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【読書コラム】科学的とはどういう意味か -フェアだからこその非科学思考

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は作家・森博嗣さんのエッセイ『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎新書)。SFをはじめとして「科学」を題材とした小説作品で有名な森さんのエッセイということで、「科学的であること」についての熱い思いが書かれた本です。

普段あまり深く考えられていない「そもそも科学的であるとはどういう意味か?」という問いから始まり、現代に蔓延る似非科学や非科学的な神秘主義に対する氏の苦言、そして科学的思考力を持たないことの危うさを主張します。僕自身の考え方と近いこともあり、この本の内容自体に対して語ることは多くないのですが、科学の「公平性」という視点に対して思うところがあったので、今回はそのあたりについて考えてみたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの論点は、冒頭に書いた通り科学的思考の「公平性」についてです。科学とは何か?という問いは非常に奥が深く、「科学」の本質を考える「科学哲学」なんていう学問分野もあるくらいですが、この本ではそこまで混み入った話はしていません。この本の中では、単純に他者によって再現できるということが「科学」であると主張しています。

それを踏まえた上で、科学は他者によって再現可能であるがゆえに「公平」で「民主的な」営みだというわけです。それにも関わらず、科学的な言説を拒否する一定数の人たちに苦言を呈しているのがこの本です。

僕はこの主張に対しては全面的に賛成の立場です。科学というと冷たいイメージがありますが、他者は自分と同じ人間であるという尊重があるからこそ、「公平」で「民主的」な科学的手続きが重要であると思っています。

一方で、この本を読んだ時に、ある一つの仮説が思い浮かんだのも事実です。それは「科学は公平だからこそ一定数の人に受け入れられないのではないか?」という考えです。

そこから思考を巡らした末の、僕なりの提言は「科学的思考力の不公平さを念頭に置いた社会設計が必要なのではないか?」ということです。このようなことを書くと、森さんの主張する科学の「公平さ」に賛成しながら、「不公平さ」を説くのは矛盾しているのではないかと思うかもしれません。しかし、これは決して相矛盾した考えではありません。その辺りも含め、今回のコラムで論じていきたいと思います。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「科学的とはどういう意味か」

冒頭に書いた通り、この本は森博嗣さんの科学観が述べられた新書です。そもそも「科学的とはどういうことか」を述べた上で、似非科学をはじめとして非科学的なものを持て囃すに社会に対して警鐘をならしている本です。2011年の本ということもあり、福島の原子力発電所の事故のことも話題にしているのも特徴です。

森さんがこの本の中で言っているのは、『「科学的である」とは他人によって再現可能であることだ』ということです。単純に実験で確かめられたことが「科学」であると考えがちですが、その考えは正しくなく、誰でも再現できるプロセスこそが科学的であると主張します。

つまり、実験で確かめられたからと言ってすぐに「科学的である」と言える訳ではなく、その実験の結果について再現性があることが重要であるということです。そのため、誰か1人が実験で成功したものであっても、それが他の人によって再現できるものでなければ科学的であるとは言えないのです(この辺りは深入りするととても奥が深いので、ここではあまり深くは立ち入りません)。

この話をきいて、一時期話題になった日本のSTAP細胞の実験を思い出した方もいるかも知れません。あの研究は、基となった実験が特定の研究者にしか再現できなかったために疑いの目を向けられたのが発端となりました。このような事例からも、科学において「再現性」というのが重要視されていることが分かると思います。

そして、他者による再現可能性を根底とする「科学」というプロセスが極めて公平で民主的なステップであると主張します。特定の人物にしか再現できない超常現象などと比較すると、誰にでも参加できて、誰にでも理解できる「科学」というプロセスは、世の中の全員に開かれたフェアな行為であるというわけです。

このように、公平で民主的な「科学」に対して背を向けてしまったり、それを理解しようともしない社会に対する危惧がこの本の核心です。もちろん、血液型占いのように、ただ楽しむレベルのものまでを否定しているわけではありません。しかし、健康に関わることや緊急時の対応など(原発事故など)、どうしても科学的思考が必要になる場面も少なくありません、それにも関わらず、科学的な分析や考察に目を向けないことは非常に危険である、というのが森さんの言いたいことです。つまり、もはや科学的思考力は誰にとっても必要なので、科学を楽しむというレベルではなく、生き抜くためのスキルとして身につける必要がある、というのがこの本の主な論点だと言えるでしょう。

僕自身の話となると、森さんのこの主張内容については全面的に賛成です。そういうこともあって、この本の内容自体に対して僕が付け加えることはあまりありません(笑)。僕自身も科学は公平で民主的な場であるという認識を持っていますし、それを蔑ろにしたり、貶めたりする人達に対して思うところはあるのは事実です。

しかし、この本を読んだ時、その内容に対して納得できる反面、別の切り口からある一つの考えが頭に浮かびました。それは、科学が「公平だからこそ」そこから目を背ける人達が出てくるのではないか、というものです。今回はこの考えを思考のスタート地点に置いて、議論を展開したいと思います。

フェアだからこその、非科学思考

森さんも指摘しているように、科学を受け入れようとしない人が一定数いることはあまり疑う余地はないでしょう。「自分は数字が苦手だからよくわからない」という一言を使って、物事に対する理解を諦める一部の「文系」の人々や(文系も理論という意味では極めて科学的な手続きにも関わらず)、何らかの意思決定の際、数値データ等の現実から目を背け、合理的判断よりも不合理な感情を優先する人たち(もちろん合理的データを踏まえた上でも感情を優先するのがただしいケースもありますが)。精神論を振りかざして、数字という現実を受け入れようともしない人などは身近なところにも多いのではないかと思います。科学者のいう曖昧な説明よりも、政治家や芸能人が話す事実ではないけどわかりやすくてはっきりした主張を求める人たちは少なくないでしょう。

もちろん、森さんも指摘しているように決して科学が万能であるというわけではありません。科学者は一般に、科学がどこまで通用するかは非常に神経質だと言えますし、科学とは本来複雑ではっきりさせることができない現実を、出来るだけ正確に理解しようとする営みだと言えます。科学者の言うことが往々にして曖昧だったり、前提条件つきのものであったりするのはそういう背景があるのです。ただ、ここで言いたいのは科学的思考について理解を示そうとしない人々が一定数いると言うことです。

問題は、なぜ科学に対して背を向けるような態度をする人たちが出てくるか?という問いです。科学は基本的に公平なものであるにも関わらず、そこから逃避してしまう感情の源泉は何なのでしょうか?

冒頭に書いた通り、それに対する僕なりの回答は、公平「だからこそ」それに背を向けたくなる、と言うものです。露骨な表現をすると、要するに人々は公平さなど求めていないというわけです。人々が求めているのは、「自分」に向けられた言葉であり、世の中全員に公平に理解できる言葉は求めていないのではないか?それが今回の核心となる仮説です。

ここで対比として見てみたいのが反知性主義的なカルト組織です。これらの団体が、人を惹きつけるために情緒的、神秘的な言葉を使うのもそこに理由があるように思います。「あなたは特別な人である」、「あなたが社会で生きづらいのはあなたが選ばれた人間だからである」、そういった言葉は、誰かに承認されたいと願う多くの人を惹きつけます。それは人の根源的な欲求に作用するからだと思いますが、いずれにしてもその内容が正しいかどうかはあまり関係がなく、自分を特別視してくれる言葉を人が求めるという傾向があるのは明らかだと思います。

この辺りは、近年の極端なナショナリズムや保護主義的な思想と通じるものがあります。これは日本に限った話ではなく、「○○人は素晴らしい」という言説は、特別になりたいけど特別になるための何かを持たない人にとって、非常に魅力的に写るのは想像に難くありません。ここでこの問題について深入りするのは避けますが、その危うさは、それがそのまま強い排他性に繋がりかねないということです。

話をもとに戻しましょう。神秘主義的カルトやナショナリズムと対比してみるとわかりやすいように、誰にでも平等に届く科学的な言葉は「あなた」を大切にしてくれないことは明らかです。科学は誰にでも再現可能であることが肝なので、誰かを特別視することは認められないのです。

さらに言ってしまえば、誰にでもわかる公平な言葉にも関わらず、自身の知識不足や思考力不足で理解できない言葉というのは、その人の尊厳を著しく毀損しかねません。「誰にでもわかる客観的な事実」なのに自分にはわからない、この状況は、自己否定感を生み出すには十分な力があるように思います。

こうしてみると、カルトの言葉は科学的な言葉と真逆の関係にあることに気づきます。「他者にはわからないけど自分には届く」。自分の存在を否定しかねない科学的な言葉とは対照的に、このような神秘主義的な言葉は自己肯定感をもたらしてくれます。それが良いことなのか悪いことなのかをはっきり判断できることではありませんが、そういう構造があるという事実にはしっかり目を向けるべきでしょう。

科学的思考力のアンフェアネス

一方で、ここでさらに考えていきたいのは、本当に「科学的である」とはフェアだと言えるのだろうか?ということです。

再三繰り返している通り、科学という手続き自体がフェアなのは間違いないと思います。現代科学があまりに専門的になってしまって、もはや一般人は理解できない領域になってしまっているという問題はありますし、論文の査定にしてもかなりの困難を伴うようになっているのは事実です。実験ひとつとっても、同じ実験を再現するのに必要なコストがあまりに大きくなりすぎて反証が実質的に不可能となっているのは現代科学の抱える問題の一つであると言えるでしょう。

しかし、科学の基本は再現性とするのであれば、それがフェアで公平な手続きであると言えると思います。不正や分析上の誤りはまた別の問題です(とはいえ、繰り返しになりますが、実際問題としてはここはそんなに単純な問題ではありません。本当の意味での「再現」は不可能なので、「再現」とはなんなのかという根本的な問題はあります。ただ、ここではそれが論点ではないので深入りは避けます)。

ではなぜ、科学に背を向ける人が出てきてしまうのでしょうか。言い換えれば、「なぜ自分にはわからない」という状況が生じてしまうのでしょうか。それは、言ってしまえば当たり前のことではありますが、科学的思考力の不公平さによるものと考えられます。

「誰でも訓練すれば思考力を鍛えることはできる」「思考力がないのは、自分の努力や親の教育のせいだ」そういう考え方を持つ方もいるかも知れませんが、僕自身はそれに全面的に賛成することはできません。もちろん、時間をかける事で先天性の差は埋められることができるという事実は全く否定しませんが、その習熟速度はおそらく平等ではないでしょう(先天性とはなんなのかという問いもありますが、これもここでは無視します)。

そしてそれを科学的に立証してしまったのが、IQの遺伝性についての研究です。パターン認識能力や科学的思考力はIQの主要要素の一つであるわけですが、そのIQは遺伝によってかなりの部分が決まってしまうことがわかっています。一応補足しておきますが、僕はIQが人生の全てだとは思っていませんし、それで人生がきまるというつもりもありません。ここで言っているのは、あくまでもそういう研究結果が出ているということを言っているに過ぎません。

いずれにしても、ここまでの議論を踏まえて考えてみると、科学的思考力というのは必ずしもフェアではないことは明らかでしょう。もしかしたら、これは改めて高らかに言うことではないのかも知れません。プログラミングや数学オリンピックなどの分野で、早熟な子どもを天才としてまつり上げるニュースが定期的に見られることからもわかるとおり、思考力の個人差についてはおそらく多くの人が認識していることなのだと思います。

ここまでの議論をまとめてみましょう。要するに、科学という場自体はフェアなフィールドだけれど、「そこに立てるかどうか」や、「そこで活躍できるかどうか」はフェアではないということです。

むしろ、「フェアであるからこそ」その実力の違いがより際立ってしまうのが問題だと言えるのかも知れません。科学に背を向けてしまうのは、フェアであるがゆえに自分が科学的思考力が劣っているということがあまりにも露骨に見えてしまうからである、そう言えるのではないでしょうか。科学という場では自分の存在を肯定することができないが故に、その場を否定した上で別の方法(つまり反知性主義)にそれを求める、という構造です。

このことは、特に思考力に秀でている人こそ注意すべきことだと思います。公平であるという言葉を盾に、先天的な違いを無視してマウントを取ってしまいがちになってしまうのが人間というものです。自分にできることは同じように努力すれば他人にもできると考えてしまいがちで、それは行き過ぎた自己責任論にもつながりかねません。これは僕自身も含め、しっかり意識すべきことなのだと思います(僕自身が思考力があるかどうかは別問題として)。

不公平さを受け入れた社会制度のあり方

しかし、ここまでの話では「科学」に背を向けてしまう構造を考えただけに過ぎません。問題は、このことをどう克服するかにあります。

これまで議論してきた通り、科学への向き不向きにある程度の先天性があるのはおそらく否定できないことなのでしょう。しかし、森さんが指摘するように科学的な思考力は自分で考え、行動するためにはどうしてもある程度は必要なことです。生きていくのに必要な手段を得るためにも、自分や自分の周りの人たちの身体と財産を守るためにも、それは避けては通れないことなのでしょう。もちろん、どうしてもそれが難しい人がいるのは紛れもない事実でしょうし、そう言った人に対しては他者の適切な援助が必要になるでしょう。

そう考えた時に、現代の一番の問題点はなんなのでしょうか?

僕個人の意見としては、それは習熟速度に個人差があるにも関わらず、その個人差を前提とせず、画一的なスピードで教育が進められてしまうことではないかと思っています。思考力の習得スピードは人それぞれなので、同じ教育をしている限り、どうしても習熟具合には差が出てしまいます。

その差自体が悪いとは僕は思っていません。むしろ「個人差はない」という前提に立った全員一律教育をしている構造上、学校が授業について来られる生徒を選別するシステムになってしまっている、という点に問題の核心があると感じます。一度授業のスピードから脱落した生徒がもう一度授業についていくのは、特に積み上げ式の科目に於いては困難を極める、ということは今更いうまでもないでしょう。その結果、授業についていけない生徒は、退屈で惨めさを実感させられる授業を延々と聞かされ、それによって科学がさらに嫌いしてしまうだろうことは想像に難くありません。

その個人差を埋めるために塾や家庭学習があると言う議論ももちろんあるとは思いますが、親の教育レベルや経済力はバラバラなので、それを家庭に求めるのは難しいでしょう。裕福で余裕のある家庭はそれで構わないかも知れませんが、そうでない家庭にそれを求めるのは酷というものです。

結局のところ、必要なのは生徒の習熟度に合わせた教育進行ができるような仕組みだと思います。今までそれができなかったのは、学校というシステム上の制約と画一的な人を求める社会の要請のためだと考えがちですが、僕自身としてはそれだけではないと思っています。教育構造は単純な行政の問題ではなく、子ども・親側の欲望や教育ビジネスの仕組み、人口増減などを踏まえた均衡点としての現状がある、という視点を忘れてはならないと思います。特定の個人・団体を叩いても問題を解決することは出来ず、重要なのはその均衡を崩すような新たなプレーヤーを生み出すことや、欲望側・行政側の両面のインセンティブを変えていくことです。

僕が思うことは、いずれにせよ「科学的思考力の不公平さを受け入れること」が必要である、ということです。このことからさらに一歩踏み込んで、「科学的思考力の不公平さを念頭に置いた社会設計が必要なのではないか?」、それが今回の結論です。

今回の僕の文章で提示したいのは、教育に携わるかどうかに関わらず、人が思考力の個人差に向き合う必要があるのではないだろうか、という問題提起です。教育、ひいては人間認識の前提を変えることでのみ、科学の公平性の名の下に社会から脱落する人、科学に背を向ける人たちを少しでも減らせるのではないか、そう思えてなりません。

まとめ

今回は森博嗣さんの『科学的とはどういう意味か』を読んで考えたことを書いてみました。科学は公平にも関わらず、なぜ受け入れられないのだろうか?という問いからスタートした思索の過程です。

僕自身が深く教育に携わっているわけではないので、教育について書くのはどうかとも思いましたが、携わっていないからこそ書けることもあると思うので、これはこれで良かったのかなと思います。まあ、実際に中の人から見ると当たり前過ぎたり、見当違いだったりすることもあるのかも知れませんが…

それでは、また!