こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はジャレド・ダイアモンド氏の「銃・病原菌・鉄」。これまで、この読書コラムでは小説のみを対象にしていましたが、色々と考えさせられる本だったため、今回はこの本について書くことに決めました。
おことわり
本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。
1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。
書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。
2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。
本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。
3. ネタバレ
今回はノンフィクションということで、ネタバレはあまり気にならないかなと思います。一応本の核心部分にも触れていますが、本を読んでいなくても楽しめるような作りにしてあるので、あまり気にせずごらんいただければなと思います。ただ、どうしてもネタバレが気になる方は、読むのを控えたほうがいいかもしれません。
前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。
総括
この本を読んで僕が感じたことは、「今を生きるために、歴史を学ぶことが必要だ」ということです。もちろん、学生時代は歴史の授業というものもありましたし、教養として歴史を勉強すべきということは言葉としては理解していました。しかし、この本を読むことで、人生で初めて「歴史を勉強したい!」という切実な感情が芽生えたのです。
今回はそのあたりについて、「人生という名のぶん投げられたプロジェクト」というタイトルで書いていきます。
それでは、 詳しく見ていきたいと思います。
僕の歴史観
まずは、僕自身が歴史というものをどのように認識していたかについてご説明します。
もともと、私は理系だったこともあり、正直言って歴史については殆ど興味がありませんでした。中学くらいまでは、ある程度テストで点が取れる程度には勉強していましたが、高校のころは赤点さえ取らなければいいというぐらいのひどいレベルだったと記憶しています(笑)
改めて振り返ると、歴史に対して遠い昔の出来事であり、自分が生きている世界とは違う異世界の物語かのように見ていたのだと思います。あくまでも、言葉と年代を覚えて、テストで点が取れれば良いと言う認識でしかありませんでした。
はっきり言ってこの認識はこの歳になるまで殆ど変わっておらず、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉も、その言葉としてしか理解していなかったと思います。そんなときにこの本を手に取ったわけです。
「銃・病原菌・鉄」
続いて本の内容です。
本書籍の中心的なテーマは、「なぜユーラシアの民族(特にヨーロッパ民族)がアフリカやオーストラリア、アメリカの原住民を蹂躙し、世界の覇権を握ることができたのか?」ということです。特徴的なこの本のタイトルは、その要因として挙げられている三つの要素です。
細かい議論については是非ご自身で読んでいただきたいのですが、ものすごくざっくり言うと「ユーラシアの東西に長く広がった地形」と「農耕、家畜に適した野生の動植物が沢山あったこと」が決めてであり、「民族としての能力の優劣ではない」と主張しています。
私は専門家ではないので、この内容がどの程度正しいのかは判断がつきかねますが、この結論に至るロジックは非常に興味深く、面白い視点だと思いました。また、「この征服関係は、人種の優劣によるものではないはずだ」という著者の強い信念が文章の節々から伝わってきて、その思いの強さに大きく心動かされました。
歴史と現実のギャップ
さて、このように大変楽しくこの本を読むことができたわけですが、ここで一つのことに気づきます。それは、そもそも「なぜヨーロッパ民族が世界を席捲することができたのか?」という疑問を、僕自身は今まで全く考えたことがなかったことです!
言い換えれば、僕は、あたかも世界は昔から今の形として存在し、それが当然かのように認識していたとも言えます。このことに気付いたのは結構大きな衝撃でした。
この考えが誤りであることは疑問の余地はないでしょう。細かいテクノロジーの話は置いておき、日本だけに限った話をしても、現在の社会システムが構築されたのが戦後と考えると、まだ100年もたっていません。それより前の人々の生活様式は今の世の中とは全く違っていたはずです。当然知識としてはそれを知っていましたが、現実問題として、現代が歴史の延長線上にあるという認識が大きく欠如していたといっていいでしょう。
ぶん投げられたプロジェクト
そのように考えたとき、人生とはぶん投げられたプロジェクトのようだと思いました。もう少し具体的に説明すると、理由や経緯や現状についての説明など全くないままに、ただ世界の真っ只中に放り出される、この構造が「ぶん投げられたプロジェクト」に似ていると感じたわけです。
社会人の方なら経験があるかもしれませんが、会社員をやっていると会社の都合で「突然全然知らなかった進行中のプロジェクトの担当を任される」なんてことがあります。理由は前任者の異動だったり休職だったりするわけですが、往々にしてまともな引継ぎがあるわけでもなく、経緯も現状もわからないまま突然放り出されて、それでも何とか前に進めなければならないという非常に苦しい立場におかれます。そう考えると人生それ自体も「ぶん投げられたプロジェクト」であると言えると思います。
同じプロジェクトでも、はじめから担当をしていれば話は単純です。一から自分が携わっていれば、どのタイミングどのようなことがあったかは大体頭に入っていますし、多少忘れていることがあっても誰に聞けばいいのかは把握できていることが多いです。
これが、途中からの参加となると、途端に話がややこしくなります。そもそも今どのような現状なのかもわからないし、「過去にどのようなやり取りがあったのか?」「どのような経緯があって今の状況になっているのか?」がわからないので、これからに向けた意思決定が出来ない、という状況です。
歴史を学ぶ意味
では、望まずして突如知らないプロジェクトに割り当てられた場合に、これからのことを考え、意思決定をするためにはまず何をすべきか?と考えると、歴史を学ぶ意味が見えてきます。
そのような立場になった時に何をすべきかというと、現状把握と過去の経緯の確認です。言い換えると、そのプロジェクトが「今どうなっているのか?」と「どのような経緯で今の形になっているのか?」を知ることです。それをある程度理解することで初めて未来のことを考え、行動を起こすことが出来ます。
もう少し具体的な話をすると、例えば「今は予定に対して順調なのか?遅れているのか?」という確認をしたり、遅れているのであれば「はじめから少しずつ遅れているのか?それとも、ここ最近で突然遅れが生じたのか?」という経緯を把握する、というケースが考えられます。
「はじめから少しずつ遅れている」のであれば、もともと人員が足りていなかったと考えられるので、「人員の補充」という対策が考えられますし、「ここ最近で突然遅れが生じた」のであれば何かトラブルのようなものが出てきたと考えられるので、まずはそれを特定することが重要になります。
もし、予想外のトラブルが起きているにもかかわらず、それまでの経緯を無視して「現状は予定に対して遅れている」という情報だけに注目してしまうと、人員を補充するという見当違いの意思決定をしてしまいます。この場合、コストは増えるのに遅れが正されない(むしろどんどん傷口が広がっていく)という最悪の事態を招くでしょう。歴史を知ろうとせずして、今を生きようとする僕の態度は、経緯を知らずにその場しのぎの意思決定をしようとしている、と言っても過言ではありません。
僕は、これこそが歴史を学ぶ意味だと思いました。今どのような行動をすべきかを考える上では現状を知ることはもちろん大事ですが、それだけでは十分ではなく、現状に至る経緯を知ることでより適切な行動をすることが出来る、というわけです。
不思議なことに、歴史を自分に対して地続きのものと認識できると、あんなにも退屈だった歴史がものすごく面白いもののように感じます。幸いなことに、現代では書籍やインターネットを使うことでいくらでも学ぶ材料は手に入るので、「今を生きるために」継続して歴史を勉強したいと思いました。
まとめ
今回はジャレド・ダイアモンド氏の「銃・病原菌・鉄」を読んで感じたことを書いてみました。本の内容自体も非常に面白いものでしたが、それ以上に僕自身の歴史に対する認識を改めさせられる、貴重な読書体験になったと思います。
単に教養人ぶったり、穴埋めクイズが得意になるためではなく、あくまでも今の生き方を考えるために歴史を勉強したいと思った次第です。お勧めの本とかあったら教えていただけると嬉しいです。
それでは、また!