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【読書コラム】日本の分断 - 共感が促進する分断と同調圧力

こんにちは! 今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は吉川徹さんという方の新書『日本の分断 - 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(光文社新書)。この本の著書は、計量社会学の教授の方で、社会意識や学歴についての研究をなさっている方のようです。

この本を読んで感じたことは、自分の普段の生活の中で、いかに似たような属性の人ばかりと交流をしているかということです。これはまさに、タイトルの「日本の分断」であり、この本を読みながら日常生活を振り返る中で、自らの交友関係の質的狭さを痛感させられました。今回は、多くの人が陥りがちな交友関係のタコツボ化「日本の分断」をいかにして回避していくかについて書いていきたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの論点は、この本でも述べられている「分断の隔絶」をいかに無くしていくか、です。後ほど紹介する通り、この本では学歴や性別といった切り口から日本の社会構造を論じていますが、その間の分断を緩やかなものにしていくために、どうしたら良いのだろうか?という問いについて考えてみました。

今回の記事での結論としては「共感を前提としない交流の場が必要である」ということです。この「共感」という言葉、良くこのブログでも取り上げていることからもわかるとおり、僕個人として現代日本における大きなテーマの一つだと認識しています。コミュニティ論に論になると必ず出てくる「共感」というキーワード、今回はあえてこの「共感」を伴わない場の必要性について書いていきたいと思います。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「日本の分断」

この本は、現代日本の人口を性別(男/女)、 年齢(壮年/若年)、学歴(大卒/非大卒)の切り口から8種類(2 x 2 x 2)に分類し、それぞれの分類の経済状況や生活満足度を考察している本です。筆者が計量社会学の教授の方ということで、単なるイメージ論ではなく、膨大なデータに基づいた分析であるのが特徴です。

実際にデータとその考察を読んでいて印象的だったのは、イメージどおりのところもあれば、イメージとはかなり違った部分も多かったということです。例えば、大卒・非大卒の経済状況の違いは概ね想像どおりだったと思いますが、若年層の生活満足度が一番高いのが大卒女性だった、というのはちょっと意外に感じました。

この本で主にフォーカスされているのは非大卒若年男性です。サブタイトルとなっている「レッグス」はLightly Educated Guysの頭文字をとった(LEGs)造語であり、筆者は、これからの日本を考える上で、LEGsたちのポテンシャルを引き出すことが重要であると主張しています。

データ分析を元に、筆者はこのLEGsは社会構造的に切り離されてしまっている、と警鐘を鳴らします。若年層でも、大卒の男女はこれからの日本経済のけん引役として「攻め」の役割を担っていますし、非大卒の女性は少子化の進む日本で子どもを産み、育てるという「守り」の役割を担っている。しかし、若年非大卒男性は「攻め」にも「守り」にも貢献出来ず、社会から切り離された存在になってしまっていると言うわけです(ご想像の通り、この層の経済状況や生活満足度は8つの分類の中でも最低の状況です)。

それ以外に衝撃を受けたのは、交友関係についての指摘です。
あなたがこの1週間の間に、仕事や私生活で会話を交わしたり、連絡を取ったりした人をすべて思い浮かべてみてください。そのなかに、非大卒層、とりわけ若年非大卒男性はどれくらいいますか?

あなた自身が大卒者である場合、ほとんどいない、という人がけっこういるのではないでしょうか。そもそも、あなたが日頃、職場や家庭などで接しているのは、「8人」のうち自分と隣り合っている、似通った境遇の人たちばかりではありませんか?

これを読んでいるみなさんは、上記の文章を読んでどう考えたでしょうか?僕はこれを読んだ時、自分の交友関係がいかに限られた範囲なのかを思い知らされました。筆者が指摘するように、現在の若年層の大卒:非大卒の割合は概ね50:50にも関わらず、自分の交友関係の中で、この垣根を超えたコミュニケーションがあまりにも少ないと言わざるを得ません。

そう言った気づきが得られたと言う意味で、僕にとっては非常に有意義な本だったと思います。分断の向こう側が理解できていないどころか、そこにある分断にすら気づいていなかったのは、自分の世界の狭さとして内省すべきことでしょう。自分の世界を広げることの難しさを改めて痛感させられます。

相互理解の場としてのコミュニティ

今回のコラムでは学歴自体の話や社会経済論にはあえて踏み込みません。学歴社会についてや、現在の状況を作ってしまった社会について思うところは色々有りますが、今回はそこを論旨とはしないこととします。興味がある分野ではあるので、そのうち別の本のコラムで触れるのではないかとは思います。

今回着目したいのは、個人がいかに他の属性の人たちのことを知らないかということです。もしかしたら非常に幅広い交友関係を持っており、老若男女・大卒/非大卒問わずに知り合いや友だちがいると言う方もおられるかも知れません。しかし、多くの人とって、自分と違う属性の人たちと会話をする機会は多くないと思います。

そんな中、我々はメディアや又聞きした情報によって、別の属性の人たちについて知ったつもりになってしまいます。実際問題として、その人たちが何を感じ、何に困っているのかというところまで考えが及ばず、漫然と自分とは違う人たちというイメージで語ってしまいがちです。実際、僕もこの本を読むまでは、そこに問題が発生しているということにすら殆ど目を向けたことが有りませんでした。

日本の話ではないものの、アメリカにおけるトランプ大統領の当選や、イギリスにおけるEU離脱の国民投票の結果などは、この一例であると言えると思います。既存メディアはもとより、ネットメディアですら、トランプ大統領の当選や英国のEU離脱派が過半数を超えることは予測できていませんでした。それだけ社会の断絶が進み、お互いのことがわかっていないのが現実です。

筆者がこの分断解消の最初の一歩として提唱しているのが「たすきがけ」の相互理解です。やはり、筆者も分断された社会において、互いのことを知らないことが問題であると感じているようです。もちろん、この断絶を緩やかなものにするために、公的な施策を取ることは重要ですが、草の根レベルでできることもあるはずです。

問題は相互に出会う機会が非常に限られていることです。特に地域コミュニティが力を失っている現代においてはそれが顕著です。銀行員と肉屋と大工と役所勤めの人が集まり、一緒に地域活動をしていた一昔前ならいざ知らず、現代のコミュニティは同じ属性の構成員に固定化されがちです。これは、身に覚えのある方も多いのではないでしょうか。

だからこそ、様々な属性の人が集まる交流の場(コミュニティ)が必要なのです。地域コミュニティを失い、狭く閉じた世界に引き篭もりがちな現代人が、集まり・互いのことを話せる場。それこそが、分断されてしまった日本を再接続するために、重要な役割を担うのではないでしょうか。

「共感」と「仮想敵」

ここまでの話は、最近の潮流としてよく聞く話だと思います。「多様性」という言葉はもはや手垢がつきすぎて陳腐化してしまった感は有りますが、それでも重要であることには変わりません。そんな中で今回あえて論じたいのは、コミュニティ論をする際に必ず出てくるキーワード:「共感」と「仮想敵」です。

ここ最近で僕が読んだコミュニティ論関連の本としては「完全教祖マニュアル(架神恭介、辰巳一世、ちくま新書)」、「人生の勝算(前田裕二、NewsPicks Book)」、「WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE.(佐渡島康平、NewsPicks Book)」などが有りますが、いずれもこの二つの要素についての言及が有ります。コミュニティを維持・継続するために「共感」「仮想敵」が必要であるというわけです。

各種の宗教を見てみると、いかにこの二つの要素が人を結び付けているかがわかります。オウムを始めとしたカルト宗教は言うまでもなく、伝統的な既存宗教についても「共感」を集めて「仮想敵」を仕立てあげることで信者たちの結束を作る、と言う構造自体は変わりません。形は様々ですが、「社会からひどい扱いを受けているあなたの気持ちはわかります」と言って、「結束して、こんなおかしい社会を運営している人たちに対抗しましょう」というのが、宗教の基本的な構造です。

また、最近ではマーケティングの分野でも「共感」が一つのキーワードとして挙げられています。例えば、単純に性能の向上を数字で示すのではなく、世の中の人がわかってほしい感情や共感できるストーリーを語って購入を煽るというようなイメージです。「物を売るのではなく、皆が共感できるようなストーリーを売れ」という言葉はこれを端的に表した言葉であると言えるでしょう。確かに、「共感」に人を動かす力があるのは間違いありません。

ユダヤ教は迫害された歴史への共感に基づく繋がりという側面が強いですし、高卒から大卒の人たちをぶち抜いて成功を遂げたサクセスストーリーは、高卒の方の共感を呼び覚ますと言えます。男社会の中で虐げられてきた女性の話に対して、同じ境遇にいる女性が共感を覚えるのは想像に難くありません。こうして考えてみると、ここでいう「共感」とは、同じ価値観・背景をもつ人たちへの帰属意識に他ならない、と言うことがわかります。

たしかに「共感」に基づく繋がりは居心地がよいものですし、時に人に勇気を与えます。そのため、僕はそれ自体を完全に否定する気はありませんし、誰かに共感することで自分を前向きな方向に導けるのであれば、それ以上に素晴らしいことはないと思います。

しかし、僕は共感を前提にした繋がりが社会全体を良い方向に導くとはあまり思えないのです。次章ではそれについて論じていきます。

共感が促進する分断と同調圧力

僕が共感に対してやや懐疑的な見方をしているのは主に、下記の二つの理由からです。

一つ目は、「共感」が同じ価値観でない人を排除する傾向を持つためです。ポイントは、もう一つのキーワードである「仮想敵」。ユダヤ教の結束の背後にあるのは迫害した人たちという「仮想敵」であり、上記の高卒からのサクセスストーリーに共感する人たちが大卒の人を「仮想敵」にしているのは間違いありません。先に述べた女性のストーリーでの「仮想敵」は言うまでもなく男性社会です。

このように「共感」とは「仮想敵」と表裏一体であり、同じ背景の人を肯定するために、違う背景を持つ人を否定することが求められてしまいます。「共感」を前提としたコミュニティでは、自分と同じ背景・価値観を持つ人を内側とし、違うものを持つ人を外側とする…。このような構造が、この本で語られている分断を促進・加速することは言うまでもありません。

二つ目の理由は、同調圧力が発生することが避けられないためです。「共感」を前提とするコミュニティにおいては、内側と外側を分けるが故に、外側に弾き出されないためには「共感」することが要求されます。仲間外れにされないために、時に自分の意思に反したことを言わなければならない…。これは同調圧力に他なりません。

共感が異分子を排除することを求めるが故に、排除されないために集団の価値観に合わさざるを得ない…。これは「共感」で結びついたコミュニティにおける構造的な問題であるため、どうしても避けられない問題です。なぜなら、違う価値観や背景を認めてしまうと、「共感」というコミュニティの前提が失われてしまうためです。

このようなことから示唆されるように、「共感」を前提にした繋がりは必ずしも社会を良くしない、というのが僕の意見です。誰かに対して共感することがプラスの効果を与えることがあるのは否定しませんが、その共感を前提とした繋がりは、社会の分断を促進し、同調圧力が故に息苦しい世の中にしてしまうのです。

だからこそ、僕は分断化された世の中を再接続するために、「共感を前提としない交流の場が必要である」と思うのです。

その人の背景、年齢、性別などによる垣根をなくし、他者に寛容な場所。そこには必ずしも共感はないかもしれないけれど、お互いがお互いを認め合い、理解しようと努力する場所。共感されるかどうかの顔色を見ながら無難なことを言うのではなく、自分の思いや、好きなことを全力で話せる(もちろん、ヘイトにならない範囲で)。逆に、話したくない人に発言を強要することなく、ただその場所にいることを受け入れる場所。

そんな場所が必要なのではないでしょうか。もちろん、それは簡単なことではないと思いますし、理想論と言われればその通りかもしれません。人間は所詮、共感と仮想敵を前提にしか繋がれないという可能性も十分にありえます。しかし、我々が共感の枠の中で安住している時、共感の外で痛みを感じている人や、一人で生きていけないが故に心ならずも共感している振りをしている人がいること、少なくとも僕自身は、それを忘れる事なく生きていたい、そんな風に思うのです。

まとめ

今回は「日本の分断」という本を通して、考えたことを書いてみました。直接の言及はありませんが、今回の話が何を念頭においたものであるかは、わかる人にはわかると思います。

今回書いたことは理想論であり、共感を求める人たちの心を動かすものではないのかも知れません。分断が促進し、安易な感情に訴える言説が飛び交う中では、無力に等しい言葉に過ぎないことも認識しているつもりです。それでも僕は、自分の思いを吐き出し続けたいと思う所存です。

それでは、また!