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【読書コラム】わかりあえないことから - 「エモい」はなぜ市民権を得たか

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は平田オリザさんという方の新書『わかりあえないことから - コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書)。この本の著書は、劇の演出家として活躍されている一方、東京藝術大学の特任教授を務めるなど、幅広く活動されている方のようです。

この本で面白かったと思ったのは、コミュニケーションを演劇・言葉という観点から考察するという切り口です。「わかりあえないことから」というタイトルに現れる思想は僕の考えと非常に近かった一方、それに対して、この方の専門分野と実体験に基づく思索が非常に興味深いと感じました。

今回は、この本に書かれていて印象的だった、言葉についての考察を中心にコラムを綴っていきたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの論点は、日本人のコミュニケーションのあり方です。我々が自分とは違う価値観と衝突した時、自分の立場を語る時の「語り方」について、言葉という観点から考えてみたいと思います。

今回の記事で言いたいことは「根拠のない感情を語る勇気を持つこと、そして他人のそれを受け入れつつ、落とし所を見つけようとする意思を持つこと」の重要さです。月並みな言い方になってしまうかも知れませんが、「単独一人称を語ることと、他者の感情を最大限尊重しようとすること」の必要性であるとも言えます。このブログでいつも話している内容の繰り返しに近くなってしまう点もあるとは思いますが、今回は「言葉」という切り口からこれを考えてみます。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「わかりあえないことから」

この本における筆者の主張を一言でまとめると「みんなちがって、たいへんだ」という文中の特徴的なフレーズに集約されると思います。日本の従来的な、互いに「わかりあう」ことを求めるコミュニケーションのあり方を変え、多様で異なる価値観・背景を持つ人たちの中で互いに「わかりあえない」という前提のもと、コミュニケーションの形を改めて考えていくべきだ、というのがその根幹です。

読んだ時に思った率直な感想は、その根幹が自分の考えに非常に近いな、ということです。このブログをよく読んでいただいている方なら、上のような考え方が、僕の思想とほぼ一致していることがわかると思います。特に、「友だち幻想」についてのコラムで言いたかった内容は、まさにこの方が提唱しているような思想です。

僕がこの本で面白いと思ったのは、上記の思想に止まらず、それを劇や言語という文化的側面から考察しているところです。「わかりあえないことから」始めましょう、という主張自体は、そこまで目新しいものではないかも知れませんが、筆者の専門分野に基づいてそれを解説しているのが新しいと思いました。

他者を分かり合えない存在とみなす他者性と、コンテキストを重視する日本語という言語の関係。コミュニケーションに対して、高度にコンテキストを要求する日本人と演劇との関連について思索。それが非常に独特であり、それでいて説得力のある考察はお見事の一言です。

僕がこの本の中で特に印象的だったのが「かわいい」という言葉についての言及です。日本語には「対等な関係の褒め言葉があまり見つからない」とした上で、その欠落を「『かわいい』は一手に引き受けて補っている」と考察しています。だから女子高生は何に対しても「かわいい」という言葉を連発するのではないか、というわけです。

僕はこの主張は非常に的を射ていると思っています。「対等な関係の褒め言葉があまり見つからない」ということは、僕自身ブログなどを書く中で、かなり切実に感じている部分でありました。それを見事に言語化してくれたのが、この「かわいい」についての議論です。

そんなわけで、今回は「対等な関係での言葉の不足」という観点から考えていきたいと思います。

日本語で個人的感情を語る難しさ

本の中で、日本語が「対等な関係の褒め言葉」が少ない言語であると言及されているのは前述のとおりですが、この点について、もう少し詳しく解説します。この部分で筆者が言いたかったのは、日本における「対話」の言葉の欠如です。「上に向かって尊敬の念を示す」言葉や、「下に向かって褒めてつかわすような」言葉は豊富にある反面、「対等な関係の褒め語彙」は極端に少ないと言うわけです。

こういう状態にある日本語に対して、欧米の言葉ならばそこに相当する言葉がたくさんあると主張します。文中に出てくる例は「wonderful」「marvelous」「amazing」「great」「lovely」「splendid」などです。そのため、スポーツの世界では、相手を褒める時に「ナイス・ショット」「ナイス・ピッチ」「ドンマイ」という外来語に頼らざるを得ない、という指摘していますが、これは多くの方にも身に覚えがあるかもしれません。

先に書いたとおり、僕は「対等な関係の褒め言葉が少ない」ということは、ブログ等を書いているときに非常に強く感じます。つまりどういうことかというと、何かについて語る時、上から目線(評論家目線)にならずに何かを語るのが非常に難しいということです。

これも以前のコラムで書いたことですが、僕がコラムでやりたいことは、なにかを評価することではなく、本を通して自分が感じた・考えたことや、そこから得られた価値観・視座について語ることです。極力、対象を何かの価値観に基づいて評価する目線(評論家的目線)にならないように注意しているからこそ、「対等な関係の褒め言葉」の不足を切実に感じるのです。要するに、個人的な「好き/嫌い」を語ることができる言葉が足りない…

ちょっとわかりずらいと思うので、簡単な例を出しましょう。例えば、自分の好きな本について語る場面を考えてみましょう。
「この本は良い」
「この本は素晴らしい」
「この本は最高だ」
「この本はすごい」

これらの言葉を特に違和感なく使えてしまう人もいるかも知れませんが、僕はこれらの表現を使うことに対して強烈な違和感を覚えます。その違和感の正体とは「一人称の不在」です。

上に書いたような表現はどれも、本に対する「三人称的」で「客観的」な評価であり、主観的な感情が現れていないように感じるのです(最後の「すごい」だけは主観は多少現れているかも知れません)。だからこそ、対象を客観的な「良い」とか「素晴らしい」とかという言葉を使って断じる権利が自分にはあるんだろうか、と考えてしまうわけです。

そこで、評論家的視点にならないために、なんとか主観をねじ込もうとするわけですが、その結果は以下のようになってしまいます。
「この本は良いと思う
「この本は素晴らしいと思う
「この本は最高だと思う
「この本はすごいと思う

要するに、主語を「この本」から「私は」に強引に転換させて、客観的な意見ではなく、あくまでも自分の個人的な好みにすぎない、としようとするわけですね。

これらの表現を見れば明らかなように、個人的な好みを語ろうとすると、ひどく冗長で、遠回しであり、自信が無いような文章になってしまいます。形容詞自体に主観が含まれているような言葉を使うのであれば(英語で言う「wonderful」「amazing」等)、あえて「と思う」と入れる必要がないわけですが、前述のとおり日本語にはそれがとても少ない…
この場合に一般的な言葉で使えるのは「面白い」「興味深い」くらいのものなのではないでしょうか。

なにかの感想を書くときに「『面白かった』『楽しかった』ばかりになってしまう」「文末が『と思う』ばかりになってしまう」という悩みはよく耳にしますが、これはまさに日本語の「対等な関係で褒める言葉」「個人的な好みを語る言葉」の不足に起因するとも考えられるわけです。上から目線にならずに、かつ、これらのような稚拙な表現を避けて物を語るのは本当に難しい。僕自身も毎回気をつけているつもりではありますが、これはなかなかに解決し難い問題です。

対象に一人で向き合う意識の欠如

このように考えた時、僕が極力避けようとしている「好き嫌い」から「良い悪い」へのすり替えは、日本語という言語で語る上では、ある程度必然のものと言えるのかも知れません。主観的で根拠のない「好き嫌い」を、客観的で権威化された「良い悪い」へのすり替えるという稚拙な行為、それは日本語の特性による部分も多いのではないか、というのがここでの論点です。

ここまで見てきたように、日本語には「主観的な好み」を表現する言葉が少ないため、物を語ろうとするとどうしても客観的な表現にならざるを得ない。もちろん、意識的にそうしないために工夫・努力したり、稚拙な表現であっても主観で語る人も多いとは思いますが、必ずしも皆がそれに気を遣っている訳ではない。だからこそ、我々は見慣れない物に出くわしたとき、「自分の中の価値観(主観)」に基づいて客観的な「良い悪い」の判断するという、ねじれた構造になってしまうというわけです。

これが、ネット上で評論家的なポジションの人がはびこっている要因の一つではないか、というのがここでの僕の主張です。もちろん、これはネットに限った話だとは思いませんが、「書き言葉のコミュニケーションであること」「誰もが自分語りが出来ること」「文字数の制限がある場合が多いこと」あたりのネットの特性は、「好き嫌い」の「良い悪い」への転嫁を促進しているように思います。いずれにしても、我々は物や人を「裁く」立場で語ることに慣れている、と言えると思います。

最近よく話題になっている、「マウンティング」というコミュニケーション形態もまた、この構造によるものであると考えられます。「マウンティング」とは要するに、誰の価値観が正当であるかをめぐる争いです。だからこそ、客観的事実(フォロワー数や価格や自分が費やしてきた時間)や権威(有名人の友だちや学者の見解)を持ち出して、自分の価値観の正当性を主張しようとするのです。このような、不毛で無意味な「価値観のパワーゲーム」が生じるのは、主観的な「好き嫌い」ではなく、客観的な「良し悪し」を語ろうとするからに他なりません。

また、よく読書系のSNSアカウントで見られる、「本をよんでいて偉い」と言われることに対するネガティブな感情もまた、ここに根ざすのではないかと思っています。つまり、「偉い」という言葉自体が、対等な関係で褒めるというより、「上から目線」のニュアンスが強いことが問題なのです。「偉い」という言葉を使うと一見褒めているように見ますが、それは決して対等な立場からの「褒め」ではなく、自分を一段高い立場に置いた上での「褒め」だからこそ「イラッ」とするのです。

ただ、「偉い」と言った側にはそんな意識はなく、単に適切な日本語がなかったから「偉い」という表現を使っただけ、という可能性も十分あります。この辺りは言葉の機微のミスマッチとも言えるのかも知れません。

「エモい」はなぜ市民権を得たか

さて、日本語には「個人的な好みを語る言葉」が少ないということを論じてきた訳ですが、個人的に着目すべきだと思っている言葉があります。それが「エモい」です。

かなり使いやすい言葉なので、すでによく使っているという人も多いと思います。今回はこの「エモい」をもうちょっと深掘りしていきます。

最近はだいぶ市民権を得てきた言葉だとは思いますが、ご存知ない方のために、簡単に説明しておきます。「エモい」という言葉の辞書的な意味を定義するなら「心を動かされるような」といったところでしょうか。「Emotion(感情)」という英語をベースとした現代語であり、「エモい本」「エモい映画」「このシーンがエモい」などの使われ方をする言葉です。やや回りくどい「心を動かされるような」という意味を持っているのが特徴であり、ここが今回の最大のポイントです。

もしかしたら、この回りくどさからピンときた方がいるかも知れませんが、ここで強調したいのは、「エモい」という言葉が、英語における「exciting(興奮させるような)」系の単語と同じ構造である、ということです。

『「Exiciting」系』という言葉は別に幅広く使われてる言葉でもなんでもなく、僕が勝手にそう呼んでいるだけなので、恐らく意味がわからないと思います(笑)。具体的には下記のような言葉です。
Amazing:驚かせるような
Interesting:興味を引くような(「面白い」と訳されますが、もともとの意味はこれです)
boring:退屈させるような

上記の訳を見ていただければ、「エモい」の意味と同じような構造を持っていることが何となく分かると思います。そして、これらの言葉に共通するのは、「主観」を含んだ形容詞であることです。ここまで読んだ方なら、その重要性は理解いただけるでしょう。

「The exciting game(興奮させるような試合)」「The interesting book(興味を引くような本)」「The boring lecture(退屈させるような講義)」という言葉を使った場合、興奮した人・興味を惹かれた人・退屈した人は語り手自身であることは明らかです。だからこそ、これらの言葉を使うと、日本語のような回りくどい言い方をしなくても、主観を語ることができるのです(形容詞自体の意味に主観が含まれているため)。

そして、子どもの頃を思い出すとわかると思いますが、日本の英語教育において、これらの言葉は以下のような表現とセットで教えられることが多いです。
Be excited to ~:~に興奮する
Be interested in ~:~に興味がある
Be amazed at ~:~に驚く
Be bored to ~:~に退屈する

要するに「excite」という言葉が「興奮させる」という意味なので、これを受身形にすれば「興奮させられる=興奮する」という意味になるという訳です。上記を見れば、「excite」以外も全く同じ構造だということはご理解いただけるでしょう。

さて、日本人の我々はこれをどう捉えるでしょうか。もちろん、理解をすること自体は特に問題ないと思いますが、なぜこんな「回りくどい」言い方をするのか?と感じた方も多いのではないでしょうか。それ感覚こそが、今回の核心です。

つまり、ここで僕が言いたいのは、我々が英語の「be excited to」という表現に感じる「回りくどさ」は、日本語で主観を語る時の「回りくどさ」の裏返しであるということです。主観を表す言葉に対して「もの→人」の流れを能動と見るか、「人→もの」の流れを能動と見るかの違いであるともいえるでしょう。もちろん、それはどちらが良い悪いの問題ではなく、単純に言語体系がどうなっているかという話です。

上で少し触れたように、「Interesting」については「面白い」という、それなりにピタッとくる日本語があるので、比較的すっきり訳すことができます。しかし、こういう日本語は(この文章のはじめての方で論じた通り)あまり多くありません。だからこそ、「Exciting」は「興奮させるような」という回りくどい訳語が求められる訳です。

さあ、ここで「エモい」に議論を戻したいと思いますが、言いたいことはもう明確だと思います。「エモい」がなぜここまで便利なのかというと、「Exciting」系の言葉に見られる「させるような」という回りくどい意味を、端的な一言で表すことができるからです。要するに、日本語に不足している「主観を含む形容詞」の穴を汎用的に埋めることができる、という点が画期的だったというわけです。

根拠のない感情を語る強さを

だからこそ、僕は「エモい」という言葉の流行を好意的に見ています。「かわいい」や「やばい」と同じく、汎用的すぎるが故にあまりに安易に使われすぎだ、と言う批判も最もではあるとは思いますが、そもそもそう言う言葉が日本語には不足しているので仕方がない。下記の筆者の言葉は、我々もよく肝に銘じるべきなのだと思います(筆者は「エモい」には特に言及してないですが)。

よく中高年の男性が、「いまどきの子は、なんでも『かわいい』『かわいい』で、ボキャブラリーがないなぁ」とおっしゃっているのを見かけるが、ボキャブラリーがないのは、そう言っている私も含めたオヤジなのだ。

なんにせよ、僕が「エモい」の流行を好ましいと感じているのは、主観的に物を語りたい、というニーズによるものと考えられるからです(この「好ましいと感じているのは」という回りくどい表現をなんとかできないものか…)。

言うまでもなく、現代日本人に求められているのは、異文化・異なる価値観を持つ人々の中で良好な関係を築いていくことです。みんなが同じ価値観を共にし、その価値観の「空気を読みながら」コミュニケーションを行う作法では、もはや生きていけないというわけです。

その中で必要なのは、集団の価値観を元に「客観的に」正しい意見を言うことではなく、自分の感情を言葉で伝えることだと思います。集団の価値観に基づいた「良い悪い」ではなく、「私」個人の目線から見た「好き嫌い」を話せる力と言い換えてもいいでしょう。

これは一見簡単なようですが、そんなことは全くないと思います。そこである程度の痛みや、やりずらさが生じるのは不可避でしょう。なぜなら、今まで自分の価値観の正当性を肩代わりしてくれていた「客観性」を失い、ただ「自分がそう感じる」というだけの自分勝手な感情を表明しなければならないからです。自分の吐き出している言葉が、どれだけ身勝手なことなのかを受け入れるのは、なかなか難しいことです。

たとえ稚拙な表現であろうが、きちんと「私」の主観的感情を伝える。逆に、他者の主観的感情を受け入れる。そして、その相互作用的なプロセスの中でお互いが許容できる妥協点を見つける。異なる価値観をもつ人同士が共生し、時に協力しながら物事を進めていく上では、そう言った面倒で大変なことをしなければなりません。

自分の発言の身勝手さに自覚すれば、何を外に発信すべきで、何を発信すべきでないかは自ずと想像できるのではないかと思います。ポジティブなことは比較的問題になりにくいかも知れませんが、ネガティブな言葉については、自分の身勝手が、周りにどういう影響を与えるのか、それをきちんと配慮する必要があります。一番危険なのは、 自分は「客観的に」正しいことを言っているのだから何を言っても許される、という態度だと思います。

もちろん、どこからが「ヘイト」「差別」で、どこまでが「意見」として許容されるか、その基準は不明確で、人によっても異なるのは確かです。発信側が全く意図しなかった捉え方をされて、人を傷つけてしまうことも少なくないでしょう。だからこそ、対話は大変なんです。しかし、それを避けることが困難である以上、時にお互いを傷つけ合いながら妥協点を見つけていくしかありません。

これが冒頭に書いた「根拠のない感情を語る勇気を持つこと、そして他人のそれを受け入れつつ、落とし所を見つけようとする意思を持つこと」が必要だと言う言葉の意味です。自分が「良い悪い」を判断する立場にある、という意識を捨て、お互いに根拠のない主観を持ち寄って、なんとか共生・協調していく道を探る…

日本語という言語の特性上、なかなかそれが難しいけれど、どんなに回りくどく、稚拙な表現になってしまったとしても、根拠のない主観を語り合う。それが、今の日本人に必要なことなのではないかと思います。

これもまた、なんの根拠もなく、ただ僕がそうあって欲しいと思うというだけの理由で…

「エモい」「かわいい」「やばい」これらの言葉を幼稚だと否定するのは簡単です。しかし、端的に主観を語れる数少ない日本語であるこれらを封殺した先にあるのは、自分の「正しさ」を主張しあうマウンティングです。自分たちの「民族が」、「イデオロギーが」、「道徳が」正しいと押し付けあう不毛なパワーゲーム。そこには、なんの生産性もないでしょう…

まとめ

今回は「わかりあえないことから」という新書を読んで考えたことを書いてみました。言葉について偉そうな考察を書きましたが、僕自身は言語学についての知見があるわけでもなんでもないので、的外れの指摘である可能性も十分にあります(笑)

当初は、もう少しコンパクトに短い文章でまとめるつもりだったのですが、書き始めたらやたらと長くなってしまったことは少し反省しています。ただ、その分、内容的には納得のいくレベルのものが書けたと思うので、それはそれで良いのかなとも思います。

それでは、また!