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【読書コラム】世界の中心で愛を叫んだけもの - セカイの破壊という愛の形

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は米作家ハーラン・エリスン氏の小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』(ハヤカワSF文庫)。さまざまなメディアで良くオマージュに使われる印象的なタイトルなので、タイトルだけは聞いたことがある方も多いかも知れません。この本自体は、15個の短編を収録した短編集であり、タイトルとなっている作品は実は文庫本にして20ページ程度の非常に短い物語だったりします。

この「世界の中心で愛を叫んだけもの」という短編は、筆者自身も「実験的」と言っているとおり、非常に入り組んでいて分かりにくい作品です。何を隠そう僕自身も、始めて読んだ時には話の筋が全くわからず、「ぽかーん」としてしまいました(笑)

しかし、その示唆するところは広く、筆者が本当に伝えたいことが理解できた時、僕はエリスンの激情とあまりにも不器用な愛の形に強く衝撃を受けました。今回のコラムでは、この作品を読んで、僕が感じたことを書いていきたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説の結末やストーリーに関するネタバレを含みます。ただ、今回のテーマ作品は短編であることと、もともと難解な作品であることから、そこまで気にしなくて良いのかなとも思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムでは、この作品の僕なりの解釈を紹介しつつ、そこから僕の考えるビジョン・思想を描いていきたいと思います。要するに、これから我々がどこに進むべきなのか?という問いに対する思索です。

現時点での僕の考えは「セカイの秩序をゆるやかに破壊しながら、世界を構築していく」方向に進んでいくべきだ、というものです。誤解のないように説明しておくと、ここで言う「セカイ」とは「セカイ系」という言葉に代表されるような、自分にとって身近で閉ざされた範囲を表す言葉であり、「世界」とは文字通りの意味での開かれた全世界を表します。

「セカイのゆるやかな破壊」という言葉がややエキセントリックに響くかも知れません。しかし、それは何もかもがめちゃくちゃになれば良い、という思想ではありません。痛みを伴うのは間違いないですが、決して悲観的な終末論を語るつもりは無いのです。多くの人にとって拒絶したくなるような話かも知れませんが、ここでは敢えて、そのビジョンについて語りたいと思います。

物語の登場人物が、そしておそらくは筆者であるエリスンが、世界の中心で叫んだように…

それでは、詳しく見ていきましょう。

「世界の中心で愛を叫んだけもの」

僕はあまり作品の詳細なあらすじを語ることが好きではありません。そのため、このブログでも作品のあらすじは、大雑把にしか説明しないことが多いです。しかし、今回の作品については、それをしないと物語の構造をお伝えできない、という切実な事情があるため、いつもより細かく物語展開を解説したいと思います。

物語は、ウィリアム・タガログという人物による殺戮によって幕を開けます。配給の飲料に混ぜられた毒物、飛行機の荷物に紛れ込ませた爆弾、そしてスポーツ会場でのマシンガン乱射。開始2ページ足らずで、突如繰り広げられる殺戮の描写が非常に印象的です。

その後、タガログは呆気なく逮捕されるわけですが、ここで突然場面が変わります。次なる舞台は「世界の中心/クロス・ホエン」。「時間と呼ばれる思考感覚の果て」「空間と呼ばれる反射的イメージの果て」。そこを舞台に、世界観や背景についての説明がないままに、「センフ」と「ライナ」という二人の人物によって、けものの形をした「気違い」がこのクロス・ホエンから「排出」される様が描かれます。この「排出」の意味は最後まで明らかにされませんが、「気違い」の内に秘められた「狂気」を、クロス・ホエンの外部に流出させる行為であることが示唆されています。

重要なことは「排出」の最中、二人の人物「センフ」と「ライナ」の言い争いが繰り広げられていたことです。何やら抽象的な話をしており、はっきりとは意味は掴めませんが、センフが「排出」に際してなんらかの謀略をなしたことが明かされます。

その謀略とは、本来「世界の中心」の外に「排出」されるべき狂気を、「世界の中心」内にばら撒いたことです。それが明らかになった結果、他でもない同僚の「ライナ」によって「世界の中心」を汚染したことを糾弾され、「世界の中心」に住まう人たちに断罪されてしまいます。

さらに場面は転換して、次に回想されるのが古代ローマ。ローマが衰退の一途を辿り、フン族によって強襲を受けていた時代。ここでもはっきりしたことは言及されないものの、「センフ」がなした謀略、つまり狂気を「世界の中心」の外ではなく内にばら撒いたことによって、フン族による狂気が一時的に治ったことが仄めかされます。

そこからさら場面は変わって、最後のシーンは年代不明のドイツ。飢えに喘ぐ人物;フリードリヒ・ドルーガーの目の前に置かれた七色をした謎の箱。食料を求めて開封したその人物が見たのは、紫色の煙が立ち上がり、翼を持った、顔のない黒いものの群れが夜の中に飛び去っていく光景。そして、次の文章で物語は幕を閉じます。

「翌日、第四次世界大戦の口火が切られたのだった」

上記を読んで頂ければわかるとおり、時空を縦横無尽に駆け巡る、非常にわかりにくいストーリーです。抽象的で説明不足すぎる世界観と、次々に入れ替わるシーンについていけず、「意味がわからない」という感想を持った方もいるかもしれません。今回はそんな入り組んだこの物語の構造を読み解きつつ、僕なりのビジョンについて語りたいと思います。

物語の解釈

さて、まずはこのわかりにくい物語の構造を考えてみましょう。ポイントはクロス・ホエンで行われていた「排出」という行為。「世界の中心」に発生した「気違い」を「世界の中心」の外部へ放り出すというこの行為の本質は、センフの以下のセリフにまとめられます。

「われわれは自分たちの塒(ねぐら)の汚染をとり除くために、これまでに存在したほかのあらゆる巣に犠牲を強いることになるぞ」

つまり、自分たちのセカイを狂気から守るために、ほかの時空を狂気の犠牲にする。それが「排出」という行為の本質であり、「世界の中心」に住む人たちがしてきたことです。

センフが「待った」をかけたのは、他でもないこの構造です。ここでさらに、彼の言葉を引用しましょう。

「それなら、わたしを許してくれるだろうね、ライナ。なぜなら、わたしも同胞を愛しているからだ。どこの世界、いつの時代に住む人びとをも愛さなくてはいけない。こんな非人間的な分野にたずさわっていればこそ、よけいにそれに執着しなくてはならない。だから、わたしを許してくれるね…」

センフがしたことは、汚れなき存在である「世界の中心」を汚染するという、仲間に対する裏切りのような行為にしかみえないかも知れません。しかし、彼は「世界の中心」に住む人だけでなく、全ての時空の人たちを愛していたからこそ、狂気をクロス・ホエンの中に取り込むことを選んだのです。そしてその結果、フン族によるローマ略奪という狂気が一時的にでも治まった…

このような視点のもと、この物語の構造を簡単にまとめると、以下のようになります。

自分たちの聖域を狂気から守るために世界を破壊していくか、世界全体を守るために自分らの内にも狂気を取り込むか…

そんな残酷で無慈悲な二択。それを読者に突きつけたのが「世界の中心で愛を叫んだけもの」という小説なのではないかと思うのです。

現代の「クロス・ホエン」

既にお気付きの方もいるかもしれませんが、この小説が書かれて約50年経った今、人類(特に先進国の人々)は未だに同じ葛藤に悩んでいると言えます。つまり、自分たちの聖域を守るために世界を破壊するか、世界全体を守るために自分たちの領域を破壊するか、という葛藤です。

今更言うまでもない「グローバル化」という流れはまさに、センフが目指していたことだろうと思います。「フラット化する世界」と言う本のコラムで以前書いた通り、グローバル化の本質は「先進国からの既得権益の剥奪」です。先進諸国がその立場を利用し、自分らがやりたくないことを、一方的に外部に「排出」してきた植民地時代から続く世界秩序。ITや教育格差の是正によってこれを転覆させ、フラットでフェアな競争に持ち込む、という思想がグローバリズムという流れの根底にあります。

今の先進諸国の状況を見ればわかるとおり、グローバル化は往々にして先進国の国力や人々の生活レベルの低下を伴います。世界が平均にならされるほど、途上国の生活レベルは向上し、先進国のそれが低下するのは必然です。途上国から安い労働力がなだれ込めば、もともとそこにいた人たちの給料は目減りしていくでしょうし、そういった国から生み出された安い商品が市場に溢れれば、先進諸国の製品の競争力はガクンと落ちてしまいます。

こういったグローバル化に対抗して、各先進国で巻き起こっているのが自国第一主義・保護主義という流れです。このブログでも良く話題にしているアメリカのトランプ政権や、イギリスのEU離脱などは今更説明するまでもないでしょう。この考え方の根底にあるのは、自分の国が持っていた富や、今までの生活レベルを落としたくないという精神です。途上国の貧困には同情するけど、自分が今持っているものを手放すつもりはないという、非常に人間的なメンタリティ…

自らの既得権を守るために他国から搾取する。自らが格安で手に入れられるファストフードの奥で、先進国が途上国に押し付けているもの。僕の敬愛する伊藤計劃氏の表現を借りるなら「ドミノ・ピザの普遍性」を支えるために、自分たちの周りから「排出」しているもの。こういったことに思いを巡らせると、保護主義というという流れが、この小説で描かれる「世界の中心/クロスホエン」で行われていることと同じ構造を持つことが分かると思います。

そして、ここまで読んでピンと来た方もいるかもしれませんが、冒頭で定義した「セカイ」とは、この小説で言う「世界の中心/クロス・ホエン」に他なりません。ここからの議論は、この「セカイ」という発想を軸に進めていきたいと思います。

残された二つの選択肢

結局、先進国である日本に生きる我々に残されているのは、二つの選択肢しかありません。つまり、自分の身内である「セカイ」を破壊してでも世界の平均化を推し進めるか、それとも世界を犠牲にしながら「セカイ」を守る戦いを続けるか…

ここで、この葛藤をエントロピーの問題として考えてみたいと思います。ご存知ない方のために簡単に説明すると、エントロピーとは「乱雑さ」を表す概念です。かなり大雑把な表現ですが、「きちんと整理され、秩序だった状態」はエントロピーが低い状態、「乱雑で無秩序な状態」がエントロピーが高い状態を表します。

ここで重要になるのは、系全体のエントロピーは増加する方向にしか進まないという熱力学第二法則の存在です。以前、外部に投稿した吉本ばなな氏の小説「キッチン」についてのコラムでも言及した内容ですが、ポイントは、新たな秩序を作る(エントロピーの低い状態を作る)には、それ以上の秩序の破壊(エントロピーの増加)が伴うという逃れようがない真理です。

この観点からジレンマを読み解くと、その構造は非常にシンプルで、要するにエントロピーの押し付け合いであることがわかります。すなわち、「世界全体の秩序を壊しながら、自分の周りのセカイを維持し続ける」か、「自分の周りのセカイの秩序を破壊しながら、世界に秩序を作っていく」か、というトレードオフです。

筆者のエリスンがどこまで想定していたかは定かではありませんが、「世界の中心/クロス・ホエン」で外部に「排出」されていたものは、「無秩序性」つまりエントロピーであると解釈することもできるわけです。だからこそ、我々はジレンマに悩むわけです。世界全体を愛し、そこに秩序を作るには、自らの内側にそれ以上の無秩序を取り込むしかないと…

筆者のエリスンが最終的にどのような立場を持っていたかは定かではありません。しかし、これは僕の解釈でしかありませんが、エリスンはこのジレンマに対し、50年前に結論を出しているのではないか思います。それが他でもない、センフによる愛の叫びであるように思うのです…

セカイの破壊という愛の形

もちろん、このジレンマに直面した時、どちらの道を選ぶかは人それぞれです。それはどちらが良い悪いというより、イデオロギーの問題なので、他人がどうこう言える話ではないのかも知れません。しかし、ここまで読んだ方ならわかるとおり、僕のビジョンは決まっています。

セカイの秩序をゆるやかに破壊しながら、世界を構築していく」、冒頭に書いたこの文章が僕の今の答えです。もちろん、それがどこまで実践できているかは自分でも甚だ疑問ではありますが、目指す方向としては常にそちらを向いていたいと思っています。たとえそれが、自分や周りの人の痛みを伴うものであったとしても、です。

もちろん、「セカイ」の秩序を破壊すると言っても、国家転覆を狙うことや、テロを起こすことを促すつもりは全くありません。そのような形で得られた秩序の崩壊が、世界の秩序を作る助けになるとはとても思えません。ここで言う秩序は、必ずしも国家秩序である必要は無いのです。

どちらかというと、僕が目指したいのは、人々の秩序だった価値観の破壊です。みんなが同じ価値観に寄りかかり、暗黙のルールと共感に結びついた社会を問い直すこと。僕が求めるのは、価値観も、信条も、能力も、乱雑にごった煮になった社会。その乱雑さを許容する社会。そんな乱雑を内包しつつ、ときに誤解や衝突が生じつつも、なんとか致命的な一線を超えずにお互いの価値観を尊重できる社会。

そこは、今ほどは居心地の良い場所ではないかも知れません。周りがあなたの気持ちを察し、先回りして「空気を読んでくれる」こともない。自分の決断の責任は自分で持たねばならず、「常識」が責任を肩代わりしてくれることもない社会の姿です。

でも、僕はそれは必要な犠牲・痛みなのだと思うのです。あなたの気持ちを察してくれる人を求める気持ちは自分とは違う価値観の人を排除し、「常識」に責任を押し付ける思考は「常識」を共有しない・できない人への不寛容に結びつきます。だからこそ、「セカイ」の秩序だった価値観を解体する必要がある、そんな風に思うのです。

念のため補足しておきますが、これは所謂「自己責任論」とは全く別の次元の話です。これはまた別の機会にしっかり考えて書きたいと思いますが、日本の「自己責任論」の根底にあるのは個人主義的思考ではなく、むしろ「常識」という集団的価値観への帰属意識にあると思っています。日本における自己責任論は『自分で「常識」を外れることを選んだのだから、救済する必要はない』と言う思想に根ざしているのではないか、というのが現時点の僕の考えです。個人主義と集団的価値観がちぐはぐに結びついた末の泥沼、それが「自己責任」という言葉の根底ではないのかと…

話を戻しましょう。

何度も主張しているように、僕の目指すのは居心地の良い「セカイ」の秩序を破壊することです。僕は、不合理でどうしようもない人間を、どうしようもなく狂気に満ちた「この世界を全力で愛している」。にも関わらず、いや、愛しているからこそ、社会にはびこる共感に満たされた「セカイ」の秩序を破壊したい。全力の愛を込めて。何の根拠もなく、ただ身勝手な信念のために…

From Nothing, with Love…

まとめ

今回はハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの」を読んで考えたことを書いてみました。書いているうちに筆が乗ってしまい、ちょっといき過ぎた感はありますが、図らずも現時点の自分の思想の集大成的なものと出来たので、これはこれで良いのかなという気もします。

正直言って、著者で有るエリスンがここに書いたような思いを込めてこの小説を書いたかどうかはちょっと自信がありません。もしかしたら、もうちょっと終末論的なビジョンを持っていた方なんじゃ無いかなという気はしています。

とはいえ、重要なのは「読者」が何を考えたかだと思うので、そこはあまり気にするつもりはありません。これからも、僕が思ったことや感じたことを書いていこうと思うので、興味のある方はお付き合い頂けると嬉しいです。

それでは、また!