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【読書コラム】言ってはいけない残酷すぎる真実 - 幻想なき世界のドライバー

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は作家の橘玲さんの新書『言ってはいけない残酷すぎる真実』(新潮新書)。数年前にベストセラーになった書籍らしいので、読んだことがある方も多いかも知れません。

この新書は、IQの遺伝や人間の美貌による格差、子育ての現実など、一般的にはタブーと言われる領域について書かれた本です。日常生活の中で薄々は感じていた世の中の矛盾を、エビデンスベースの研究をもとに暴露していく内容となっており、なかなか刺激的な新書であると言えます。

僕はあまり人間に理想を抱いていないのでそこまでではないものの、それでも読んでいて少しの不快感を抱いてしまいました。おそらく、人間に強い理想を抱いている人にとっては全く受け入れられない本なのだと思います。今回のコラムでは、我々がこの本を読んで覚える不快感や不愉快な感情について深掘りしていきたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの論点は、「この本に書かれている内容が、なぜこんなにも我々を不快にさせるのか?」という問いです。つまり、「犯罪は遺伝する」「人のIQは遺伝でほとんどが決まってしまう」「親が子育てを通して子どもに与える影響は非常に限定的である」と言ったような事実に対する人間の拒否反応の源泉はなんなのだろうか、ということを考えたいと思います。

今回のコラムで僕が言いたいことは「「自分の人生を切り開くことができる」という意識に変わる、新たなモチベーションの駆動源を探す必要がある」ということです。それが何なのかを現時点で結論を出すことは出来ません。しかし、それを探すことが現代人に求められている、それが今回の思索によって得られた結論です。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「言ってはいけない残酷すぎる真実」

冒頭にも書いたとおり、この本に書かれている内容は多くの人々にとって受け入れがたい事実です。人のIQは遺伝でそのほとんどが決まってしまうこと、人種によって知能が異なること、顔の美醜と収入・犯罪との関係、などといったSNSで語ろうものなら炎上必至のことについて解説しています。

それが単なる個人の思想や信念であれば単なるヘイトと受け取ればいいわけですが(もちろん、ヘイトは良いことではないですが)、そうは問屋が下さないのがこの本の厄介なところです。この本が物議を醸している理由は、それがエビデンスベースの研究結果をもとにしているからです。実際に、この本の巻末には膨大な量の参考文献が記載されています。言い換えれば、科学的に認められた手続きに基づく統計的事実であるということであり、素人がそれに反論するのは困難を極めます。

そういった非常に受け入れがたい実験結果をもとに、ダーウィンの進化論をベースに(進化心理学・進化生物学的に)解釈しているのがこの本だというわけです。それは、本書の冒頭に書かれた「身体だけでなく、ひとのこころも進化によってデザインされた。」という主張からも見て取れます。

内容については一部、解釈と事実の錯誤があるのは確かだと思います。表現の問題もありますが、引用されている文献に記載されている「統計的事実(実験結果)」と解釈を一緒くたにしている記載も目立ちます。しかし、それを示唆する統計的事実があることは間違いないですし、その解釈論も理にかなっているのは確かです(それが本当に事実かどうかはまた別問題ですが)。

この本に書いてあることを鵜呑みにするのは危険だと思いますが、それでも事実と解釈をしっかり自身で判断できるのであれば、読む価値は十分ある本だと思います。今でこそ進化論をベースにしたこういった考え方を大っぴらに語る人も出てきていますが、それでも、道徳や人間の愛の美しさを信じる人にとっては不愉快ながらも、得られるものが多い本だといえるでしょう。

拒否反応の源泉

僕が今回のコラムで注目したいのは、この本を読んだ時に感じた不快感についてです。この本の第一文に「最初に断っておくが、これは不愉快な本だ。」と書かれているとおり、多くの読者にとってあまり気分が良くなる内容ではありません。問題は、なぜ我々はこれらに事実に対して不快感を覚えるのか?ということです。

冒頭にも述べた通り、この本に書かれているのは、人が自身の努力で変えられることは限られていること、人の人生の成功は外見によってかなりの部分が決まってしまうこと、犯罪は親の性格の要素が非常に大きいこと、などの事実です。繰り返しますが、これは単なる経験則を超えたものであり、科学的な手続きを踏んで明らかにされたものです。

こういった統計的事実の何が問題かというと、それが我々個人の尊厳を奪ってしまうからではないか、と考えます。我々が持っている信念は「人は努力すれば報われる」「人の内面は外見とは関係がない」「人は出自とは無関係に、かつ責任を持って行動でき、犯罪は個人の問題である」といったものであり、上記の統計データはこれらの価値観と根本的に相容れないものです。

だからこそ、我々はこう言った事実を直感的に否定してしまうのでしょう。これらの統計データを受け入れてしまうと、自分のこれまでの努力を否定されてしまいますし、自分の人生は自分に力で切り開けるはずだ、と言う信念は打ち砕かれてしまいます。

当たり前のことですが、人は往々にして自分が不快なものから目を背けてしまいます。筆者はこの不都合な真実に目を向けよと主張しており、僕自身もその意見には同意しますが、全ての人にそれを求めるのも難しいと思えてしまいます。

社会・人間というシステムの前提

さて、「この事実を直視すべき」と主張して終わっても良いのですが、それでは単に本の内容を話すだけになってしまうので、もう少し思索を進めていきましょう。具体的には、なぜ人はこれらの事実に対して拒否反応を示し、社会的なタブーとまでされているのかについての、もう少し突っ込んだ議論です。

もちろん、先に書いた通り個人の尊厳が損なわれるから、というのは一つの回答にはなると思います。人類ははるか昔から、自分の価値観を転覆させるような事実を受け容れない、という反応を繰り返してきました。有名な例としては、地動説を主張して処刑されたコペルニクスが挙げられますね。

ここで、もう少しスケールを広げてみましょう。つまり、そもそもなぜ我々はそのような価値観(人の努力は報われる等)を持っているのか?という問いです。この問いについて思索を進めていくと、「言ってはいけない」真実というものが、どういう意味を持ってくるのかが見えてきます。つまり…

この不愉快な事実が意味するものは、人間という存在や社会というシステムの前提の破壊です。

なぜ我々が「自分の努力で状況を変えられる」という価値観を持っているのか?

それは、人が「自分の力で物事を変えられる」という意識を行動のモチベーションに変えるように設計されているから、であると考えています。もしかしたら、これは同語反復だと思われる方がいるかもしれませんが、言いたいことはそういうことではありません。

ここで使われる「設計されている」という言葉は、進化という自然淘汰のプロセスでそのような個体が生き残ってきたがゆえに同じ特性が我々に備わっている、という意味で使っています。つまり、言いたいことはこういうことです。自分の状況を努力で変えられると信じ、それを行動の原動力に出来る人たちが我々の祖先である。だから現代人も同じ特性を持っており、その特性に整合するような価値観を求めるのではないか。

実際問題として、人間にとって「自分が状況をコントロール出来る感」が大きな生のモチベーションになっていると言う事実は心理学の世界でも確かめられています。ここで重要なのは、実際に状況をコントロール出来ているかどうかと、「コントロール出来ている感」を持っているかどうかは別問題だということです。

たとえ、自分の行動が何一つ状況に影響を与えていなくても「コントロール出来ている感」を持っていれば行動の大きなモチベーションになります。逆もまた然りです。この食い違いは人間の面白さであると言えますが、それと同時に、今回の問題の本質に迫る部分でもあります。

ここまでの話で僕が言いたいことは、人が主体的に行動できるのは「自分の努力によって人生を変えられる」という意識があるためである、ということです。それを原動力としてあらたな創造性が生まれ、人類はここまで発展してきたと考えられます。子育てに関しても、自分が子どもに与える影響が強いと思うからこそ、子育てに全力を注ぐのです。人間の心理は「自分の行動で状況を変えられる」ことを前提として設計されてきた、それがここまでの議論の要点です。

また、社会システムも同様に考えることができます。「裁判」という制度が成立するのは、個人それぞれが責任を持って、出自とは無関係に、自由意志のもとで行動ができるという前提に立っています。もし仮に、自身の行動が遺伝子と環境の悪戯によって決まり、個人の選択の余地なく犯罪の有無が決まってしまうならば、その個人に犯罪行為の責任を問うことは難しくなります。

精神的・知的な障害を抱える方に関する裁判では、責任能力が犯罪行為の論点になることは知っての通りです。ここからわかることは、そもそも裁判とは「個人の選択で行動を自由に決められる」ということが前提にあるということです。もし仮に自分の行動の全責任が個人にあるわけでなく、自分では選べない出自や環境によって決まってしまうのならば、その人を裁く行為の正当性は揺らがざるを得ません。

さて、ここまで見てきたことから、次のことが言えると思います。「人間は自分の力で人生を変えられる」「人間は自分の力で考えて行動でき、それが出自とは関係ない」こういった信念は、もはや単なる個人の好みの問題ではありません。それは、人間を生に向かわせ、秩序ある世界を成立させるための前提条件だと考えられるのです。

幻想なき世界のドライバー

だからこそ、この本に書かれている事実は過小評価されるべきでないと思うのです。「努力によって状況を変えることが出来る」という我々の信念が『幻想』かもしれない、それは人間の生へのモチベーションや社会の根本を揺るがすものになり得ます。

人間の努力の価値や自由意志の存在がどこまで『幻想』なのか、現時点でそれに明確な回答を与えることはできません。しかし明らかなのは、科学が発展する以前の人類が信じていたほど自明な真実ではない、ということです。

人類はその『幻想』を頼りにここまで発展し、豊かさを享受してきました。あまりにも長いことそれを信じてきたが故に、人間の心理システムも、社会の仕組みも、その『幻想』を前提条件として組み込んでしまいました。

『幻想』に駆動された人間・社会が科学を発展させ、その科学が人類の駆動源となる前提条件の脆弱さを解き明かしつつあります。言い換えれば、空虚によって駆動された人間が、自身を突き動かす力の空虚さに気づいてしまった。これが現代人が直面している問題です。

我々が拠り所にしていた「状況をコントロール出来ている感」とは、あくまでも出来ている「感」でしかなく、実は何一つコントロールなど出来ていなかった。その気づきから得られる帰結は明らかで、自分では状況をコントロール出来ないという無力感であり、生を突き動かすモチベーションの消失です。

もちろん、この本に書かれていること全てが絶対に正しいというつもりはありません。しかし、かなり確からしいことは事実であり、我々人間の、社会のシステムの前提が大きく揺らいでいるのは疑いようもありません。我々が信じてきた『幻想』の中に、一握りの実態があるのかどうか、それはこれから少しづつわかっていくことでしょう。ただ、知っての通り、科学が物理現象の多くを説明してしまっている現代において、『幻想』がつけいる隙はもうほとんど残されていません。

さて、ここで一度問題に戻りましょう。これらの事実を直視することは重要だと思いますし、そこに文句をいうつもりは全くありません。しかし、同時にしなくてはならないのは、その上で人間や社会を動かす新たなドライバーを見つけ出すことです。『幻想』が力を失いつつある現代において、その『幻想』の代替物を出来るだけ速く見つけなければなりません。

これが冒頭に書いた「「自分の人生を切り開くことができる」という意識に変わる、新たなモチベーションの駆動源を探す必要がある」という言葉の意味です。おそらく科学が見つけ出す『事実』の勢力に押さえつけられ、『幻想』の持つ意味はこれからもどんどん減っていくんじゃないかと思います。だからこそ、その『事実』の力を借りながら、人類の新たな駆動源を見つけ出すこと、それが現代人が解くべき問いなのではないでしょうか。

もし、その問いに対する満足な回答が見出せなければ、悲劇がおこることは火を見るより明らかです。努力の無意味さを知った人々は、生へのモチベーションを失い、破滅に向かって突き進むことになるでしょう。裏付けをなくした裁判というシステムは人々の支持を得ることができず、社会秩序は崩壊する(又は力による圧政に逆戻りする)でしょう。また、価値を生み出すことを辞めた社会は、有限のリソースを食いつぶし続け、その主権をめぐり戦いを続けることになるでしょう。

もしかしたら、それはそれで仕方のないことなのかもしれません。それこそ、人類に定められた不可避の帰結であり、努力したところで変えられるものではないのかもしれません。

しかし、僕はそこに抵抗したい。なんの意味も価値もないかもしれないし、この感情は遺伝と環境で100%形成されたものでしかないかもしれないとしても。その未来に抗うこと自体を目的として…

まとめ

今回は『言ってはいけない残酷すぎる真実』を読んで考えたことを書いてみました。僕自身も、こういうことはしっかり向き合わなけれないけないなーとは思いつつ、そこで思考が止まっていたので、今回のコラムを書くことでもう少しじっくり考えることができました。

大げさに捉えすぎなところもあるかもしれませんが、よく考えてみると、単に嫌な気持ちになるという以上に大きな意味を持つ問題なのかもしれません。この切り口については今後も考えていきたいと思います。

それでは、また!