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【エッセイ】他人に問う「俺か、俺以外か。」 - 遅いインターネットを読んで

先日、個人的に気になっている批評家・宇野常寛さんの「遅いインターネット」が出版された。今回は、この本を読んで自分なりに考えたことを書いていきたいと思う。

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僕がこの方に注目するようになったきっかけは、このブログでも以前に何度か話題にしたことのある「ゼロ年代の想像力」を読んだことだ。この本は2000年代のサブカル作品を当時の社会現象とシンクロさせながら批評していくという内容であり、僕はこの本に非常に強く引き込まれた。自分が中高生時代に何も考えずに楽しんでいた作品群を、深く掘り下げ、そこから洞察を得るというスタイルが自分とってあまりにも新鮮なものだったからだ。そして何より、本文中に書かれた洞察が僕が持っている「時代の閉塞感」に対する問題意識に極めて近かったこと、それがこの方に興味を持った一番の理由だ。

そんなこともあり、この方の発信はちょくちょくチェックしており、今回発売された「遅いインターネット」もとても楽しみにしていた。そこに書かれていた内容は、早くなりすぎたネット空間のコミュニケーションのあり方に一石を投じるものだ。メディアが投じる話題に対し、深く考えることなく「Yes」か「No」かの大喜利的なコメントをし、「いいね」を稼いで承認欲求を満たす。このようなつまらないコミュニケーションが跋扈するネット空間に対し、宇野さんがアンチテーゼとして提示するのが、この本のタイトル「遅いインターネット」だ。

もちろん、これはあくまでも表層部分でしかなく、この背後にある思想的背景も見応えがあるので気になる人はぜひ読んで欲しい。東京オリンピックから始まり、トランプ政権やBREXIT、ポケモンGOに吉本隆明、さらには糸井重里さんの「ほぼ日」の話題など、幅広い話題から洞察を引き出し、そこから「遅いインターネット」に至る一連の論述は読み応えたっぷりである。

今回は、その内容をもとに自分なりに思うところを書いていきたいと思う。この文章を書くにあたって、いつもの【読書コラム】というスタイルではなく、【エッセイ】という形をとることにしたのはいくつか理由があるけれど、まあそれはどうでもいい。好きに想像してもらうのがいいのだろう。

さて、本題に入ろう。宇野さんが「Yes」か「No」かのコミュニケーションと呼んでいるもの、僕はそれは要するに「味方」か「敵」かのコミュニケーションのあり方なのだと解釈した。誰かが何かを言っているときに、その発言の主は自分にとっての「味方」なのか「敵」なのかという、極めて二元的な切り口で断ずる反応だ。お互いに自分たちが「味方」同士であることを証明するためだけに「いいね」や「リツイート」を送り合い、「敵」を見つければ「正義」の名の下に「クソリプ」という石を投げつける……不毛だ。

ちなみに前者に関しては、僕は全否定するつもりはないし、実際にそういうコミュニケーションをしている時もあると思う。ただ、それだけでは面白く無いなとは感じる。

この「味方」か「敵」かのコミュニケーションのあり方、それは他人に対して「俺達か、俺達以外か」を問うていると言える。

芸能人が薬物中毒で捕まった!
「俺達か、俺達以外か」

ブラック職場に勤める従業員による告発!
「俺達か、俺達以外か」

時の政権のスキャンダル疑惑!
「俺達か、俺達以外か」

ここでポイントになるのは「共感」だ。継続的にこのブログをよく読んでいる人がどのくらいいるのかはわからないけど、そういう方からすると、またその話かと言われそうではある。しかし、まあそういうことだ。自分に共感できるものは「俺達」であり、共感できないものは「俺達以外」という、非常にシンプルな構図…

自分が仕事に対して不満を持っている人であれば、ブラック企業の従業員は「俺達」の側であり、その言葉に共感し、大いに賛同するだろう。薬物の経験がない多くの人にとっては、芸能人の薬物疑惑はあまりにも共感とは遠い存在「俺達以外」であり、格好の生贄になりうるだろう。それが事実であるかどうかはあまり関係がなく、大事なのは「共感」できるかどうかというシンプルな価値基準である。事実はいくらでも捏造できるし、それを正当化する理屈だってちょっと考えれば捻り出すことは難しくない。

まあ、それはある程度仕方のないことなのかもしれない。人間の脳は基本的に曖昧なものを好まず、とかく物事を分類しようとする。脳の基本機能である「わかる」という言葉の語源が「分かつ」であることは有名な話だし、具体的な物事から一定の法則を見出し、抽象化することこそが「知性」だ。そして、脳のこの性質が人類の科学をここまで発展させたことは間違いない。科学とはまさに、個別の事象の中から一定の分類とパターンを探り、その背後にある一般的性質を見つけ出すためのプロセスだ。去年話題になった「FACTFULNESS」で使われていた言葉を借りるなら、「分断本能」や「パターン化本能」と言ってもいい。この本にも書かれている通り、こういった本能は科学的発見には役に立つが、世界の見方を歪めてしまうという側面もある。

現代までの人間の発展は間違いなくこの「知性」によるものであろうし、それによって解決された貧困や悲劇の数は計り知れない。こうした「俺達か、俺達以外か」という世界の認識を批判するのは簡単だが、それが「知性」に基づくものであろうことは見逃すべきではないと思う。解剖学者・養老孟司氏が「唯脳論」が述べている通り、現代とは「脳化」の時代なのである。「脳」の機能は身体を支配・管理することであり、その「脳」によって作られたシステムもまた、支配・管理の性質を持つ。だからこそ社会は多様性を認めず、「普通か、普通以外か」で物事を片付ける。その成れの果てが「俺達か、俺達以外か」のコミュニケーションだ。

しかし、なぜ今、これほどまでにしょうもないコミュニケーションが増えてしまったのか。それはやはりコミュニケーションラインの複雑性の問題だろう。おそらく、ここ10年を見ただけでも、一人の人間がなんらかの形でコミュニケーションをする人数は圧倒的に増えているはずだ。それは主にSNSを含めたテクノロジーの発達によるところだとは思うが、あまりにもコミュニケーションチャンネルが増えすぎたために、脳が画面の向こうを想像しながら処理できる限界を超えてしまった、そんなところではないだろうか。だからこそ、他人を判断するために「俺達か、俺達以外か」というフィルタを使う。あえて言うならば、増えすぎた他人を、限られた脳のリソースで処理するために編み出した工夫というわけだ。

脳にはデフォルト・モード・ネットワークという回路があるらしく、それは人間が何も考えていない時に働く回路だと言う。そしてその回路は社交に関する脳の機能に関係しているようだ。これは僕の解釈だが、古代の人類は衣食住などの個人の生命維持についての活動に今よりずっと長い時間をかけており、このような回路を実装することで、個人の生命の安全を確保しつつ、残った時間で社交(分業と交換)を行うというバランスが保たれていたのではないだろうか。

ところが、知っての通り、今の人間が衣食住にかける時間は古代とは比較にならないほど短い。その結果、残った時間を社交に費やすであろうことは想像に難くない。やることを失った脳は社交を求める。その欲望がテクノロジーを生み出す。テクノロジーによってより幅広い社交が可能になる。しかし、その広さが脳の限界を超えた時、人は他人を分類するフィルタを創造する。「俺達か、俺達以外か」と…

そもそもテクノロジー、とりわけITは脳的な性格持っている。シリコン基板という最低限のハードウェア(マテリアル)のみを有し、それを駆動するソフトウェア(プログラム)は100%合理的であり、その内部の計算結果は決定論的に与えられる(実際はハードウェア部分におけるエラーもゼロではないが)。自然言語における抽象化というのはプログラムでいうところのサブルーチン化・ブラックボックス化であり、あらゆるプログラムは、このようなブラックボックス(サブルーチン)を階層的に積み重ねたものである。

プログラミングにおいてオブジェクト指向言語がもてはやされる理由もまさにここにある。太郎くんとマリアさんとロバートくんは物理レベルでは全く別の存在なのであるが、人間の脳は違うものであるとは認識しない。「人間」という存在をなにがしかのパラメータとアルゴリズムの集積とみなし、太郎くんとマリアさんとロバートくんを同じ「人間」というオブジェクトに押し込める。人間の脳は極めてオブジェクト指向なのだ(もちろん、それが良いか悪いかという話ではない)。

話を戻そう。要するに、言いたいのは「俺達か、俺達以外か」というコミュニケーションは、社会の「脳化」の帰結であると言えるのではないか、ということだ。同一でない現象を同一の現象として扱う(これは所謂モデル化であり、抽象化の一種だ)以上、他人にそれを適用しない理由はない。ある意味で、あらゆる「差別」とはここに根源があるような気もしてくる。「俺達か、俺達以外か」。

そう考えると、宇野さんが「ランニング」という極めて身体的な活動の中で「遅いインターネット」を着想したのは偶然ではないように思う。ここでまた養老氏の説を援用すると、主に構造・秩序を司る脳に対し、身体が司るのは聴覚系であり、時間であり、リズムであると言える。そう、だからこそ「ランニング」と「遅い」インターネットは密接に関わっているのだ。脳に導かれる瞬間的な「速い」インターネットではなく、身体のリズムに基づく「遅い」インターネットが必要だというわけだ。

「分断」することが脳による身体の支配とするならば、「遅いインターネット」という活動は身体のリズムによる脳のハックだ。脳の欲求に導かれ、支配されるがままに身体を反射的な行動に委ねるのではなく、身体によって脳へのインプット・脳からのアウトプットを制御することで一旦立ち止まって考える時間を作る。

もちろん、厳密な話をすれば、おそらく身心は二元論的に扱うことのできるものではない(この二元論もまた脳の機能なのだろう)。いわゆる「デカルトの誤り」だ。精神と身体は切り離せるようなものではない。だから、ここの議論をもう少しきちんというならば、脳に委ねすぎていた判断を身体側に引き戻す、という方が正しいのかもしれない。

いずれにせよ、重要なことは身体性だ。物事を分断し、パターン化し、秩序を作ろうとする脳の誘惑に抗い、身体性が導くカオスを受け入れる。一度カオスに身を投じることで世界を広げ、その世界で新たな秩序を見出す。このカオスと秩序の絶え間ない連鎖によって世界を広げ、新たな驚きと、創造と、ユーモアを生み出していく。この営みの中で、カオスを受け入れるために必要なのが「遅いインターネット」である、というのが僕なりの解釈だ。

これが宇野さんの想定しているものと同じかどうかはわからないし、必ずしも全く同じである必要もないと思う。いつも言っていることだが、大事なのはその本に何が書いているかではなく、その本を読んで自分が何を考え、どう行動するのかだ。いずれにせよ、僕は「走り続け」ながら考え、それができるための「足腰を鍛える」必要がある、という主張には大いに賛成するし、それを実践していきたいとは思う。



一方で、身体性に導かれる行動にも危うさがあるのは間違いないだろう。ウィリアム・ゴールディングの「蝿の王」を引き合いに出すまでもなく、身体ー聴覚系は一定の条件のもとで正常な理性を麻痺させる。以前にも話題に出したかもしれないが、音楽と踊りという身体-聴覚系の現場である「クラブ」という空間が、薬物売買などの反社会的行動の温床となっているのは偶然ではないだろう(最近はそうではないのかも知れないし、そのようなクラブが極一部であろうことは補足しておく)。

この身体性に導かれて起こる不適切な行動をどう防げばいいのだろうか?

もちろん、他人の目を気にしすぎて何もできなくなるのは本末転倒だが、だからといって何をしてもいいというわけではないのは明らかだ。他人に全く影響を与えない行為なんてありえないし、かといってヘイトスピーチが許されるとも思わない。だからこそ、そこで必要になってくるもの、それが「美学」ではないだろうか。

「美学」という言葉を聞いてブラウザバックをしようとした方もいるかも知れないが、ちょっと待ってほしい(笑)。ここまで長々とお付き合いいただいただけでもありがたいところだが、もう少しで終わるので我慢していただければ幸いである。

確かにここまで考えた上での結論が「美学」とはあまりにチープに思えるかも知れない。そんなものは個人の感性の問題ではないかと言われれば、ぐうの音も出ないほどの正論だし、普遍性も何もあったものではないという指摘もその通りなのだろう。しかし、これはもうどうしようもない。人間とは、かくもチープなものなのだ。

どこまで考えたところで全ての人に受け入れられるような「普遍的に」正しい言葉を見つけることはできないし、そのような言葉はむしろなんの面白みもないだろう。そもそも、この「普遍」なるものを求める誘惑は、ここまでに散々議論してきた「脳化」への誘惑に他ならない。だからこそ、ある程度の「普遍」を諦め、己の信じる美学をいかに保ちうるかが大事だと思うのである。

ごちゃごちゃと書き連ねたが、要するにここまでの議論で言いたかったのは「脳化」への抵抗と、「美学」による身体性暴走の抑止が重要だということだ。

しかし、この「美学」にも当然落とし穴がある。それは己の「美学」を一般化し、それを他人に強要しようとする欲求だ。

人間の脳は不安定な状況を嫌い、とにかく何事に秩序を見出そうとする。美学を追求しているつもりが、いつのまにかそれを普遍的な原理・法則のように見做すようになり、おしつけがましいカルト的な信仰になったり、同調圧力を生んでしまうと言ったケースは珍しくない。誰かが良かれと思ってやった行為が叙々に「とんでもマナー」としての地位を確立し、全員がそれに従うような圧力が生まれたり(そもそもマナーとはそういう側面が強い)、特定の状況に対処するために作られたルールが叙々に形骸化し、「ルールのためのルール」として残るということは往々にして起こることだ。

最近読んだチャック・パラニュークの「ファイト・クラブ」という小説で、ひとつ印象的なシーンがあった。それは、主人公が自らが設立したはずの「ファイト・クラブ」の組織から追放されるというシーンだ。これもまた、秩序による圧力の一形態であると言えよう(そもそも、この小説を読んだことが今回のエッセイの着想の一つだ)。この小説における「ファイト・クラブ」というカルト的集団の起源が、喧嘩という極端に身体性に寄った活動であったのは明らかに偶然ではない。既存の秩序(脳)への破壊願望が身体性側から発露し「ファイト・クラブ」として結実するが、脳の機能によってそれ自体が飲み込まれてしまう、というのがこの小説の構造だと思う(この辺りは、おいおいしっかり考察していきたい)。

話を戻そう。問題は、人間が軽々と「俺の美学」を「俺達の美学」に跳躍させてしまうということにある。これは人間の脳の特性である以上、ある程度は仕方ないのかも知れない。しかし、僕は抗いたい。自分の持っている「美学」や「問題意識」に近いものを持っている人が自発的に集まり、同じ目標に向かって一緒に何かを成し遂げられるならこんなに嬉しいことはないし、そこから学べることも多いだろう。しかし、他人の同調を得ること自体が目標になったり、秩序を維持すること自体が目的になった時点でそれは腐敗の一途をたどるだろうことは目に見えている。それはなんとしても避けたい。ともだちは「愛と勇気だけ」で十分だ。

秩序を求めて瞬間的に処理しようとする脳に対し、己の肉体のリズムによってそれを制御する。知性により秩序をうみだし、身体性によってそれを破壊し、そこからまた新たな秩序を見出す。秩序の破壊に伴う暴力性を出来る限り排除し、その「秩序」と「破壊」の連鎖自体を楽しみ、そこから生まれる創造性に期待したい。

だから僕が他人に問うべきは「俺達か、俺達以外か」ではない。味方か敵かをはっきりさせて、それによって「いいね」を得て、快楽に身を委ねるようなコミュニケーション形態だけに甘んじることでは決してない。

本当に問うべきは、その他人が「俺か、俺以外か」だ。

答えは「俺以外」に決まっている。大事なことは、この問いをすることによって、他人に対して「俺」と同じものを求めることの不毛さに気づくことにある。言い換えれば、「俺の」美学を「俺達の」美学に普遍化しようとする試みの無意味さの自覚だ。当たり前の話だが、「俺」と全く同じ考えの人間は「俺」しかいない(個体としての「俺」が時間の経過の中でどの程度の同一性を持つのかという話もあるが、それはここでは置いておく)。

もしかしたら、この文章の序盤を読んだ段階で、僕がローランド氏の書籍「俺か、俺以外か。」を否定的にとらえ、揶揄しているかのように感じた人もいるかも知れない。ここまできちんと読んでいただければわかるとおり、断じてそうではない。

確かに、あの本を読む限り氏の美学は僕の美学と恐らく一致しないし、むしろ真逆とさえ言えるのかも知れない。しかし、僕の「遅いインターネット」の解釈が宇野さんの意図したものと全く同じである必要がないのと同様に、ローランド氏の美学が僕の美学と一致している必要も全くない。実際にその書籍の中で彼はこう述べている。

だけど、みんながみんなローランドじゃない。
なりたくてもなれない人もいるし、そもそもなりたくない人もいる。
自分のペースで、のんびりと歩んでいくことを望む人もいる。
そんな簡単なことに、気づいていなかった。


僕は、この気づきが彼の「俺か、俺以外か。」という言葉の根底にあるのだと思った。自分の「美学」には妥協しない。しかし、それを他人に強要するようなことは決してしない。その決意が「俺か、俺以外か。」なのであると。

だから、他人の意見を見るにつけ、問いたいと思う。「俺か、俺以外か。」と…

答えは決まっている。