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【読書コラム】パリピ経済 - マスコミ的ヒエラルキー

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は博報堂ブランドデザイン若者研究所の原田曜平さんという方の新書『パリピ経済』(新潮新書)。この本は、ここのところ良く耳にする「パリピ」の生態に迫りつつ、その特性と市場経済についての考察をしている新書です。納得できるところも多い反面、読んでいて「もやっと」する感情が浮かび上がってきたのが印象的でした。今回は、その「もやっと」感の言語化と、そこから考えたことについてコラムを書いていきたいと思います。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。
本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

冒頭に書いた通り、僕はこの本を読んでいて、なんとなく「もやっと」した印象を抱きました。何が良い/悪いという議論をするつもりが無いのはいつものことですが、どうしても広告代理店がものを言わせる「パリピ」経済に対して、なんとなく嫌な感じがしてしまったのです。

 

今回の記事で僕が強く主張したいのが「マスコミ的価値観を『利用する』という視点の重要性」です。こういうことを言うと勘違いされるかもしれないので明確にしておきますが、マスコミという存在自体を否定するつもりはありません。今回の記事では、あくまでも無条件にそこに参加することへの危険性について考えたいと思います。

 

それでは、詳しく見ていきましょう。

 

「パリピ経済」

この本の内容は、昨今良く耳にする「パリピ」の生態を解説するものです。1960年代から現代に至る日本のトレンドとその担い手を振り返りつつ、現代の消費経済の構造と、その中での「パリピ」の役割を考察しています。このような考察のベースに、慶應義塾→博報堂という著者のキャリアが色濃くでているなぁという印象を受けました。

 

この本によると、現在の消費経済のヒエラルキーの頂点にいるのが「フィクサー」と呼ばれる人たちで、いわゆる特権階級と言われる存在です。あまり積極的な情報発信を行わず、 限られた交友関係の中で楽しむというのがこの人たちの特徴で、お金持ちの子どもや帰国子女、有名大学の内部進学生に加え、クリエイター・アーティストの人たちなどがここに分類されるようです。一つの価値観を「創り出す」側の人間たちと言ってもいいのかも知れません。

 

この特権階級たる「フィクサー」の下位に位置するのが、この本のメインテーマである「パリピ(パーティーピープル)」です。深く狭い交友関係を楽しむ「フィクサー」とは対照的に、浅く広く繋がりを求めるのがこの「パリピ」の特徴です。面白いそうなものに飛びつき、ポジティブに人生を謳歌する「パリピ」と呼ばれる人たちが、「フィクサー」の生み出した価値を世の中に広める役割を担っていると指摘しています。読者モデルやDJ、ダンサーなどが「パリピ」の上位層であり、この辺りもやはり裕福な家庭に育っていることが共通点としてあげられるようです。

 

そして、この「パリピ」の下に位置するのがサーピー(サークルピープル)で、さらにその追随者としてパンピー(一般ピープル)がいるという構造です。いわゆるマイルドヤンキーもまたこの階層であるとのことです。ここに分類される人たちは「パリピ」の中で流行ったトレンドを一周遅れで追随する「大衆」であり、この本の中にある「ザ・量産型」という言葉が印象的です。広告代理店で勤務する氏が消費者たる大衆を「量産型」と呼んでいることにはかなりの嫌悪感を覚えますが、今回はとりあえずそれは置いておきます。

 

まあ、いずれにしても現代の消費経済がこのような構造になっている、というのを解説しているのがこの本だというわけです。

 

マスコミ的ヒエラルキー

本論に入る前に、まずはマスコミとは何か?という点についてはっきりさせておこうと思います。明確な定義がある言葉ではないと思いますが、ここでは「マスコミ」とは大手広告代理店や大手テレビ局をさす言葉として使いたいと思います。

 

「マスコミ」的な価値観とは、一言で言うと「トレンディ」と言う言葉がしっくりくると思います。多くの人たちに流行っているものが「良い」ものであるという価値観であり、流行を生み出し、それを広く拡散するのが「マスコミ」の役割です。流行でないものを「ダサい」とする価値観もまた、この延長線上にあるのでしょう。

 

ここからは、この前提のもとに考察していきたいと思います。

 

前章で紹介した、消費経済におけるヒエラルキーの序列を見ると、パリピ以下の階層がそのままマスコミと消費者の構造であることに気がつきます。「フィクサー」は必ずしもマスコミ側の人間であるとは限りませんが、「フィクサー」の価値観を広く拡散するのがマスコミで、それを追随するのが一般人です。

 

このように考えると、パリピとマスコミの類似性が見えてきます。情報発信の手段が限られたいた時代にマスコミが一手に握っていた役割を、SNSの広がりに伴い、「パリピ」と呼ばれる個人がその一部を担うようになった、と言えるのかも知れません。「パリピ」の間で流行ってものをマスコミが取り上げる、逆に「マスコミ」が取り上げたものに「パリピ」がこぞって殺到する、という共生関係があるのだと思います。どことは言いませんが、マスコミとパリピの出身大学や学歴に多くの共通点があることも偶然ではないでしょう(この本に関して言えば、筆者の経歴によるバイアス・交友関係も影響しているのかもしれませんが)

 

ポイントは、このヒエラルキーはマスコミ・パリピが得をするようにできているということです。ある意味で、情報を伝達すると言う行為を通じて価値を生み出しているのは確かなので、それが不当であると言うつもりは毛頭ありません。しかし、大事なことは、その仕組みのルールを握っているのは誰かを理解することです。

 

これまで見てきたように、基本的にはマスコミ的消費経済という価値観は、有名私学の内部進学生のような富裕層によって作られた価値観です。彼ら・彼女らがトレンドを生み出し、大衆に消費を煽り、それによって利益を享受するのが消費経済の構造です。

 

もちろん、その背後には良いものを皆んなと共有したいという思いや、消費させることにより、日本経済を活性化させたいと言う思いがあるのはまぎれもない事実でしょう。それでも、マスコミやパリピの生み出す流行に、何も考えずに追随(フォロー)することには大きなリスクが伴います。

 

フォロワーでいることのリスク

先ほども紹介した「量産型」という言葉が非常に象徴的だといえるでしょう。何も考えず、トレンドを追従した先に待ち受けているのは、自己の消失と大衆の画一化です。マスコミに煽られて消費だけさせられた挙句、手元には何も残らない。あるいはコモディティ化(大衆化)した知識・経験ばかりが残り、自分の社会的な価値が高まらないまま時間だけが過ぎて行く、これは追随者(フォロワー)である事の大きなリスクです。ひたすら流行を追いかけた結果、自分は何が好きなのかわからない、という経験に心当たりがある人も多いでしょう。

 

また、到達し得ない憧れと精神的・経済的疲弊もまた一つのリスクだといえます。先に紹介した通り、マスコミ的な価値観は、裕福層やその関係者が有利なように動いています。もちろん、何も持っていない人が努力の末にヒエラルキー上位に行き着く可能性はゼロではないですが、裕福でない層から這い上がることは経済的・人脈的な困難を伴います。

 

つまり、憧れのモデルやDJの追いかけをしたところで、そこに近づくことは非常に難しいのです。フォロワーでいる限り、到達し得ないゴールに向かって突き進むことになり、精神的にも経済的にも苦しいレースを強いられることになるでしょう(逆に、自分が裕福層であるならば、その立場を最大限利用してこの価値観に乗っかるのも一つの戦略だといえるのかも知れません)。

 

そして、僕が特に大きな問題だと思っているのは、消費を煽るため、マスコミによる情報は往々にして、直感や短期的利益に訴えるものであるということです。行動経済学や心理学に興味のある方ならご存知の通り、人間の直感は非常にエラーに起こしやすく、目先の利益は人の正常な判断を歪めます。パリピの方々がそこまで考えているかどうかはわかりませんが、少なくとも「マスコミ」は、明らかにその人間な認知的な不合理性を利用して、人を煽ろうとしていると感じます。

 

目の前の食べ物の誘惑に抗えなかったことに自己嫌悪してしまったり、直感の赴くまま行動した結果、金銭的に困窮したり、本当に大切な人との時間を過ごせなかったり、と言う経験は誰にでもあるのではないかと思います。目の前に提示されたものに直感的に飛びつくことは、長期的な幸せにつながるとは限らないというわけです。

 

もちろん、経済的な余裕や強力な後ろ盾がある人ならそれはあまり気にする必要はないでしょう。しかし、そういう立場に立っていないなら、自分がどういうリスクを背負っているのかは常に意識するべきでしょう。

 

マスコミを利用するという視点

このようなことから分かるように、消費を煽って「トレンド」を作る人たちは、それをあなたが本当に必要としているかどうかや、あなたの将来の幸せなど考えてはくれません。繰り返しになりますが、僕自身はその全てを否定するつもりはありません。ただ、生み出される「トレンド」に乗っかることは、必ずしも消費者にとっての幸せにつながるわけではなく、自分が欲しいものや自分の将来は自分で考えなければいけないと思うのです。マスコミに踊らされるのではなく、マスコミをうまく利用し、主体的に行動することが消費者には求められます。

 

個人的に、特に注意する必要があると思っているのが「将来への不安」と「絆」です。我々人間は、将来への漫然とした不安や、自分の周りの人々(子どもや家族、恋人など)のため、という言葉に非常に弱く、これらの文脈で語られると、いとも簡単に非合理な選択をしてしまいます。マスコミがこの二つを常套手段として利用しているのは、そういう理由が背後にあるためなのは間違いないと思っています。

 

「人生100年時代」「年金2000万円問題」を使って将来への不安を煽り、ネットワークビジネスをはじめとする副業へ誘導したり、「親の将来のため」に明らかに不当な保険や、よくわからない健康商材の消費を煽ったり、という動きはこれからも活発に行われるでしょう。当たり前ですが、そこに引き込んだ人たちは、その結果に責任をとってはくれません。だからこそ、常に自分の頭で考え、流行に流されないということは肝に銘じる必要があるのです。

 

ここまで負の側面ばかり書きましたが、何度も書いてきた通り、マスコミの全てを否定するつもりはありません。これは僕自身の考えですが、主体的に使うのであればマスコミは非常に有用なツールになり得ると思っています。自分の知らない世界を知る最も手軽な手段であることには間違いありませんし、手軽でリスクの小さい範囲で色々試してみることで、新たな創造が生まれることも多いでしょう。自分にとって大切なことをして、残った時間・お金で新たな世界に飛び込むことは自分の価値観を広げる良い機会になると思います。

 

一言で言うと、これはマスコミ的な価値観のメタ化です。そのヒエラルキーの中で昇りつめようともがくのではなく、その価値観を少し離れた目線で冷静に見つめ、自分がどうしたいかを考えながら、うまく付き合っていく。これが消費者にとって必要な態度ではないでしょうか。その価値観に囚われている限り、裕福層でない育ちから上り詰めるのは非常に大変ですし、それに見合うだけの価値があるのかは疑問です。

 

世の中を見ていて、その価値観に囚われたまま、精神的・経済的に苦しい思いをしている人があまりにも大様に追います。もしその価値観の中で勝てないのだったら、さっさとその勝負から降りて、自分の勝負できる領域で幸せに生きられる道を模索した方がいいでしょう。これは前回の記事で、スクールカーストに対して言ったことと全く同じ構造です。

 

だからこそ僕は、トレンドに踊らされるのではなく、利用するべきだと主張したいのです。マスコミやSNSに流れる情報が自分にとって本当に必要であるかを考え、そのメリットとデメリットを冷静に判断した上で決断する。無条件にマスコミ的な価値観にのっかるのではなく、自分にとって必要な部分を拝借する。それがマスコミとの上手な付き合い方ではないでしょうか。これが、今回僕が主張したかった「マスコミ的価値観を『利用する』という視点の重要性」です。

 

まとめ

今回はマスコミについて考えたことを書いてみました。この記事の最後の方に出てきた通り、はっきり言ってしまうと、今回議論した内容は前回のスクールカーストの議論と全く一緒です。一つの価値観に縛られていると、どうしても視野が狭くなりがちですが、自分の見えている世界が全てではないという視点は大事だと思います。

 

なによりも、そこで苦しむ人たちが少しでも前向きになれたならばこの記事を書いた甲斐があると思います。振り回される人生は辛いので、楽しく生きられる方法を広い視野を持って模索できるようになるといいのではないかと思います。

 

それでは、また!