殺害対象という重要な役割を演じます。村田さんの小説でもよく出てくるタイプのキャラクターではありますが、この物語を考えていくうえで欠かせない存在なので、その思想については後ほど論じていきたいと思います。
僕はこの作品を読んだとき、殺人出産というシステムに対して不気味な印象を覚えながらも、一方では理にかなっているとも思う自分がいました。そして、印象的だったのは先にも紹介した「ルドベキア会」。この組織の主張(殺人によって子どもを増やすシステムは間違っている)は今の我々の常識からすると至極まっとうな事であるにも関わらず、そのメンバーである早紀子の言動に対して気持ちの悪さを感じてしまう自分。また、なんと言っても殺人シーンのグロテスクさと、美しさ。このような事を書くと僕が非常に危ない人物であるかのように思われるかもしれませんが(笑)、この本を読んだ一定数の人は僕と同じような感覚を抱いたのではないかと思います。
もちろん、作品の感じ方は人それぞれですが、冒頭に書いた通り、人々の常識を激しく揺さぶるような小説であることは間違いありません。中編とはいえ、読み応えは十分の作品だったと思います。比較的時間をかけずに読めるということもあり、未読の方には強くおススメできる作品です。
殺人出産システムへの嫌悪
先に述べたように、この作品を読んだ感想は人それぞれだと思います。この殺人出産システムが全く受け入れられないと感じた人もいるでしょうし、僕のようにある程度の合理性を見出した人もいることでしょう。
しかし、いずれにしても、殺人出産システムをすんなり受け入れられる人は多くはないと思います。フィクションとして「こういう世界もありかもしれない」という意味での受容はそこまで難しくないでしょうが、このシステムを実際の現実世界に採用したいかと問われて、迷いなく首を縦に振ることができる人はほとんどいないはずです。
それでは、なぜ我々はここまで殺人出産システムを受け入れられないのでしょうか?
そんなことは当たり前じゃないかと言われればその通りなのですが、このシステムの何がそんなに気に食わないのかを考えることに意味はあると思います。
まず、親と子どもの関係という家族観や、未だにある程度神聖化されている「出産」を罰であるかのように扱うことに抵抗を感じる人もいるでしょう。しかし、僕の考えは非常に単純で身もふたもないことです。つまり、単純に「殺人」への嫌悪が一番大きいのではないか、ということです。
家族愛的な側面からの反論はあくまでも個人の感情・価値観のレベルでしかありません。もちろん、それが他人の迷惑にならない限りにおいては(これはこれで非常に曖昧な物言いですが、今回はとりあえず置いておきます)あらゆる価値観は尊重されるべきだと思いますが、問題はこの世界は通常のセックスによる出産や家族自体は認めているということです。
セックスによる出産を望む人は珍しいという設定になってはいますが、その権利自体は否定されていない以上、その価値観を根拠とした反論は極めて脆弱です。「セックスにおける出産や家族愛は素晴らしいものだから、それ以外の形を認めない」という主張は、悪く言えば自身の価値観の押し付けでしかありません。
一方で、先ほどから何度も書いている通り、このシステムには合理的と言える側面があることは否めないでしょう。この「殺人出産システム」を哲学でよく話題になる「トロッコ問題」の亜種と考えれば、功利主義的な側面からは正当化されうると思います。トロッコ問題についてご存知ない方は下記のwikipediaの記事をご覧ください。簡単に言うと、何もしなければ5人の死が免れない状況で、自分の選択によって無関係の1人を犠牲にして5人を助けることは道徳的に許されるのか?という問題です。
トロッコ問題 - Wikipedia
もちろん、トロッコ問題を出したからと言ってそれが絶対善であるということには全くなりません。しかし、あくまでも功利主義の立場に立ったときに、「殺人出産システム」に一定の正当化が可能ではないか、というのがここで言いたいことです。
そう考えると、この功利主義に対する明確な反論は「人を殺してはいけない」という事でしかないことが分かると思います。「殺人出産システム」をトロッコ問題の亜種として捉えた場合に、出産と死亡を単純に正負の問題として片付けていいかという問題があり、「10人の子どもが生まれないのは残念だけど、それと引き換えに1人が死ぬことは許されるべきではないので仕方ない」というのは一つの強い根拠になりうるでしょう。この辺りは、どうやっても1人の死は免れないトロッコ問題とは明確に異なります。
しかし、それでも問題は残ります。極めて当たり前のことではありますが、「人を殺してはいけない」もまた一つの価値観でしかないということです。おそらく、現代人類にとっては最も普遍的な価値観の一つであると言えると思いますが、この主張自体はヨーロッパの啓蒙思想時代に端を発する、せいぜい数100年の歴史しかない新しい考え方にすぎません。我々が当たり前だと思っている「基本的人権」なるものが国家憲法として明文化されたのは、ここ100年というレベルの極々最近のことでしかないのが現実です。
哲学者のハンナ・アーレントは「人間の条件」(ちくま学芸文庫)という政治哲学の本の中で、近代以降の価値観を以下のように述べています。
「私たちがここで扱っているのは、実際は、最も粗野で、最も無批判的な生の哲学にすぎないことがわかる。結局のところ、一切のものが関連づけられている最高の標準は、常に生命そのものである。」
功利主義や快楽主義、苦痛の最小化などの政治における様々な考え方がありますが、ハンナ・アーレントは、その根底にあるのは「けっして幸福ではなく、個体生命の促進、あるいは、人類生存の保障である」と看破しています。要するに、近代以降の人類は「すべての生を大事にする」ことを第一教義としてきたというわけです。注意したいのは、ハンナ・アーレント自身はそれが「良い・悪い」の価値判断をしているわけではないということです。単に、近代以降の人類がこの価値観を重視してきたという指摘に過ぎないことは補足しておきたいと思います。
ここでは、この考え方を「生命主義」と呼びたいと思います。ここでいう生命は人類に限ったものなので、本来的な意味を考えると正確ではないと思いますし、ほかの意味でこの言葉を使っているケースも限りなくあるとは思いますが、そこはご容赦頂けるとうれしいです。いずれにしても、ほとんどの現代人はこの「生命主義」の価値観のもとに生きており、だからこそ、「殺人出産システム」を素直に受け入れることができないのでしょう。
しかし、これは逆のことも示唆しています。つまり、数百年単位の時間が経った将来、「生命主義」が廃れて「殺人出産システム」が受け入れられる可能性を否定するのは難しいということです。もちろん、この形が現実になるとはあまり思ってはいませんが、「すべての生を大事にする」という価値観が棄却されたとき、「殺人出産システム」は合理的オルタナティブ(代替策)として提示されうることは否定しきれないでしょう。
ルドベキア会の気持ち悪さ
「殺人出産システム」を否定しきることの難しさ、それを体現しているのがルドベキア会の早紀子の言動ではないか、そんな風に思います。
物語中に描かれる早紀子の基本的価値観は『「殺人出産システム」は間違った世界であり、従来の「正しいあり方」に戻るべきだ』というもの。だからこそ、「産み人」として生きる主人公の姉を「犠牲者」として位置付け、目を覚ますように諭します。一方で、主人公の姉から見ると、この「殺人出産システム」こそが「正しいあり方」であり、早紀子の説得などどこ吹く風な態度です。そして、挙げ句の果てに、その早紀子を殺人の対象に選ぶという始末。
病院における、早紀子と姉の口論は物語中の重要なシーンの一つです。少なくとも僕の目から見ると、理にかなったことを言っているのは姉の方であり、早紀子の言葉はひどく身勝手で価値観の押し付けのような印象を受けました。ポイントは、早紀子の言葉は現代に生きる人の常識からすると当たり前のことにもかかわらず、読者は(少なくとも僕は)早紀子の言い分が不合理であるように見えるという事実です。
この口論の中に「生命主義」の明確な矛盾が見出せるように思います。全ての生を大事にすることは、生を大事にしない人を大事にできないという矛盾です。これは自己矛盾の典型的な例であり、構造的な矛盾であるが故に解決は原理的に不可能です。
わかりやすくいうと「人に意見を押し付けてはいけない(という意見を押し付けている)」「多様性は尊重されなければならない(多様性を尊重しない多様性は認めない)」と同じ構造です。余談ではありますが、おそらく死刑や妊娠中絶の是非をめぐる議論もこの辺りの話の延長上にあります。だからなかなか明確な答えが出せない。
また、「生命主義」の困難さは、早紀子が「死に人」になった時、主人公を暴力によって屈服させようとしたところにも見られます。自分の生命の危機に立って、それでもなお他人の生命を尊重するのは難しいという当たり前すぎる事実です。これと似たような話として、限られたリソースの奪い合いに立った時に「生命主義」は脆くも崩壊するだろうことも想像に難くありません。多くの虐殺や戦争の根底にあるのは、人口の幾何級数的増大に対して有限のリソースでは賄いきれないという現実です。
さらに、主人公の同僚が漏らした「殺人出産システム」のメリットも無視できません。それは、以下のセリフです。
「生きていることが尊く感じられるよね。死の可能性がそばにあることが、生きていることの素晴らしさをますます強く伝えてくるっていうか」
ここで言っているのは、死の意識によって生の意識が生まれるということです。生を肯定するためには死をも肯定する必要があると言い換えても良いと思います。「殺人出産システム」であれば、自分が「死に人」に選ばれる可能性という形で死を意識することができるので、それによって生の大事さを意識することができるというわけです。
しかし、翻って全ての生を大事にする「生命主義」はどうなのかと考えてみると、その問題点が見えてくるわけです。すなわち、生を大事にすればするほど死が否定され、それによって生が肯定出来なくなるという矛盾が生じるということです。
「生を大事にしない生を大事にできないこと」「現実問題として、有限のリソースで全ての生を肯定することはできないこと」「生を肯定するには死の肯定が必要だが、死の肯定は全ての生の肯定と相容れないこと」。これらの矛盾は結局同じ事を言っています。つまり、「生命主義」は全ての生を肯定することの不可能性に直視していないということです。「ルドベキア会」の早紀子がひどく欺瞞的に見えるのは、おそらくそのためだと思います。
ルドベキアの花言葉は「正義」。この正義の身勝手さと、その身勝手さにすら無自覚な傲慢さに対する憤り、村田沙耶香さんの文章からはそれを強く感じてしまいます(村田さんの本心はわかりませんが…)。生の大事さを押し付けられることに対する耐え難さ、それに共感している人が多いからこそ現代日本で強い支持を得られているのではないかと考えてしまいます。
価値転倒の連鎖と死の効用
このように考えてみると、いよいよ持って「殺人出産システム」とは理想的な社会なのではないかという気になってしまいます。「全ての生を大事にする」ことを諦めることで、生と死の両方を肯定する。セックスが出産と分離されたことで行き詰まりを見せた社会が生み出した、殺意をドライバーとする社会秩序。人間の攻撃性を肯定し、そこから繋がる死を肯定することで生の肯定を目指した社会。
死を肯定するからこそ、殺人出産システムの犠牲になった「死に人」は手厚い尊重のもとに葬られる。一見残酷で無慈悲に見えるシステムのようですが、現状のシステムに比べればはるかに生というものに正面から向き合い、命というものを尊重しているようにすら見えてしまいます。
もちろん、「全ての生を大事にする」ことを前提とした価値観をもった、僕自身も含めた現代人からするとそれが受け入れがたいのは何度も指摘している通りです。理論的には理解できるけど、どうしても受け入れがたい感情が多くの人にはあると思います。現代人は死から人間を保護し、日常から死の匂いを排除し、少しでも死を先延ばしにするために医療を発達させる。僕自身としても、「全ての命を大事にする」ことは正しい事だと信じていますし、その信念がないと行動などできません。
さらに思索を進めていくと、それこそが人間に死が必要な理由の一つだと思えてきます。人間はある価値観を信じなければ行動ができないけど、一定の価値観を信じ、行動を続けると状況の変化に対応できなくなってしまいます。だからこそ、人間の死による価値観の転倒を連続的に起こしていくことで、社会全体の可塑性を維持しつつ、それでいて状況を変えるための行動を起こすことができる、というわけです。
有名な話ですが、価値観の転換を意味する「パラダイムシフト」は世代交代を通してしか起きないという説があります。しかし、僕はむしろ、パラダイムシフトを起こすために世代交代という仕組みを利用してきたのが人類なのではないか?そんな風に思えてしまいます。人類は価値転倒の連鎖によって、変動する環境や状況の中で存続することができました。つまり、刻一刻と変化していく社会を維持するためには、人間に死は必要であると言えるのではないでしょうか。
あらゆる世代は、程度の差はあれ価値転倒の犠牲になる必要がある。それが世代交代というシステムです。人間が死ななければならないのは、自分が信じていた価値観を否定されるためであると言えます。これは絶望的なことかもしれませんが、「老害」というフレーズを聞くたびに、おそらくはそういうことなんだろうなと思えてなりません(僕自身がそれを向けられる年齢ではないですが)。
問題は、「生命主義」が明らかにこのシステムと相性が悪いということです。生命主義はあらゆる人間に「いのちを大事に」する事を強要し、従来のサイクルであれば人間の死をもってなされていた価値転倒はなされず、古い価値観が延命し続けます。命の有限性を意識させ、価値を転倒させるための活力となっていた「死」は日常生活から一掃されてしまいました。これは単なる思いつきに過ぎませんが、少子化とはこの機能不全が一つの要因ではないかという気がしないでもないのです(これについては、そのうち別途考察してみたいとは思います)。
だからこそ、「生命主義」の価値観は転倒されずに残り続ける。僕としてもおそらく生きている間にこの価値観から抜け出すことはないんじゃないかと思います(だからこそ、僕はいずれ死ななくてはならない)。これこそが、読者がこの小説に感じるリアリティのなさであり、受け入れ難さだとも言えます。その程度には「生命主義」への信仰は強いし、この「生命主義」自体が世代交代による価値転倒を阻む。
このような視点で捉えると、(村田さんがどのように考えていたかは別として)この「殺人出産」という小説は非常に入り組んだ構造を持っていることがわかります。つまりこういうことです。
「生命主義」の矛盾と身勝手さを露呈させながら、ポスト生命主義とでも言うべき、殺人出産システムを提示する。しかし、そこに現実感の無さと現代人が受け入れがたいほどの気味の悪さを挿入することで、ポスト生命主義に至る世代交代の困難さすらも炙り出していく。完全に深読みのレベルですが、もっと単純にいうと「いのちを大事にされることの耐え難さと、そこから離脱することの困難さ」を描いた小説であると読むこともできるわけです。
だからこそ、冒頭の問いに達するわけです。「生命主義の行き詰まりを、いかにして突破するか」。もしかしたら、世代交代の機能不全というのは杞憂に過ぎず、時代が変われば自然に解決するものなのかもしれません(まあ、そもそも何をもって解決とするのかが極めて曖昧なわけですが)。しかし、この時代の閉塞感や生きづらさが「生命主義」に由来するのかもしれない、そういう視点は無駄ではないと思います。
念のためになりますが、僕は世代交代を機能させるために高齢の人を虐殺すべきとか、大切にしなくていい命があるというつもりは全くありません。先に書いた通り、色々な矛盾や困難は認めつつも、僕はあくまでも「生命主義」の立場をとっていますし、今のところそれを覆すつもりはありません。むしろ、どうすればこの「すべての生を大事にする」ことができるのかを考え、行動していきたいと思っています。
まとめ
今回は村田沙耶香さんの「殺人出産」を読んで考えたことを書いてみました。多くの読者も同じだと思いますが、読み終わってもやもやするものを抱えつつ、それを言語化するのが難しい小説でした。そういうこともあって、今回はまとめるのに非常に苦労したコラムになりました。構想段階で考えていた切り口のうち、結構な部分を切り捨てて、一つのコラムにまとめたということもあり、まだまだ語り足りないなぁというのが本音です(笑)
コンビニ人間などもそうですが、村田沙耶香さんの小説はどれも、今を生きる現代人の深いところに強く訴えかけるようなものを含んでいると思います。この「殺人出産」にしても、単なるセンセーショナルな設定に止まらず、人間や社会の奥底まで抉ってかき乱されるような物語の作り込み・描写は見事の一言です。今回のコラムではそのうちの一部を切り取って勝手に解釈させてもらったわけですが、この方の小説はこれからも追いかけていきたいと思います。
それでは、また!