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【読書コラム】ザ・サークル - SNSは何をしたのか?

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はアメリカ作家デイヴ・エガース氏の小説「ザ・サークル」(早川書房)。エマ・ワトソン主演で映画化したことからも有名な小説で、非常に明確な形で現代のSNSを風刺した小説となっています。もはや日常と切り離せなくなりつつあるSNSですが、その付き合い方を考えさせられる小説であり、今回はSNSをメインテーマとしてコラムを書いていきたいと思います。

 

今回は物語の具体的な人物の行動についての言及は少なく、結末についても明確にはしないので、特にネタバレは気にしなくても大丈夫だと思います。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

冒頭に書いた通り、今回はネタバレについてはあまりナーバスになる必要はないと思います。どうしても気になる方は読むのを控えていただくのがいいかと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のサブタイトルは「SNSは何をしたか?」です。冒頭に書いた通り、SNSはもはや私たちの生活とは切っても切れないものになりつつあります。今回は、そんなSNSが我々の生活や人間関係をどのように変えたのか?という側面から考えてみたいと思います。

 

その結論を一言で言うと「価値間の壁の破壊」です。物理的な制約や、コミュニケーションチャンネルの問題で、それまで互いに知ることのなかった多様な価値観を白日のもとに晒したことが最も大きな変化なのだと思いました。そして、それこそが今我々が直面している生きづらさの理由の一つではないかと考えます。

それでは、詳細を見てきましょう。

 

本の内容

主人公は若き女性・メイ。友人であるアニーの紹介で巨大IT企業「サークル」に入社するところから物語は始まります。ソーシャルメディアへの積極的な参加が評価される職場であり、初めはメイもその企業文化に戸惑いましたが、徐々に「サークル」内に溶け込んでいきます。

 

創造性溢れる同僚たちとのイベントや、細部まで行き届いた福利厚生を有するユートピア的な職場として描かれつつも、少しづつその歪みが露呈していくという小説です。

 

特に大きなテーマとなっているのが、情報のオープン化についてです。起こったことは全て周知されるべきという理念のもと、情報のオープン化が急速に推し進められます。政治家が情報を完全にオープンにすることで信頼を得るなど理解できる面もありますが、社会福祉や弱者救済という正義のもとに行われる情報公開への圧力に、少しの気持ち悪さも感じます。

 

キャラクターたちが主張している内容には理解できるし、清く正しい活動であるとも思いますが、なんとなく気持ち悪い。我々がSNSに感じる面白さと気持ち悪さをうまく描き出している小説だと思います。

 

SNS利用の問題点

やや批判的に語られることも多いですが、SNSには良い部分もたくさんあることはいうまでもありません。実際、現代人で全くSNSに触れていないという人はなかなかいないと思いますし、僕自身も使っていて便利・面白いと思うことが多々あります。情報を共有することで豊かな人生を送れるという側面は全く否定できないでしょう。それを過小評価するつもりはありません。

 

その断りを入れたうえで、SNSの問題点について考えてみたいと思います。僕がSNSにおいて最も問題だと思うことが、炎上という名のリンチです。SNSにおける炎上について今更詳しく説明する必要はないでしょう。もちろん、炎上してしまう側に問題がある場合も多いですが、時に自殺に追い込むほどのリンチを行うことが真に正しい行為だとは思えません。

 

また、逆に周りに気を遣いすぎて何も発言できないと言った話もよく聞きます。プライベートな行動や意見を公開して、何か間違えたことを言ってしまうのではないかという不安や、それこそ炎上してしまったらどうしようという感情です。実際に個人のアカウントの発言を逐一確認されることは多くないと思いますし、自分が思っているほど他人は気にしていないというケースも多いと思いますが、どうしても気を遣ったりリアクションを過度に気にしてしまう、というのもまたSNSにおける問題点であると言えるでしょう。

 

こう言ったこともあり、全ての情報をオープン化しようというサークルの理想に対して、我々は首を傾げてしまうのだと思います。お互いにオープンにするからこそ後ろめたいことはしないし、良いことを共有することで新しいものが生み出せるという理想に理解を示す人は少なくないと思いますが、私生活の全てをSNSで共有したいという人は多くないはずです。

 

プライバシーという言葉に現れるように、我々にはどうしてもオープンにしたくない情報もあるわけです。

 

プライバシーという生存戦略

そもそも、なぜわれわれはプライバシーに拘るのでしょうか?

 

もちろんセキュリティ上の理由はあります。当たり前ですが、クレジットカードの番号を教える時には慎重になる必要がありますし、自分に危害を与える相手から隠れるために住所や職場を隠すというのはわかりやすい例です。

 

しかし、セキリティ上の問題はなくても、なんとなく恥ずかしいからその情報をあまり外に出したくない、ということも多いと思います。明確な理由があるわけではないですが、恥じらいから自分の趣味や嗜好・意見をさらけ出すことに抵抗を感じる方も多いでしょう。

 

プライバシーに拘る理由は「恥ずかしい」から、とまとめるのは簡単です。しかし、当然ですがこれは本質的な答えになっていません。そもそも、なぜ「恥ずかしい」という感情があるのかを考える必要があります。

 

それでは、我々が外に出すのは「恥ずかしい」と感じる情報とは具体的にどのようなものでしょうか?

 

ぱっと思いつくのが、自分の失敗や悪いことをしてしまったという汚点、また他人とは共有できないであろう趣味などです。オタク趣味がカミングアウトしやすくなったのは、汚点であるという意識が少なくなってきたことと、そこまで特殊な趣味ではないという認識が広がったためでしょう。

 

また、逆に自分が他人と比べてはるかに優秀な部分というのはカミングアウトしにくいものです。みんなが難しいというけど、自分にとってはそこまで難しいと感じないこともあると思います。しかし、たとえそう感じたとしても、自分にとっては簡単だと正直にいうことは難しいでしょう。テストですごく点数の良かった人が、なんとなくその点数を隠してしまうなどの例などはイメージしやすいと思います。

 

これらを元に、「恥」という感情の機能を考えるため、もし恥がなかったらどうなるかを考えてみましょう。自分の失敗や異質な趣味、汚点を恥ずかしげもなくみんなの前で話したら、どういったことがおこるでしょうか?

 

おそらく答えは単純で、推定される結果は集団から排除です。もちろん、そこまであからさまな反応だとは限りませんが、集団の人たちが少しづつその人から離れていくことは容易に想像できます。これは、ある人が集団の中で飛び抜けて優秀な場合も同じです。あまりに優秀な人は集団のメンバーにとって脅威になるため、排除される可能性が高いでしょう。良くも悪くも集団から逸脱したものをリンチするという行為は、人間の歴史の中で繰り返されてきたことです。

 

ものが溢れ、安全もかなりの部分確保された現代においては、集団からの排除は必ずしもそこまで重要ではありません。しかし、明日の食料が得られるかどうかわからない極限状態においては、集団からの排除は死に直結します。

 

危険な動物や敵対する人間が跋扈する森や草原で一人で暮らすことはできませんし、原始的な狩猟・農耕文化においては一人では食料にも有りつけません。つまり、当時にしてみれば、村八分にされることは今とは比べ物にならないくらい大きな脅威だったのだと想像できます。それを避けるために「恥」という感情を生み出したのではないか?というのが僕の考えです。

 

(『「恥」という感情を生み出した』という表現は正確ではなく、「恥」の感情をもつ人たちが生き残ってきたという方が多分正しいです。)

 

人間は現代に至るまで、集団内の基準でそこそこの能力を持ち、集団内で善とされている行為から逸脱しないように生きることが求められました。僕が主張しているのは、そこからの逸脱を表明しないためのインセンティブとして「恥」がある、という解釈です。

 

「恥ずかしいから」という理由で男の子の人形遊びを諭す親の行動の根底にあるのは、子どもが集団から孤立しないようにするという、親としての愛情であるとも言えるのではないでしょうか?(それが正しい行動かどうかは別として)

 

互いの弱点を秘匿して、集団内でのポジションを下げすぎないようにする。その反面、飛び抜けて優秀であることも秘匿して、集団の脅威にならないことをアピールする。こう言った集団内での生き残り戦略の結果うまれたのがプライバシーと言えるのだと思います。

 

SNSの本質

ここまで、なぜ人間がプライバシーが必要としてきたのかを考えてきました。そこからわかることは、集団からの逸脱をリンチすることや、集団からの逸脱を恐れて自分をさらけ出すことを恐れること自体はこれまでも存在したことだということです。炎上や抑圧は確かに辛いことですが、それ自体はSNSが出現するはるか昔からあったものだということです。そう考えると、人間のその感情自体はSNSによって生まれたものではありえません。

 

それでも、我々はSNSによって昔より息苦しさを感じるようになったようにも思います。我々は時に臆病とも言える程、物事に対して消極的になってしまいます。その源泉はなんなのでしょうか?

 

その理由こそ、冒頭に書いた「価値間の壁の破壊」にあると思うのです。SNSの出現により、今までは物理的にアクセスできなかった人たちと、頻繁に意見をかわすことができるようになりました。また、物理的に近くにいたとしても、あまり交流する機会のなかった違う社会的階層の人たちとの間で平然と意見が飛び交うようになりました。これが「価値間の壁の破壊」です。

 

例えば、バイト先での不適切な行為をTwitterにアップして炎上する高校生を考えてみましょう。学校の仲間内であれば悪ふざけで済まされた行動が、一般の人たちから見たらとても許される行為ではなく、非難や誹謗中傷の嵐が殺到してしまいました。

 

ここまで一見してわかりやすい例だとピンと来ない方もいるかもしれません。別の例として鯨の肉の料理の写真をアップしたら捕鯨保護活動家から誹謗中傷された、というケースを考えてみると、価値間の壁の破壊の根の深さがわかると思います。バイト高校生のケースだと、ある程度悪いことをしている意識はあるかもしれませんが、このケースの場合は投稿者はそもそも悪いことをしている意識などなかったでしょう(一応明確にしておきますが、鯨を食べることが悪いかどうかは別問題ですし、ここでその良し悪しを判断するつもりはありません)。

 

もっと根が深いのが、以下のような事例です。女性の権利が制限されているイスラム国家(例えばサウジアラビア)に対して、自由主義国家の国民から非難が相次ぐという状況はいかがでしょうか?国家体制自体がイスラムの考えに則っている国に対して、別の国の国民がそれに口を出す権利は果たしてあるのでしょうか?

 

これらの問題は基本的に今まで交わらなかった価値観同士にコミュニケーションラインができたことによると考えられます。SNSによって、人々のアクセス範囲が自分の常識が通用しない場所へと一気に解放されてしまったのです。

 

こうなってくると問題になってくるのが、前章で議論した「恥」の概念です。今まではあくまでも自分の周りの常識だけを考えれば良く、そこで「善」とされている行為から逸脱せずにいればよかったわけです。

 

しかし、ここまでコミュニケーション範囲が広がってしまうと、もはや何が「善」なのかは誰にもわかりません。

 

 世界を繋げるSNSでは、考慮すべき価値観があまりにも多すぎます。「なんの気なしに作ったデザインが、特定の宗教ではタブーとされているデザインだった。」「自分の周りに対して放った言葉が、全然意識していなかった相手を傷つけてしまった。」このようなケースを数えると枚挙にいとまがないです。

 

また、言葉尻を捉えて「ポリティカルコレクト」や「コンプライアンス」という正義の名の下に、誰かを袋叩きにすることだってできてしまいます。基本的には炎上の本質はこれです。

 

僕が考える「コンプライアンス」の実態は、「俺は/私はそれが気にくわない」という人が多いか少ないかという問題でしかないということです。そんな曖昧で気分に左右される基準で作られる「善」に配慮して発言することは簡単ではありません。だから、SNSで言葉を発信することに躊躇していまうのは、ある意味仕方がないことです。他人への価値観に対する配慮がある人ほど何も言えなくなってしまうのがSNSという場なのです。

 

これは人工知能論で出てくる「フレーム問題」に近く、解決は非常に難しいです。以前のコラムでも少し話題になりましたが、「フレーム問題」とは以下のようなものです。

 

『「全ての状況を想定するAI」を作ろうとすると、当然このAIは無限の事象を想定して行動を判断する必要がある。しかし、無限の可能性を処理するためには無限の計算時間がかかるので、結果としてAIは永遠に動き出さない』

 

人の数は無限ではないので、必ずしもこの問題をそのまま適用できるわけではありませんが、SNS上のジレンマは基本的にこれと同じ構造です。日本国内だけでも1億を超える価値観の全てを知ることはできないし、それを知ることができたとしてもその全てに配慮した発言をすることは事実上不可能です。

 

だからこそ、今後のSNSを語る上で、多様な価値観をどう捌くか、という課題は残り続けるのだと思います。SNSに限らず、個人が図らずとも繋がってしまった世界人類とどのように向き合っていくかはここしばらくの人類の論点なのでしょう。近年ダイバーシティ論が活発になされていることも、そのあたりが理由のような気がします。

 

悪い点にばかり目を向けた記事になりましたが、冒頭に書いた通り、SNSのポジティブな面を過小評価するつもりは全くありません。全く違う価値観の間の交流は面白いものですし、自分は持っていなかった価値観からの投稿を見てハッとさせられることもあります。また、創造性という側面から見ると、多様性は「正義」と言っていいくらいに重要です。画一的な集団より、多様な価値観を持った集団の方が創造性が高いことは、いまやいたるところで指摘されています。

 

そしてなにより、出生地という自分ではどうにも出来ない要素による人生の有利不利をかなりの部分緩和できる、という点は見逃せません。まだまだ国家間の格差是正は十分ではないとはいえ、途上国からでも先進国と同じ情報にアクセスできることは、人類の機会平等につながり、世界はいい方向に行くと思います。

 

こう言った良い面を維持しつつ、悪い面をいかに減らしていくかが今後の鍵になってくるのではないでしょうか。

 

まとめ

今回はアメリカ小説「ザ・サークル」を読んで考えたことを書いてみました。情報のオープン化の是非という部分をキッカケに色々と試行錯誤しましたが、割とありきたりな結論に収まってしまったかなという気持ちはちょっとあります(汗)。それでも、読んでいる方がなにかを考えるきっかけになったなら幸いです。

 

それでは、また!