たった一つの冴えた生き様

The Only Neat Way to Live - Book reading, Fitness

【読書コラム】一億総ツッコミ時代- 僕が「読書コラム」を書く理由

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は芸人のマキタスポーツさんによって書かれた『一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)。この本では、マキタスポーツさんがボケ・ツッコミという芸人らしい視点から現代日本に漂う閉塞感を考察し、その打開策を提案する本です。ユニークな視点ながらなかなか鋭いと思える主張が多く、僕の中での問題意識と合わせて、なかなか考えさせられる本でした。今回はこの本についてのコラムを書いていきたいと思います。

今回は特にネタバレを気にする必要はないと思います。

f:id:KinjiKamizaki:20190609121759j:plain

 

 

おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います、

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のコラムのテーマは「僕が『読書コラム』を書く理由」となっています。もう少し具体的にいうと、読書系のブログ等でよく使われる「書評」という表現を使わずに、「読書コラム」というまどろっこしい言葉を使っているのはなぜなのか?という点についての内容です。

 

その理由を端的にいうと、「自分の価値観やその変遷を吐露することが目的だから」です。もう少し突っ込んだ話をすると、目的という表現は正しくなく、「本を読み、考え、コラムを書くという一連のプロセスで自分が変わっていく感覚が面白く、そのプロセスで生み出されるのがこのコラムである」ということです。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

本の内容

この本で議論されている内容は、現代日本に漂う閉塞感の源泉を「ツッコミ」偏重の流れに求めるというものです。大衆がプチマスコミ化し、ツッコミという他罰的なコミュニケーションを行うことで、お互いに抑圧しあうという構造を生み出しているのではないかという主張です。

 

「ツッコミ高ボケ低」という印象的な言葉を使いながら、お笑いの上澄みだけを利用した他罰的なツッコミが蔓延る現代日本に苦言を呈しています。僕はどちらかというとツッコミの立場に回るケースが多いので、耳が痛い限りです(人を傷つけたり、萎縮させるようなツッコミは避けているつもりではありますが)。

 

そして、そんなツッコミ偏重の根底にあるのがメタ的な視点だと指摘します。自分を客観視して、自分に求められている役割を考えることに疲弊しているという考察や、評論家的な第三者の視点から物事を判断することに対して抱く違和感が書かれています。

 

その上でこの方が提案しているのがメタ思考からベタ思考への変革です。物事をメタ的に考えるのではなく、自分の感情に素直になって、やりたいことに夢中になることを推奨しています。そのためには、ベタな行動(同窓会を楽しんだり、季節のイベントに参加したり、恋愛話で盛り上がったり)がヒントになるのではないかというのが、メタ思考からベタ思考への変革という言葉の意味です。

 

評価するということ

メタ思考・ベタ思考については少し考え方の違いを感じたものの、日本の閉塞感というのは僕の中で一つの問題意識として持っていたこともあり、色々と考えさせられる本でした。村田沙耶香さんの「コンビニ人間」が好きな方なら、この本を読んで思うところはあると思います。

 

そんななか、僕の中で一番印象的だったフレーズは以下です。

 

『ある映画を観たとしたら、「おもしろかった/おもしろくなかった」という感想ではなく、映画の「良し悪し」を語り出す。自らの「見解」を語り出すわけです。』(68ページ)

 

ここで指摘しているのは、現代日本人が「好き嫌い」ではなく、「良い悪い」で物事を見ようとする視点についてです。これは僕が数多の「書評ブログ」に抱く違和感に非常に近いです。もっと端的に言ってしまうと、僕が「書評」をしない理由がまさにここにあると言っても過言ではありません。僕は物事の「良し悪し」を判断する評論家になるつもりは無いのです。

 

書評に限らず、評価するとは「良い悪い」の判断を下すことです。そして「良い悪い」を判断するには、必然的に特定の価値観に従属することを意味します。評価の枠組みに入る必要があると言い換えてもいいでしょう。つまり、何が良い、何が悪いという合意がなければ評価をすることは出来ません。だからこそ、評価において主観が入ることは望ましくなく、ある一定の価値観から物事を見ることが求められるのです。

 

そのため評価者は、どういった価値観から評価対象を見ているのかをはっきりさせなければなりません。上司が部下を評価する時、単純に気に食わないからという理由で低い評価を下すのは正当ではありません。「計画的に物事を進める力」、「社内で円滑なコミュニケーションを取る力」「新しい提案をする力」など、その部下に求める価値観を元に評価がなされるのが普通です。このことからもわかるように、本質的に評価とは価値観とセットで考えるべきものなのです。

 

僕が書評をやらない理由はまさにこれです。どこかから借りてきた価値観を振りかざして、評価を下すことにはあまり興味を感じませんし、自分が「良い悪い」を判断できるとも思いません。むしろ自分の個人的な価値観や思考について書く方に面白さを感じるのです。

 

もちろん、評論を仕事としている人はいますし、評論家自体を否定するつもりは全くありません。読み応えがある評論を書く方もいますし、そういう本を読むのは面白いと感じることも多々あります。何を面白いかと感じるかは人それぞれなので、評論をすることに魅力を感じる人もいれば、僕のようにそうでない人もいるというだけの話です。

 

書評の皮をかぶった読書感想文

僕が絶対に避けたいと思うのは、「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替えることです。ちょっと意地悪な言い方をするならば「書評の皮をかぶった読書感想文」を書くことと言えるかもしれません。客観的な視点という逃げ道・言い訳を作った上で、自分の好き嫌いで物を判断するという欺瞞です。おそらく、上記で引用した部分でマキタスポーツさんが主張したかったのはこのことでしょう。

 

「好き嫌い」と「良い悪い」をごっちゃにする思考の根底にあるのは、他者への想像力の欠如・視野狭窄によるものだと思います。自分の個人的な価値観である「好き嫌い」を安易に普遍的な「良い悪い」にすり替えてしまうのは、他者とは自分とは違う価値観を持った存在であり、自分の価値観はあくまでも個人的なものに過ぎないという認識が弱いためであるというのが僕の考えです。

 

本論から外れるのであまり突っ込んだ話はしませんが、「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替える怖さは、「嫌い」なものを排除することを正当化してしまうことにあります。「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替えることが定着された結果、自分が「好き」なものは「良い」物なので保護されるべきだし、自分が「嫌い」なものは「悪い」ものなので弾圧されてしかるべきである、という排他的な結論に帰結するのは時間の問題です。

 

やや話が逸れましたが、僕がここで言いたいのは、評価とは多様な価値観の存在を認識しているというのが前提だということです。「色々な見方があることは理解しているけど、自分はこの価値観が重要だと思うからこの価値観から評価する」というのが評論家に求められる態度だと思います。つまり、評論家は自分の価値観をメタ的に見る必要があり、だからこそ、ものを評価するにはたくさんの知識が要求されるのです。

 

また、ここまで「良い悪い」と「好き嫌い」をごっちゃにすることの問題を指摘してきたわけですが、人間はそもそも「良い悪い」と「好き嫌い」をごっちゃにしがちな特性があります。

 

行動経済学でノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマン教授の著書「ファスト&スロー」(ハヤカワノンフィクション文庫)によると、人間の価値判断には感情ヒューリスティックという誤謬があり、好きなもののメリットを過大評価し、逆もまた然りだということが分かっています。

 

この特性は、自身や周囲の人たちの行動特性を見る中でなんとなく実感している方も多いと思います。どんなに客観的に物事を見ようと思っても、どうしても主観が混じってしまうというのが人間なのです。

 

これらのことを考えるとわかるのは、書評とはそれだけ難しいことだということです。書評とは、時間的にも空間的にも大きく離れた自分以外の価値観を広く学び、感情によるバイアスを極力排除しようという努力の末に初めて可能となるものなのです。

 

マキタスポーツさんはこの本の中で、安易にツッコミを他罰的コミュニケーションの手段として利用する大衆に対して、下記のようなことを書いています。

 

『お笑いの上澄みだけをすくい、人を罰するための道具としてツッコミを使ってしまっている人も少なくありません。しかし、芸人の私からすると、「あなたが持っている剣は、あなたが思っている以上に重いよ」と思うわけです。「ヨロヨロしてるぞ、危ないから振り回すなよ」と』(36ページ)

 

僕はこれは書評を始めたとしてあらゆる評価にも言えることだと思うのです。書評と題して他人の創造物を断ずるつもりならば、そのなりの覚悟が必要なのではないでしょうか。マキタスポーツさんが「メタ思考」と呼んで批判する態度とは、無責任に「好き嫌い」を「良い悪い」にすり替えて批評することではないかと思います。

 

読書コラムという言葉の意味

ここまで散々書評について書いたわけですが、書評が悪いと言うつもりは全く無いですし、逆に個人的な感想や意見・価値観を書くことが悪いとも思いません(というより、ここまでの議論を読めばわかる通り、僕はそもそも良し悪しを判断するつもりはありません)。

 

前章で、「書評の皮をかぶった読書感想文」というテーマを扱ったので、もしかしたら読書感想文が悪いかのような印象を与えたかもしれません。しかし、もちろんそんなことはありません。この言葉の背後にある主張の本質は、感想を言いたいなら、素直に読書感想文と言えばいいということです。おそらくこれがマキタスポーツ氏が「ベタ思考」と読んでいるのものなのだと思います。変に第三者視点から語る風を装うのではなく、「自分はこう思う」と第一人称で語ればいいわけです。

 

これが、僕が使っている「読書コラム」という言葉に繋がります。

 

僕がこのブログで書きたいのは、自分の価値観であり、感情であり、本を読むことをきっかけに思考し、変遷していく価値観の軌跡です。本を読んで、自分の価値基準の中にある矛盾を炙り出されたり、自分には全くなかった価値観でぶん殴られる感覚を覚えた時こそ、その思考・思索・探求をブログを書きたくなります。

 

ここまで延々と書いた通り、本を紹介することや、一定の価値観から何か良し悪しを判断することがしたいわけではないのです。僕はそもそも価値観を普遍的なものとして位置付けるつもりはなく、その変化を書きたいわけなので、価値観の固定を前提とする「評価」という行為は本質的に馴染みません。

 

それがいつもコラムの冒頭に、言い訳がましく書いているおことわりの意味するところです。自分にとって何が好ましいと感じ、何を嫌い、本から得た知識から何を感じ、何を考えたか?それを吐き出す事がこのブログを書いている理由なのです。

 

僕にとっての読書の面白さ

さて、ここでもう少し思索をすすめ、僕の中での読書と、読書活動におけるこのコラムの位置づけについて見ていきたいと思います。これまでの説明だと、書評をしない理由は明確ですが、読書コラムを書く積極的な理由については明確ではありません。せいぜい、ただ書きたいから書いているという答えになっていないレベルの言及しかしていません(笑)

 

読書の面白さを明確に言語化することは難しいですが、あえてここでそれを試みてみたいと思います。はじめに断っておきますが、ここでいう面白さとはあくまでも「自分にとっての」面白さであり、それを一般化するつもりはないという前提を了解していただきたいです。本の楽しみ方は読者の数だけあると思うので、自分以外の楽しみ方を否定するつもりは全くありません。そのことを踏まえた上で考えていきます。

 

最近、ベストセラーになった本の影響もあり、読書の界隈でインプット・アウトプットという言葉が流行っています。本という観点で見ると、インプットが読書、アウトプットが話したり書いたりすることであり、僕の場合は読書会での会話や今回のようなコラム等がこのアウトプットに相当するのだと思います。

(いちいちインプット・アウトプットと書くのが面倒なので、以後は、読書をし、考え、コラムを書くという一連のプロセスを「読書活動」という言葉でまとめます)

 

自分が何のために読書活動を行っているかを考えたとき、インプットとアウトプットのどちらが目的なのか?と聞かれると、答えるのが難しいです。一見すると、アウトプットを出すためにインプットをしているようにも思えますが、コラムや読書会を目的に本を読んでいるわけではないのは自信を持って言えます。また、逆に本を読むために読書会に参加したり、コラムを書いているというのもまた違います。どちらも楽しいというのは簡単ですが、それもなんだかあまり的を射ていないように感じます。

 

そう考えた時思い至ったのは、僕が一連の読書活動をする理由は、インプットやアウトプットを通して自分が変わっていくことではないかと言うことです。その自分が変わっていく感覚が面白いからこそ、読書活動をしているのだと言えます。

 

つまり、このコラムというアウトプット自体が目的ではなく、インプットからアウトプットを生み出し、自分を変化させていくプロセスこそが面白いのです。活動の主体はインプットたる「読書」にも、アウトプットたる「コラム」にもなく、あくまでも変化していく自分自身だということです。

 

それが僕にとってのコラムの位置付けなので、「コラムを書く目的」というと少し語弊があります。読書もコラムも目的というより手段なのです。自分が面白いと思うこのプロセスの副産物として生み出されるのがこのコラムなのだと言えるでしょう。

 

これが冒頭の「本を読み、考え、コラムを書くという一連のプロセスで自分が変わっていく感覚が面白く、そのプロセスで生み出されるのがこのコラムである」という言葉の意味です。

 

最後に、この本に書いているメタ思考・ベタ思考と、僕の行動の関係について書いてこの記事を締めたいと思います。

 

僕のコラムを読んでいる方は特に理解しやすいかもしれませんが、このコラムを書くという行動は非常にメタ的です。どんな価値観が本から投げ込まれ、なぜ自分の感情が揺さぶられたのか?自らの価値観の構造を捉え、思考によって価値観を再構築する。これらの活動は自分の感情や価値観を第三者的に分析・思考するわけなので、メタ的な活動と言えるでしょう。

 

これは一見、マキタスポーツ氏の主張とは反するように見えます。氏が提唱するのは、自分の感情に素直になれということです。客観的に自分を見るのではなく、悲しい話を見て素直に泣き、楽しいことに熱中することの重要性を説いているわけです。それを「メタ思考」から「ベタ思考」と呼んでいるわけなので、上記のような「メタ」的な活動とは相容れないようにも見えます。

 

しかし、思い出して欲しいのは、なぜ僕が読書活動をしているのかということです。それは先にも書いた通り、その過程で自分の思考や価値観が変わっていくのが素直に面白いからです。そういう意味では僕はどこまでも自分の感情に素直に生きているとも言えます。このような行動こそまさに、僕にとっての「ベタ」なわけです。

 

要するに、僕にとっての「ベタ」は限りないメタ思考の果てにあるわけなので、必ずしもマキタスポーツ氏の主張とは競合しないと思うわけです。まあ、僕は僕で好きなことをしているだけなので、彼の主張と競合していたとして特別困る訳ではないですけどね。

 

まとめ

今回は「一億総ツッコミ時代」という本を読んで考えたことを書いてみました。当初は「書評」をしない理由くらいまでのところで終わる予定でしたが、考えを進めていった結果、思った以上にスケールが大きくなってしまいました(笑)

 

読書の楽しみ方については、これからも色々な本を読む中で変わってくると思いますし、今回書いたことで全て語り尽くせたとも思いません。本を読みながら、自分にとっての読書の位置付けにも考えを巡らしていきたいところですね。

 

それでは、また!