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【読書コラム】華氏451度 - 堕落は環境から

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はアメリカ作家レイ・ブラッドベリ氏の小説『華氏451度』(ハヤカワSF文庫)。焚書(書物の焼却)をテーマとしたSF作品ということもあり、読書好きにはたまらない小説の一つだと思います。

先に述べた通り、この本のテーマは「焚書」であり、物語全体を通して「本」や「知」が人に何をもたらすのかを、人々の対話や社会の形からあぶり出していくような小説です。作者であるレイ・ブラッドベリの読書愛が強く伝わってくる小説で、僕の最も好きな本の一つだったりします。

今回はこの「華氏451度」という作品の内容に触れながら、我々を取り巻く「環境」について考えていきたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説の結末やストーリーの核心につながるようなネタバレは含みません。大まかな世界観についての解説程度なので、実際の読書の楽しみを奪うようなレベルではないと思います。どうしても気になる方以外は、特にナーバスにならなくても問題ないと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムでは、堕落とはそもそもなんなのか?という問いから始まり、我々が堕落しないため必要なことを考えてみたいと思います。冒頭に述べた通り、そのメインテーマは「環境」です。

今回の僕の結論は「自分を取り巻く環境を主体的に設計することが必要である」というものです。「環境の設計」という表現は少しわかりにくいかもしれませんが、自分が本当にやりたいこと、大切にしたいことに時間を費やせるような「環境づくり」の勧めです。

この本を読んだ方であれば、「環境作り」がこの本となんの関係があるのかと思われるかもしれません。確かに、「華氏451度」という小説では「環境」や「環境作り」といったことがテーマになっているわけではなく、直接的な言及もほとんどないと思います。しかし、この小説世界観を深く考えてみると、人の行動における「環境」の重要さが浮かび上がってくるように思うのです。今回はそれについて順を追って説明していきます。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「華氏451度」

まず、簡単に本の内容について紹介します。

この本のタイトルとなっている「華氏451度」は、紙の燃える温度を表します。冒頭でも述べた通り、本書の中心テーマは焚書(書物の焼却)であり、書物をめぐる物語といっても過言ではないでしょう。

主人公は昇火士(ファイアーマン)のモンターグという30前後の男性。禁止された書物を所持する家に行き、その書物を燃やすことを生業とする人物です。この世界では工学や科学の専門書を除くほとんどの書物が禁止されており、読書が好きな方にとっては読んでいてあまりにも心苦しい世の中になっています。

書物が禁止されてる主な理由は、市民に知恵や自分の頭で考える力をつけさせないためです。世の中を動かすために最低限必要で、一つの明確な答えがあるような工学の専門書については禁止されていませんが、思想書や哲学書はもちろん、小説や詩、聖書などでさえも有害なものとして社会から排除されます。

書籍が禁止された世の中において、人々は「壁」と呼ばれるテレビのような映像装置や高速スポーツカーによる暴走競技に興じていることが描かれます。どちらも強い依存性があることが示唆されており、仮に書物が禁止されていなかったとしても、人々は書物に目を向けていなかったのではないかとすら感じてしまいます。

この「壁」については、「テレビ」を強く意識したものであることは明らかです。この本が書かれた1950年代当時には、今ほどはテレビが普及していなかったことを考えると、ブラッドベリの先見性の高さには驚かされてしまいます。このあたりの話はまた後ほど出てきますが、なんとなくテレビにかじりついてしまったり、Netflixをずっと眺めてしまう、という行動は身に覚えのある方も多いでしょう。

いずれにせよ、この本で書かれているのは人々の堕落です。自分の頭で考えることを放棄し、目の前に差し出された安易な快楽に無条件に享楽してしまう人々。にも関わらず、そこにいる人たちは決して幸福ではありません。主人公の妻が物語の冒頭で自殺未遂を図るほど、社会全体を漂う雰囲気は退廃的です。このあたりも、読んでいていなかなか心苦しいです。

そんな堕落した世界の中で、主人公のモンターグが1人の少女との会話をきっかけに、自分の生きる社会や昇火士という仕事への疑問を抱き、行動し始めるというのがこの本のメインストーリーです。翻訳SF独特の読みにくさはあるとは思いますが、「知性」や「書籍」をめぐる物語であり、読書が好きな方ならば読んで損はない作品のひとつです。

堕落は環境から

何気なく使った「堕落」という表現ですが、そもそもこの「堕落」とは何を意味する言葉なのでしょうか?なんとなくのイメージはありつつも、具体的な堕落の定義をパッと言える人は多くないのではないでしょうか。

堕落のイメージを端的に言うと快楽追求でしょう。社会的にやるべきことをせず、自らの快楽(ギャンブルやアルコール、ドラッグやセックス)のためにその人生をささげる生き方が堕落であると言えると思います。この世界で描かれる人々は、先の例に比べるとマイルドな形ではありますが、やはり自らの快楽に身を委ね、今の生活や社会を良くしよう、という意思が見受けられません。

この本を読んだ方ならなんとなくわかると思いますが、正直言って僕はこの世界で堕落してしまう人々の気持ちも理解できなくはありません。その堕落が自分を幸せに導かないとわかっているにも関わらず、短期的な快楽への欲求に負けて自堕落に行動に走ってしまう。そのような経験は誰しもがもっているものだと思います。

ダイエット中に、後々の自分の肉体を考えれば良くないとわかっているのにスイーツを食べ過ぎてしまう。寝る前に英語を勉強したいにも関わらずスマホをいじって時間を浪費してしまう。本を読んで知識を得る方がいいとわかっているのにテレビをなかなか消すことができない。そんなケースは枚挙にいとまがないでしょう。

そもそも、なぜ人は不幸になるとわかっていながら、堕落につきすすんでしまうのでしょうか?

色々と意見はあるとは思いますが、僕はそれは「人間の脳の報酬系が現代に最適化されていないため」だと考えています。脳の報酬系は進化によって作られた(自然淘汰によって生き残った)切り貼りであり、人間の生物学的な進化のスピードはテクノロジーや社会構造の進歩のスピードに同期していません。我々人類の脳の仕組みは狩猟時代からあまり変わっていないにもかかわらず、我々を取り巻く環境があまりにも大きく変わっているため、人は現代の社会構造から考えると馬鹿げた行動に走ってしまう。それが僕の考えです。

我々がカロリーの高い脂質を好むのは、カロリーが絶対的に不足していた時代に生き残るのに有利だったため。性行為が異常なまでの快楽に結びついているのは、セックスを好んでする人種のほうが繁栄しやすかったため。静止画像より動画を好むのは、動くものや変化に敏感な気質が生き残りに大きく寄与していたため。このように考えることができるというわけです。

もちろん、こういった考え方はあくまでも仮説でしかなく、それを検証することは困難を極めます。そういう意味で、このような解釈を盲信することもまた危険な思想だと言えると思います。しかし、ある程度の説得力がある仮説であることは間違いないはずです。

繰り返しになりますが、堕落とは脳の報酬系と時代の価値観のミスマッチである、というのが僕の考えです。そう考えた時に、この本の世界観で見事だと思うのは、堕落せざるを得ない環境の構築です。

自分の周りを映像で満たすことのできる「壁」の存在、有無を言わせぬ生理的快楽を提供する刺激的娯楽の数々、そして本書のメインテーマである焚書。

短期的な快楽(哲学やポジティブ心理学でいう「ヘドニズム」)を切れ目なく提供する一方で、長期的な幸福(同じく「ユーダイモニズム」)をもたらすものは徹底的に遠ざける。さらに、「ユーダイモニズム」の象徴たる本を仮想敵として設定し、それを燃やすことで人々の一体感を高揚しつつ、社会的貢献心をくすぐって自己肯定感を持たせる。

この世界は、今ほど脳科学や社会心理学が発達していなかった1950年代に書かれたとは思えないほど、人々を堕落させるという意味において「理にかなって」います。この辺りの先見性の高さは、書物を愛したレイ・ブラッドベリならではなのでしょう。

いずれにしても、この小説世界は頭を使う時間を作らない、疑うことをさせないという環境づくりが徹底されています。この状況で「堕落するな」と言うほうが無理というものでしょう。自分自身がこの環境に身をおいた時、「堕落せずにいられるか?」と問われても、僕は自信をもってYesと答えることができません。なぜなら、僕の脳の構造もまた古代から大して変わっていないと思われるからです。

ここでようやく、今回のコラムのキーワードである「環境」という言葉が出てくるわけです。

現代に蔓延る堕落の誘惑

さて、翻って現代を生きる我々の環境を振り返ってみましょう。言うまでもなく、我々の日常環境には誘惑が満ちています。

現代メディアはラジオから始まり、テレビ、ケータイ、スマホと発展し、それに伴って誘惑は我々の日常・手元の近いところにどんどん侵食してきています。SNSの通知と、そこからワンクリックでサービスに直結させる仕組み。アマゾンの通知からワンクリックで商品を購入させる仕組み。アレクサに至っては、クリックをする必要すらなく、声を出すだけで簡単に情報(誘惑)にアクセスすることができます。

さらにこれに関連した話として、Netflixの日本攻略戦略が有名です。ご存知の方もいると思いますが、彼らの日本市場の攻略の鍵は「テレビのリモコンにNetflixボタンを追加する」ことでした。あらゆる家庭にいき渡っており、惰性で流され続けるテレビというメディアにワンクリックでアクセスさせることを重視していたわけです。そして、ご存知の通りその計画はかなりの部分ですでに達成されています(僕はテレビはほとんど見ないので完全に把握しているわけではないですが)。

また、ゲームのスマホ化もまたこの潮流にあります。ファミコンやゲームボーイ、プレーステーションと言う特定のハードに実装されていたゲームは、その大部分がスマホという汎用メディアに移行しています。その理由は開発側の環境の問題や、発信のハードルの低さによるものが大きいと思われますが、重要なのは、結果としてゲームが「非日常」から「日常」に取り込まれたということです。

これらの例からわかることは、市場経済は誘惑をいかに「日常」の「環境」に滑り込ませるかを追求するということです。ご存知の通り、快楽追求=堕落は経済の大きなエンジンとなります。それは、タバコやアルコールが体に悪影響を引き起こすと知られていてなお、大きな市場を有していることからも分かるでしょう。つまり、市場経済に任せるだけだと、人々を堕落に導く方向に傾きがちである、というのが問題の本質です。

もちろん、市場経済が必ずしもこの方向に向かうと主張するつもりはありません。僕の知る限りでは、任天堂はWii, DS以降において、この辺りには非常に意識的で、ゲームをいかに「非日常」に回帰させるかを追求しているように見えます。また、有名な例でいうと「ディスニー」もまた「非日常」を追求している企業であると言えます。しかし、現在の潮流として誘惑の「日常化」があることは紛れも無い事実だと思います。

特に、先の例で度々出てきたGAFAをはじめとするシリコンバレー系新興企業は人間の報酬系統を本当によく理解し、ビジネスに応用しています。心理学や脳科学を学ぶほど、彼らのやり方が人を堕落させるために合理的に設計されていると感じてしまいます。先に例を出したNetflixの戦略やアレクサの設計、Amazonのワンクリック購入や、FacebookをはじめとするSNSの「イイネ」による射幸心の扇動。

僕はそれが良いことなのか悪いことなのかを断罪する立場にいるとは思いませんが(個人的な好き嫌いは別にして)、いずれにしても、現代は昔比べてはるかに堕落しやすい環境にあることは明らかです。インターネットによって世界中の書物や知に簡単にアクセスできる環境になったことは確かですが、そこに主体的にアクセスすることが難しいのも事実です。知へのアクセスが容易になったと同時に、誘惑へのアクセスも容易になったのです。

意志力に頼らない堕落回避のしくみ

その中で我々が堕落を避けるためにすべきことはなんなのか、それはもう明らかでしょう。つまり、堕落しない環境を作ることです。

僕が好む心理学や脳科学、また最近興味を持っている哲学もまた、そのための知恵になっていると感じます。環境を作るためには、自分がどのような存在なのか、脳の報酬系がどういった特徴をもつのかを知ることは非常に有効です。

もちろん、これらの知見は科学が高度に発達した現代においても、確実なことはほとんど教えてくれません。それでも、かなり確からしいと思われるのは、人は強い誘惑を前にしてそれに抗うことは非常に難しいということです。マシュマロテストという心理学実験はあまりにも有名な話です。

ものすごく意志力が強くてそれに抵抗できる人がいることは否定しませんが、意志力に頼って誘惑を振り切ろうとする試みは大体において失敗に終わります。だからこそ、意志力に極力依存しない堕落回避の仕組み、つまり環境づくりが必要なのです。そもそも誘惑されるような状況に陥らない環境をいかに作れるかが肝になってきます。

幸い、誘惑が目の前にない時には、人は比較的長期の視点で物事を考えることができます。それが目の前にない状況であれば、ダイエット中にバターと小麦粉たっぷりのパンケーキがNGなことはバカでもわかります。妻子持ちの男性が、誰か別の女性と関係を持てばどんな未来が待ち受けているかも同じ話です。

ポイントは、この冷静でいられるタイミングにいかにして誘惑を遠ざける環境を作れるかを考えることです。夜の帰り道に、コンビニで無駄使い・身体に悪いものを買ってしまうなら、コンビニが目に入らない帰宅ルートを模索するのは一つの方法でしょう。気づいたらNetflixを開いてしまうなら、Netflixのアプリのアイコンを待ち受け画面の隅っこの方に配置してみるのも効果があるかもしれません。いっそのこと、思い切ってアプリごとアンインストールしてしまってもいいでしょう。

これらは一つの例に過ぎませんが、いずれにせよ環境整備が堕落を避けるための有効な一手であることは明らかです。自分が本当にやりたいことが何なのかをしっかり考え、それが出来るような環境を作ることが堕落を防ぐことに繋がります。

我々現代人を取り巻く環境の誘惑の多さを考えれば、意志力に頼る戦略はあまりにも脆弱です。仮に誘惑に負けてしまったとしても、「自分には意志力がない」と嘆く必要はないと思います。むしろ意志力が無いからこそどうするか、それを考えることが大切です。

これが冒頭に述べた「自分を取り巻く環境を主体的に設計することが必要である」という言葉の意味です。あらゆる誘惑を目の前にして、臨機応変に冷静な対応が出来るほど人間の意志力は強くありません。その弱さを受け入れた上でどうするのか?それを考えることが必要だと思うのです。

最後になりましたが、僕は堕落自体のいい悪いを述べるつもりはありません。ここまでの議論はすべて、「堕落を避けたいなら」という前提条件付きの話です。この前提はもはや価値観の問題であり、僕はそれを人に押し付けるつもりは全くありません。

ただ、僕は堕落したいとは思わない、というだけの話です。自分の短期的な快楽のために長期的な不幸に突き進む気はないし、自分や自分の周りの人間だけが幸福になればいいとも思いません。それは倫理観や道徳観とは無関係であり、長期的な不安感や、自分の幸福が他人の犠牲のもとにあるという罪悪感を抱きながら生きていきたくは無い、という非常に身勝手な感情に基づいて、です。

まとめ

今回はレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を読んで考えたことを書いてみました。ちょっと消化不良感もあり、なんとなくありきたりな結論になってしまった感はありますが、堕落とは何なのかを考える良い機会になったと思います。

その消化不良の原因は、書いている途中にそもそも「堕落の何がいけないか?」という論点が思い浮かんだことにあります。最後の文で少し触れていますが、今回のコラムは、基本的に「堕落は避けるべきもの」という前提での議論になってしまったことが心残りです。まあ、この点についてはそのうちまた考えて記事にしたいと思います。

それでは、また!