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【読書コラム】人間アレルギー - 仲間という言葉の射程距離

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は精神科医の岡田尊司さんの『人間アレルギー なぜ「あの人」を嫌いになるのか』(新潮文庫)。

この本は、対人関係の諸問題を「人間アレルギー」という概念による統合するという提案と、その特性と対処法についての心理学的探求が書かれています。内容としてはフロイトの精神分析をベースとしたものとなっており、現代科学としての確からしさの判断は難しいところですが、その思索の過程は興味深く、新たなインスピレーションを与えてくれた本だと思います。

今回のコラムでは、この本を読んている時に頭に浮かんだ「仲間の射程距離」というフレーズから進めた思索について書いていきたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの主なテーマは、人間関係における「仲間」と「他者」という言葉の位置付けです。この本の中で描かれている「人間アレルギー」をもつ具体的な人たちに対して感じた違和感から、この二つの概念の関係性について思考を巡らせていきます。

結論から言うと、「「仲間」と「他者」を二項対立的に捉えるのではなく、「仲間」を「他者」の一部として理解すべきだ」です。論理式で言うならば『not(仲間)=他者』ではなく、『仲間⊂他者』と捉えるべきだということです(むしろわかりにくくなっている気がしますが(笑))。

ピンと来た方もいるかもしれませんが、これはこのブログで僕がよく主張している「他者性」の議論と、内容的にはほぼ同一のものです。ただ、この本で得られたインスピレーションをもとに、いつもとは少し違った切り口から考えてみます。つまり「他者」に注目するのではなく「仲間」という存在の方向から考えてみよう、というものです。

念のために補足しておくと、「…として理解すべきだ」という言葉の意味は、「そういう風に理解した方が気楽に生きられるし、メンタルも安定するんじゃない?」という程度の提案にすぎません。この考え方が絶対の真理だというつもりは無いので、これは僕個人の意見として受け止めてもらって、そこから自分なりに考えてもらうのがいいかなと思います。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「人間アレルギー」

冒頭にも書いた通り、この本で解説されているのは「人間アレルギー」という概念についてです。それは、対人関係において適切な距離をとることができず、他者に極端に依存してしまったり、逆に遠ざけてしまったりする行動を、「アレルギー」という人体の免疫反応のアナロジーで捉えるという考え方です。

ご存知の通り、アレルギーとは、本来は害の無いものが体に入った時に、防衛機構が過剰反応してしまい、体にネガティブな影響が出てしまうという症状です。この考え方を対人関係に援用し、本来害のない(むしろ時に自分を守ってくれる)人に対して嫌悪感を抱いたり、不必要に距離をとったりしてしまうことを「人間アレルギー」と定義しています。

その根源に有るのは自己への執着である、と述べています。自分という存在を守るための過剰反応として「自分と相容れないものは認めない」という考え方に陥ってしまい、それが人を遠ざける要因になってしまうというわけです。一時はとても仲睦まじく付き合っていた相手に対し、瑣末なきっかけから突然嫌悪感を抱いた経験がある方であれば、この「人間アレルギー」について少し理解できるかもしれません。

さらに筆者は、さまざまな対人関係障害の根源はこの「人間アレルギー」に有るのではないか?と主張します。具体的には「社会不安障害」「適応障害」「パーソナリティ障害」「気分変調症」「強迫性障害」「身体醜形障害」を挙げています。これらの障害は、表出する「症状」であり、その症状を引き起こしているのが「人間アレルギー」というメカニズムだという主張です。

長年付き合っていた結婚相手が突然生理的に受け付けなくなってしまう。産まれたばかりの時は可愛くてしかなたなかった子どもが、成長して自我を持ち始めると受け入れ難くなってしまい虐待に及んでしまう。などの具体的な例を挙げつつ解説しており、なかなか納得感のある説明だと感じました。

とはいえ、この考え方がどこまで正しいかはちょっと僕には判断できません。理にかなっているように見えるのは事実ですが、理にかなっているように見えるかどうかと、それが科学的に正しいかどうかはイコールではないので、そこの判断は保留します。きちんと調べれば現代の心理学の業界としてのスタンスもわかるかもしれませんが、そこまでしっかりと調べるつもりは今のところありません。

今回のコラムでは、あくまでもこの本から得られたインスピレーションから考えたことを述べるにとどめ、その確からしさを検証するつもりはない、という事はご理解いただければと思います。

仲間という言葉の射程距離

この本で出てきた種々の具体例を読んで、僕の頭に浮かんだのは、仲間の「射程距離」という言葉です。「射程距離」という言葉はちょっとピンと来ないかもしれませんが、言いたい事は「仲間」に求める自己との同一性が強く、「仲間」が指し示す範囲が極端に狭いな、というのが僕の率直な感想です。

(ちなみに「仲間」という言葉は「友達」でも「親友」でも「パートナー」でも「身内」でもなんでも良いんですが、意図を誤解なく伝えるために、今回のコラムでは「仲間」で統一します。要するに、自分の味方のような存在と考えてもらって構いません。)

思想や習慣、趣味や好みが自分とほぼ同一の人しか仲間と捉えられない射程距離の短さ。自分の気にくわない行動や瑣末な違いに目がいってしまい、その人全体を、自分とは異質のものとみなしてしまう。今回はその心理について考えてみます。

もちろん、どこまでを自分の「仲間」と捉えるかは人それぞれだとは思いますし、どこまでを「仲間」と捉えるのが正しい、という基準があるわけでもありません。「仲間」の範囲が広いことが良いことだと安直にいうつもりもありません。論点は、あくまでもそれに伴う生きづらさです。

ここで、視点を少し変えて、相手に求める同一性を「具体と抽象」という観点から考えてみたいと思います。

簡単に言うと、抽象的なレベルでの同一性は「価値観」や「思想」についての一致、具体的なレベルの同一性は「行動」や「しぐさ」、「細々とした好み」の一致と言えます。もちろん、具体と抽象はあくまでも相対的なものでしかないので、具体と抽象をそれぞれ一対一で対応させる事は出来ません。しかし、大雑把にはこのような理解で問題ないと思います。

言うまでもありませんが、具体のレベルに行けば行くほど自分と他人を一致させる事は難しくなります。「世界平和」と言う非常に「抽象度」の高い思想を共有する事は容易い一方、「自衛隊を認めるかどうか」という「具体的な」方向性を一致させることは難しい、ということを想像すればそれは明らかだと思います。もうちょっと身近な例を使うなら、「スポーツが好き」という価値観を共有できる人は、「サッカーが好き」という好みを共有できる人数より多いことは論理的に明らかです。

ここで言いたいのは、仲間に求める同一性が強くなるほど、具体の領域での一致が要求される、ということです。わざわざ、仲間の「射程距離」を説明するために「具体と抽象」という概念を持ち出した理由は、これを説明することにあります。仲間の射程距離が短くなってしまう心理の根源にあるのは、仲間に対して、より「具体的な領域」までの同一性を求めるからではないのか、それがここまでの話のまとめです。

わかりやすい例として、「読書が好き」というカテゴリーを考えてみましょう。読書と一言でいっても、小説・ビジネス書・専門書・絵本・漫画などなど、色々なジャンルがあることは言うまでもありません。さらに、小説をとっても純文学・ミステリー・SF・恋愛などジャンル分けを始めればきりがありません。このような状況下において、「読書が好き」が共有できれば「仲間」だと認識できる人は「射程距離」が長い人、「SFが好き」まで共有できなければ「仲間」として認識できない人は「射程距離」が短い人、というわけです。

繰り返しますが、「射程距離」の広さ自体に対して「良い・悪い」で論じるつもりはありません。問題の核心は次の章以降に述べていきたいと思います。

後退する仲間領域のジレンマ

僕が問題だと思う(本人からするとしんどいだろうなぁと思う)ことは、相手が仲間の射程距離から外れた時に生じる「手のひら返し」です。「愛しさ余って憎さ百倍」という表現はよく耳にしますが、その反転に伴う精神的な疲弊が問題だと思ってます。

この本に描かれている「人間アレルギー」の具体例に見られるパターンは、初めは「仲間」だと思っていた相手が、距離が近づくにつれて瑣末な違いが目立つようになり、それが生理的な嫌悪感に発展してしまうというものです。新婚当時は仲が良かったにも関わらず、歳を重ねるにつれてちょっとすれ違いが積み重なり、擦れた関係になってしまう、というケースを考えればイメージしやすいと思います。

僕がこれらのケースを目にした時、組織論におけるピーターの法則に似ているな、と思いました。ピーターの法則とは、「人が組織内を出世する時、その人の能力が発揮できる限界まで出世する。そうやって、その人が能力を発揮できなくなるまで出世を続けるため、最終的な出世先では無能な存在にならざるを得ない」というものです。詳しくは、下記のwikipediaの記事をご覧ください。

ピーターの法則 - Wikipedia

これを「人間アレルギー」の症状に当てはめるとこういうことになります。

仲間の「射程距離」の短い人は、仲間が少ないが故に、仲間候補となる人を見つけたら、接近を続ける(抽象のはしごを具体の方向に降りていく)。その結果、お互いの違いが表面化するまで具体の領域に降りていくため、どこかのタイミングで「アレルギー」症状を発症せざるを得ない。

その結果予想されるのは、裏切られたことに対する手のひら返しであり、それを繰り返すことで仲間の射程距離が更に短くなることは想像に難くないでしょう。そうやって、信頼と裏切りの果てしない連鎖に疲弊し、仲間の射程距離はどんどん短くなる。これが、僕が問題だと思っている負の連鎖です。

いつも同じ話になってしまって恐縮ですが、結局は共感の不可能性の問題です。具体の領域になればなるほど自己と他者の同一性を求めることは難しくなる、ということは先に述べた通りです。そして、世界中のどこを探しても、自分と全く同一の人間を見つけることなどできません。であるがゆえに、こうした射程距離の後退の果てにあるのは、仲間に残されるのは自分だけ、という孤独です。

「仲間」と「他者」の関係性の更新

前章にて、他者との同一化の不可能性と、それによる孤独を述べたわけですが、ここでは「何がいけなかったのか?」を考えたいと思います。ポイントはこの問題を「自分」と「仲間」と「他者」の三者の関係性と捉えることです。

その上でキーとなるのは、ここまで何度も言及している「手のひら返し」という表現です。ご存知の通り「手のひら返し」とは、対象への反応を短期間で180度変えてしまうことを表します。今回の件で言えば、相手に対する「信頼」という反応から「嫌悪」という真逆の反応に反転させる行動を指して「手のひら返し」と呼んでいるわけですね。それだけ急激で突然の反応だからこそ、する方もされた方も精神的に大きく疲弊してしまうのです。

僕は、この「手のひら返し」の根底にあるのは、「仲間」と「他者」の間の壁の高さにあると考えています。すなわち、『仲間は自分を同質の存在であり、信頼できる味方』、『他者は自分とは異質な存在であり、信頼できない敵』という二項対立として捉えることが問題であるということです。「仲間」と「他者」が180度違う存在だからこそ、ある人が「仲間」から「他者」となった時に「手のひら返し」をせざるを得ないのです。

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この図は、先に出した例における「自分」と「仲間」と「他者」の関係を示したものです。仲間と他者の間に超えられない壁があり、「他者」側の人間は排除すべき対象であり、「仲間」側の領域に自分がいるという構図となります。もしかしたら、多くの人が持っているイメージ通りなのかもしれません。

一見わかりやすく、もっともらしく見える図ではありますが、そこに欠陥を抱えているのは前の章で述べた通りです。「仲間」に同質性を求め続ける限り、どこかで共感の不可能性に衝突するため、仲間の領域は後退していかざるを得ません。その結果は、自分と他者しか残らない世界であり、個人が、圧倒的な「他者」という闇に飲み込まれる世界です。

僕が提案したいのは、「仲間」と「他者」の間にあった超えられない壁を、「自分」と「仲間」の間に再配置することです。

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つまり、「仲間」と「他者」を二律背反的に捉えるのではなく、むしろ「自分」と「他者」の二項対立と捉えて「仲間」を「他者」の一部と捉えるというわけです。これは、適切な「他者」観を持っている人から見ればあまりにも当然の図であると思いますが、それでもあえてこの図は強調してもしたりないくらいだと思います。

どんなに近しい間柄であっても、その人と感覚や体験を本当の意味で共有することはできません。これは、このブログの中で何度も繰り返し述べている通りです。そういう意味では、「仲間」とは、比較的信頼できる「他者」以上のものではありません。感覚や感情の共有ができないという意味では、「他者」と「仲間」は何ら違いはないのです。だからこそ、「仲間」は「他者」の一部と考えるべきです。

また、便宜上、図の中では「仲間」を灰色の単色で塗っていますが、実際は白に近い灰色(かなり具体的なレベルまで同質の他者)から黒に近い灰色(抽象的な価値観ですら一致できない他者)までがぼんやりと広がったグラディエーション上の配置になっているはずです。世界を白と黒に塗り分けて、その対立として捉えるのではなく、様々なレベルの意見が入り乱れた状態と考える。それが社会としても個人としてストレスのない世界認識なのではないかと思うのです。

要するに、人間関係を敵と味方の二元論に帰すのではなく、同質性のレベルの高低と位置付けるべきだ、というのが今回僕が言いたいことです。幸い、具体性が高い領域であるほど妥協点は見出しやすいし、妥協をする必要さえないケースも多いです。自分と違う考えの人がいることは、自分の否定を意味するわけではなく、あくまでも経験と感覚の違いによる差異に過ぎないのです。

これが冒頭に書いた「「仲間」と「他者」を二項対立的に捉えるのではなく、「仲間」を「他者」の一部として理解すべきだ」という言葉の意味です。

もしかしたら「仲間」を「他者」と認識するのは、少しドライ過ぎると感じる方もいるかもしれません。しかし、それは別の個体である以上仕方のないことです。重要なことは、それを受け入れた上でどう人間関係を捉え、どう振る舞うかではないかと思うのです。

まとめ

今回は『人間アレルギー』を読んで考えたことを書いてみました。今回は、この本を読んでいる途中になんとなしに頭に思い浮かんだ「仲間の射程距離」というキーフレーズを元に思考を進めてみました。

基本的には、いつも書いている「他者性」についての話ではありますが、今回は「自分」と「他者」に加えて、「仲間」という概念を導入したことで、多少は思考領域を広げられたかなと思います。毎度同じようなところをぐるぐる回っている感があって、どうしてももどかしさを感じてしまいます。しかし、これはそう簡単に結論が出せるようなものでもないので、インプットとアウトプットを重ねながら少しずつ思考を拡張していくしかないのかも知れません。

それでは、また!