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【読書コラム】下流志向 - ゆとり世代の処世術(前半)

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は思想家の内田樹さんの『下流志向- 学ばない子どもたち働かない若者たち』(講談社文庫)。著者の内田さんがどのような方なのかは正直言って存じ上げないのですが、この本を読んでなかなか考えさせられてしまいました。今回はこの本についてのコラムを書いていきたいと思います。

今回は特にネタバレを気にする必要はないと思います。また、今回はちょっと長くなったので、実験的に前後半の2パートにわけて投稿したいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。
本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います、

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のコラムのテーマは「ゆとり世代の処世術」となります。

この本に書かれている内容を一言で言うと、現代の教育に対する苦言です。おそらくこの本が想定している教育で育った世代である「ゆとり世代」として、納得させられる考察も多かった反面、少し違和感を覚える部分が多かったのも事実です。この本を批判するつもりは全くありませんが、読んでいて僕なりの感じたことや、考えたことを書いてみたいと思います。

ゆとり世代の当事者として考える、子供が勉強しなくなった理由は「学校や日本の昭和的価値観を信じられなくなったため」です。そしてそのことを踏まえ、この時代を生きる我々に求められるのは「帰属先の分散によるリスクヘッジである」ということです。

前半で議論するのは、子どもが勉強をしなくなった理由についての考察までで、それ以降は後半で書いていく予定です。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

本の内容

冒頭にも書いた通り、この本で議論されている内容は現代日本教育の問題点の指摘です。子どもたちの学力が低下していることはもとより、特に問題なのは子どもが学力低下を気にしなくなったことであると説いています。少なくとも、昔は学力の低下を好ましくないことと子どもが認識していたはずだという主張です。また同様の文脈で、労働をしない若者(いわゆるニート)が出てきたことについても苦言を程しています。

この本の中では、子どもが学ばなくなった原因を市場経済的な考え方に帰着させており、消費行動における無時間的な感覚が学習意欲に影響しているのではないかと考察しています。おそらくこの説明だけだとピンとこないと思うので、もう少し丁寧に説明します。

一般的に経済活動における消費は即時になされます。つまり、何か欲しいものを購入するとき、お金を払うタイミングと商品を受け取るタイミングは同時だと言うことです。これは、多くの方にとって当たり前のこととして理解いただけるかと思います。これを前提として、筆者の主張は下記の通りです。

昔の子どもは、家庭内の労働を消費行動よりも先に体験するため、即時の取引の考え方に染まっていなかった。一方で、現代の子どもは労働よりも消費行動を先に体験するため、学習を始める段階で瞬時に決済が降りる考え方が頭に染み付いている。この違いにより、現代の子どもはすぐに目に見える成果を求めるようになり、すぐには成果に現れない「勉強」から逃げるようになってしまった。。。

一言で言うと、教育もその他の経済活動と同じように、すぐに役に立つかどうかを判断し、すぐに目に見える効能が得られなければ学ぶことを放棄する。これが著者が考える現代の子どもが勉強をしなくなってしまった理由です。

この流れの中で、子どもから「勉強が何の役に立つのか?」という質問が出てくること自体がおかしいと言っています。この質問は「勉強が役に立たないなら勉強はしない」という学校に対する取引の交渉に他ならず、そもそも教育はこのような質問は想定していないので、子どもから「勉強がなんの役に立つのか?」といった質問をされたら絶句するしかないと主張しています。

詳細は割愛しますが、最終的な筆者の着地点としては、行き過ぎた自己責任論の批判と共同体によるリスクヘッジの必要性です。この最終的な結論についてだけ言えば僕個人の考えることと近く、多くの部分に同意できます。しかし、消費性向による学びからの逃走や「勉強が何の役に立つのか?」をめぐる議論についての筆者の主張には、読んでいてやや違和感を覚えました。

それは、当時まさに「勉強が何の役に立つのか?」と感じつつ子ども時代を過ごしてきた僕自身の感情と照らし合わせて浮かび上がってきたものです。

いつものことですが、僕自身はこの本に書かれた内容を批評するつもりは
ありません。著者の経歴は存じ上げないですが、おそらく教育論について深く研究し、考察してきた方だろうと思うので、素人である僕がそれを批判・批評するのは適切ではないでしょう。そのため、今回はあくまでもゆとり世代としてこれまで生きてきたことを踏まえ、読んでいて感じたことを書いてみたいと思います。

 

昭和的な価値観に対する不信

初めに、『なぜ「勉強が何の役に立つのか?」という問いをするようになったのか?』について考えてみたいと思います。入れ子構造になっていて少しわかりにくいですが、一言で言うと勉強をすることに対して疑問を抱くようになったのはなぜか?という議論です。

 

その問いを考えるため、まずは僕の子ども時代を振り返ってみます。当時の僕が、この著者が言うような、勉強を学校側への取引の材料とするような感覚を持っていたかというと、そんなことはなかったと思います。もちろん深層心理としてそういう感情があったのではないかと言われると、それを否定しきる術は持っていませんが、少なくとも意識化における感情としては持っていなかったと感じます。これが筆者の主張に対する違和感の核心です。

 

同じ世代の人ならわかっていただけるかもしれませんが、それは自分だけでなく周りも大きくは変わらなかったのだと思います。当時の自分たちが「勉強が何の役に立つのか?」と大人に尋ねた時、もっと切実で素朴な疑問を抱いていたのではないかと思うのです。

 

いまその時のことを振り返ってみると、「勉強が何の役にたつのか?」という疑問の根底にあったのは、学校をはじめとする昭和日本的な価値観への不信ではないかと思うのです。

 

どのくらいの年齢からはっきりと認識したかはわかりませんが、子どもとして育つ過程で衰退する企業を守るために会社員をリストラしたり、就職氷河期で大卒でも就職先が見つからない人たちを目の当たりにして来ました。僕の家庭はそうでもなかったですが、残業続きで疲弊するサラリーマンの姿も目立ってきた時代です。

 

そうした中で、子どもながらに『いい学校を出て、いい会社に入ることが人生の成功に繋がる』という昭和的な人生観を信じることはとても出来ませんでした。だからこそ「勉強が何の役に立つのか?」という問いが浮上してきたわけです。結果的に、僕は勉強を比較的しっかりやっていた方だとは思いますが、それは勉強を良しとする学校教育を信じていたからではなく、むしろ生き抜くためにその制度を利用しようという意識が強かったように思います。

 

ものすごく穿った見方をすれば、表向きは教師の言うことを信じているように振る舞いつつ、いかに社会を出し抜くかを虎視眈々と狙っていたと言えます。一応弁解しておくと、「出し抜く」といっても誰かを蹴落としたり、傷つけたりと言った意図は特になく、単純に沈没しつつある船と心中するつもりはないという感覚です。

 

僕の感覚だと、むしろ学校や教師を信じ、ただ我武者羅に勉強をしていた人はその後も苦労していた印象です。これは僕が最も疑問と憤りを抱いていることの一つですが、学校では「勉強が学生の本分だ」と教えられながら、就活になった瞬間に「勉強だけをしていた学生はいらない」と言われる理不尽です。これは今回の本筋とは関係ないですが、まじめにやった人が損をし、場合によっては人格否定のような扱いを受けるという世の中は健全ではないと思います(前述のとおり、割と要領よくやった自分がいうのも卑怯なのかもしれませんが)。

 

このように、昭和的な価値観が崩れ、何を信じればいいのかわからない時代というのがゆとり世代の育ってきた時代なのだと思います。皆が疑問を持たずにシステムを追従できた時代から、信じるものがわからない中で生き抜かなければならないと言う時代への変革期です。そんな時代だからこそ、子どもが「勉強が何の役に立つのか?」という疑問を抱くようになったのではないか?と思うのです。

 

増幅する「双曲割引」

さて、ここまでの話は勉強に対する疑問が出てきた理由について議論してきました。ここからは、その結果勉強をしない子どもが出てきた理由について考えてみます。ポイントになるのは人間の「双曲割引」という特性です。

 

「双曲割引」とは、目の前の利益を過大に見積もるという人間の持つ特性です。実は経済的に考えても、将来の利益に比べて現在の利益の価値が大きいと考えるのは合理的です。しかし、その割引は指数関数的な挙動を示すべきであるのに対し、人間はこの合理的な割引を過度に強化し、双曲関数的な割引で認識してしまうという傾向があります。これが「双曲」割引と呼ばれる理由です(下の図を見ると直感的に理解しやすいと思います)。

 

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この「双曲割引」の特徴は、ストレスが大きい環境下では、それがより一層強化されるということです。これは人類が狩猟生活を営んでいた時代に、とにかく目の前の危機に対応するために人類が発達させた特性の一つなのだと思います(最近しつこく言っていますが、「発達させた」という言葉は正確ではなく、そのような特性を持った人類が生き残ってきたというのが正しい表現です)。外敵を目の前にして食うか食われるかの瀬戸際に立った時、将来のことは一旦棚上げにして目の前の生存に全力を尽くす方が生き残る可能性が高かったのでしょう。

 

ダイエット中に、将来の自分の体を考えると、今はおやつを我慢したほうが合理的なのに、目の前の誘惑に負けてしまった経験は少なからず誰にでもあると思います。そして、ある程度我慢できたとしても、そのストレスが積み重なると我慢できなくなり、どか食いしてしまうというケースも良くある話です。これらは人間のもつ「双曲割引」の典型的な例です。

 

人間の持っているこの特性を考え、僕の至った仮説は以下の通りです。すなわち、何を信じたらいいのかわからないという不安感が「双曲割引」を強化し、学習という成果が出るまでに長い時間がかかる活動を回避するようになったのではないか、というものです。

 

誤解を恐れずに言えば、それまでの「勉強をするのは当たり前」という考えはある種の盲信だったのだと思います。それを疑う必要はなかったし、学習の成果がでるまでの時間を待てるだけの社会的な安心感があったのでしょう(僕自身はその安心感は幻想でしかなかったと思っていますが)。いずれにしても、学校教育では勉強が何の役に立つのかを示すことが出来なかったし、勉強によって将来得られる力を正当に評価できるだけの安心感も提供できなかった。それこそが子どもが勉強から逃避した理由なのではないでしょうか?

 

念のため言っておきますが、だからといって僕は社会や学校制度が愚かであり、自分たちの世代はその被害者だというつもりもありません。なんだかんだ言って戦後復興から続く右肩上がりの成長から、戦争以来の大きな日本の挫折にぶつかったわけで、それに迅速かつ適切に対応できないのはある程度仕方のないことなのだと思います。大事なことは、起こってしまったことを受け入れた上で、これからどう生きるかを考えることでしょう。

 

ここまでの議論が、冒頭に書いた子どもが勉強をしなくなった原因は「学校や日本の昭和的価値観を信じられなくなったため」であるという言葉についての説明です。

 

後半につづく…

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