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【読書コラム】青の炎 - 無双するサイコパス

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は国内の作家・貴志祐介さんの小説『青の炎』(角川文庫)。最近の小説のコラムでは海外SFを扱うことが多かったので、久しぶりに国内かつ非SF作品のコラムとなります。

この小説は、突然現れた男に家族をむちゃくちゃにされた男子高校生の話で、この男を葬るために完全犯罪を目論むというミステリー小説です。いわゆる犯人視点のミステリー小説であり、探偵として謎を解き明かしていくのではなく、主人公自身の心理的葛藤の描写を重視しているような作品となっております。

今回はこの「青の炎」という作品の内容に触れながら、罪悪感や良心というキーワードをテーマに思考をめぐらしていきたいと思います。今回はネタバレ全開でいくので、未読の方はご注意ください。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
冒頭に書いた通り、今回はネタバレ全開です。未読の方の楽しみを奪ってしまうの可能性が高いので、まだ読んだことのない方はご注意ください。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムでは、罪悪感とはどういう心の働きなのか?という問いからスタートして、「良心」を持たないサイコパスと呼ばれる人たちについての考察、そしてその存在が現代においてどのような意味を持つのかについて考えたいと思います。

今回の僕の結論は「良心の欠落とどのように折り合うか?それを考える必要がある」というものです。そもそも「良心とは何なのか?」は記事の中で言及していきますが、今回のコラムで僕が言いたいことは、「いかにして構成員全員に良心を育むか?」という問いを放棄した上で、良心を持たない人の存在を前提とした社会の構築が必要ではないか、ということです。

高い道徳観・倫理観を持っている方からすると、「良心を育むことの放棄」というのは受け入れがたいかもしれません。もちろん、社会を構成する人たちが良心を持つことは大事だと思いますが、それを全員に求めるのはゲーム理論と進化生物学的に現実的ではありません。だからこそ、良心や罪悪感を持たない人たちとの共生を考えるべき、というのが僕の意見です。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「青の炎」

今回のコラムの読者としては、この小説を既に読んでいだり、映画を見たことがある方を想定しています(ネタバレを遠慮なくしていくので)。ただし、本の内容を忘れてしまっている方もいるかと思うので、振り返りのために簡単に本の内容について振り返ってみます。

冒頭に書いた通り、この本は男子高校生を主人公とした犯人視点のミステリー・サスペンス小説です。主人公・櫛森秀一の家庭は、明るい妹と女手一つで家庭を支える母親との平和な3人家族でしたが、ある男の闖入によりその平和は破壊されます。その男こそがこの物語の元凶であり、母親の離婚相手の曾根という男です。

この男が櫛森家に居候をはじめるなり傍若無人に振る舞い、平和だったはずの家庭をめちゃくちゃにしてしまいます。そんな曾根の振る舞いをみて、母親や妹に危害が加わることを懸念し、ただ一人の男手である秀一が、なんとかして曾根を葬り去ろうと試みる、というのがこの物語のプロットです。

秀一は高校生とは思えないほどの知性と行動力を発揮し、綿密に計画を立て、結果的に曾根の殺害に成功します。事件は秀一が立てた計画どおりに病死として片付けられ、勇気ある試みは成功したかに見えます。しかし、綿密に立てられたかに見えた完全犯罪計画は、かつての同級生に証拠を見つられたことで綻びが生じます。事件の発覚を恐れた秀一は、それをネタに脅迫しようとする旧友までも殺害せざるを得なくなり、第二の殺人に手を染めます。

第二の殺人をきっかけに嫌疑をかけられ、計画の様々な綻びが警察に露見し、最終的には逮捕間近まで至ります。実刑を受けて償いの人生を歩む道もありましたが、自分の有罪判決が確定することで母や妹の社会的立場が危うくなることを危惧し、自ら命を絶つことを決意しました。それがこの物語の結末です。

読んでいて感じたことは、主人公の心理描写が巧みで、高校生男子にありがちな中二病的全能観と殺人に至る葛藤、そして苛まれる罪悪感が非常にうまく描かれているな、ということです。流石に殺人の経験はないので(笑)、その罪悪感を想像することは難しいですが、世の中を斜に構えてみる態度や、自分1人でなんとかできるというやや「痛い」描写がとてもリアルだと感じました。なんとなく、昔の自分を思い出して恥ずかしくなってしまいます(笑)

今回は、この小説を通して殺人を犯した後の「罪悪感」やその源泉である「良心」について考えてみたいと思います。

社会的負債に対する負い目

罪悪感自体は多くの人にとって身近な感情だと思います。今までに罪悪感を抱いたことがない、という人はほとんどいないと思います。今回はまず、「そもそも「罪悪感」とは何なのか?」を考えてみます。

ほとんどの人にとっては殺人の経験がないとはいえ、人を殺せば罪悪感に苛まれるであろうことは明らかでしょう。誰かを騙したり、傷つけたりする一方で自分が利益を得る、そんな場合に人は罪悪感を覚えるものです。社会的に悪いことをして、それがばれなかったとしても、罪悪感は消えることはないでしょう。むしろバレない方が罪悪感は強いのかもしれません。

これらのことを考えればわかるとおり、罪悪感とは「悪いことをした時に感じる後ろめたさ」と言えそうです。主に社会や他人に迷惑をかけて自分が利益を得ている時に感じる負い目と言ってもいいと思います。この辺りは一般的に考えられている範疇だと思います。

そこで、もう少し思索を進めていきます。その切り口は、「罪悪感」を社会と個人との利害関係として捉える視点です。もちろん、ここで言う利害関係とは必ずしも経済的なそれに限りません。

この視点による考察からわかるのは、罪悪感とは「社会に対する負債」だということです。わかりやすく言うと、罪悪感とは借金をしている時に感じる後ろめたさに近いものではないか、というのが僕がここで言いたいことです。「社会や他人に対して我慢や損失を強いる一方で、自分は利益を得る」この構造は、人から物やお金を借りて、自分が得をしているという構造に似ています。もっと端的に言うと、社会に対して「借り」がある状態に対する居心地の悪さです。

そのように考えた時、「良心」の本質が見えてきます。それは、この罪悪感という負債の埋め合わせをしようとする心の働きです。社会に「借り」があるという心苦しい状況から解放されるために、社会に対して善行をする事で負債を返済しようとする意思、それを「良心」と呼んでいるのではないでしょうか?

主人公の秀一が作中で述べているのは、殺人の後に襲いかかる罪悪感が強烈なのは、殺人が取り返しがつかないことだからだ、ということです。取り返しのつかない罪とは、上記の文脈で言い換えれば「返済のできない借金」です。だからこそ、殺人の罪悪感から逃れることは出来ず、果てしない良心の呵責に苛まれる、と解釈できるでしょう。

さて、ここまで「罪悪感」と「良心」を社会と個人との利害関係として捉えたわけですが、ここで更に問いを突き詰めてみましょう。次の問いは、「そこまでの居心地の悪さを感じるにもかかわらず、社会に対して負債を負ってしまうのはなぜなのか?」です。

その問いに対する僕が回答は「人間には自己愛があるため」です。もうすこしマイルドな言い方をすると「自己愛」とは、「自己防衛本能」と言っていいと思います。秀一が殺人という社会的な悪行をせざるを得なかったのは、自分の身内を守るためです。もう少し心理的に突っ込んだ考察をすると、「家族の危機に対して自分が何も出来ないという無力感」からの行動だったのかもしれません。いずれにしても、自分や自分の大切な人を防衛するために、社会に対して大きな「負債」を背負うことを選んだと言えるわけです。

当然、多くの場合、社会を維持しようとする力は回り回って個人の利益につながります。全体の最適化を考えると、おそらくみんなが協力して社会に貢献するのが最善手になるのでしょう。しかし、目の前に命の危険があったり、耐えきれないほどのストレスを抱えていたりした場合はその限りではありません。そのような切迫した状況では、社会のことよりも自分のことを優先するのが理にかなっていると言えます。これが、人が社会的な負債を負ってしまう理由は「自己愛」ではないか、という言葉の意味です。

ここまでの考察をまとめると、以下のようになります。

人は強いストレスに晒されると社会よりも自分の利益を優先し、それが行き過ぎると社会的な「負債」=「罪悪感」が生じる。一度背負ってしまった「罪悪感」は、「良心」という心の働きによって、善行という形で解放される。しかし、その「罪悪感」があまりにも大きく、返済しきれないような「負債」であれば、行き着く先は破滅である…

主人公は自己愛と社会善の狭間で葛藤し、結局は(非常に酷な言い方ですが)個人的欲求を満たすために社会の規律を破ってしまいました。もちろん、高校生という身分を考えれば仕方がなかった面も大きいのは確かですが、それによって社会に対して「罪悪感」=「負債」を負うことになったという事実は変わりません。

このように考えると、非常に長い葛藤の末に曾根の殺害を決めたのと対照的に、余りにもあっけなく二人目の殺人を決断したことにも説明がつきます。自分の罪が露見して全てが滅びることを避ける「自己防衛本能」と、「負債」が増えることを避ける「良心」の葛藤の中で、「自己防衛本能」があっさり勝ってしまうのは不思議ではありません。どのみち返すことのできない「負債」がちょっと増えることは、全ての破滅を避けるための犠牲としてはあまりにも軽いものでしょう。

良心をもたない人たち

ここまで、「良心」と「罪悪感」について考えてきました。繰り返しになりますが、「罪悪感」とは社会的な負債であり、「良心」は負債を返そうとする仕組みであるということです。

このように考えてみると、人間の社会というものは「罪悪感・良心」と「自己愛」の絶妙なバランスで成り立っていることがわかります。

人は「自己愛」によって、個人的な利益を得たり、新たな価値を生み出そうとして努力をします。社会全体が「自己愛」に傾き過ぎるとカオスに陥ってしまい全体の破滅へ向かいますが、「罪悪感・良心」がそれを抑制する力として働きます。つまり、ほとんどの人は過大な負債の後ろめたさに耐えられないので、負債がたまってくると社会に対して善行を働くことでその埋め合わせをしようとする、というわけです。そうやって、みんなが時に債権者に、時に債務者になりながら、ほどほどのところで社会は発展・維持し続けます。

要するに、社会の発展と秩序の維持は「自己愛」と「良心」が共依存関係のように作用することでなされるということです。人類社会はそうやって発展を遂げてきたのだと言えるでしょう。

さて、そんな社会を支えるのに必要な「罪悪感・良心」ですが、これを持たない人間がいることは多くの人が知っているとおりです。そう、それは「サイコパス」という人たちです。

「サイコパス」の人たちの特徴は共感性や良心を持たないことです。もちろん、確たる定義があるわけではないですが、この捉え方が「サイコパス」の一般的な認識だと考えて問題ないでしょう。共感性がないために人の痛みに鈍感であり、だからこそ悪いことをしても良心が痛まない。サイコパスに興味ある方は中野信子さんの新書「サイコパス」(文春新書)や、海外のマーサ・スタウト氏の「良心をもたない人たち」(草思社文庫)が参考になるのでおススメです。

「サイコパス」という存在を今回の文脈で語ると、次のように言えると思います。つまり、「社会的な負債超過に耐えらえる人」です。先に書いた通り、多くの人が「罪悪感・良心」と「自己愛」の働きによって、そこそこの負債(個人の利益)とそこそこの資産(社会的善行)を持ちつ持たれつしながら維持しているのが社会です。この社会の構造と「サイコパス」の特性から導かれる帰結は明らかです。

そう、完全なる一人勝ちです。サイコパスは、普通の人にはとてもできないレベルで「自己愛」を極限まで追求することができる。なぜなら、社会的負債を返そうという力が働かないからです。周りが個人の利益(社会的負債)の埋め合わせのために善行をしている中、1人だけそれをせずに個人の利益を追求していれば、周りに対して優位に立てるのは当然と言えるでしょう。

だからこそ、「サイコパス」がいると社会は機能不全を起こしやすいのです。社会自体が「良心」と「自己愛」の両輪によって支えられており、良心を持たない人の存在はそもそも想定していません。その結果引き起こされるのは、「サイコパス」による構成員からの搾取です。良心を持つ人は、良心を持つが故に「サイコパス」を排除することが困難なので、この構図を覆すのは非常に難しい。

作中に明言はされてはいませんが、この物語の元凶である曾根もまたサイコパス的な特徴を持つと言えると思います。だからこそ、櫛森家は機能不全に陥ったのではないでしょうか。普通の家庭はこういう存在をそもそも想定していないのです。言ってしまえば、この「青の炎」という物語自体が、「良心」を持つ人間である秀一が、巧妙に策を弄することで「サイコパス」との勢力図を覆そうとする奮闘記と、言えるのかもしれません。

無双するサイコパス

さて、次の問いは「このような「サイコパス」に対して、良心を持つ人間は無力なのか?」というものです。

僕はそうではないと思います。それは実際に、世の中にいるサイコパスが極少数であることからもわかります。もし、「サイコパス」が良心を持つ人に対して圧倒的に強いのであれば、世の中は「サイコパス」だらけのはずです。しかし、実際にそうはなっていないことからも、良心を持つ人でも対抗する力を持っていることがわかります。

「その対抗策は何か?」それは集団を作ることであると考えられます。そもそも社会を作る理由自体が、「サイコパス」のような存在から集団を守るためなのかも知れません(循環に循環を重ねた末に、よくわからなくなっている感はありますが…)。

先に述べた通り、誰かが「自己愛」という個人の利益を追求しすぎると、社会は機能不全を起こします。特に、この物語における曾根のように、その「サイコパス」が強力な力を持っていればいるほど、集団に対する脅威になるでしょう。だからこそ、良心をもつ人たちは集団を作って サイコパスを抑止するための装置として「しきたり」や「法」と言ったものをこしらえるのではないか、と思うのです。この装置によって「サイコパス」を村八分にすることで「サイコパス」の芽を潰してきた。これが「良心」を持つ人が「サイコパス」にとり得る戦略です。

特に、現代のように、多くのものが一人で手に入るような時代になるまでは、この村八分という処罰は「サイコパス」にとって致命的だったと考えられます。村八分にされれば、食料を得ることも、子孫を残すことも、寝床を準備することも、外敵から身を守ることもできません。人類を発展させたドライバーである「分業」と「交換」を封じられると、単独の人間はあまりにも無力です。だからこそ、「サイコパス」は少数しか生き残れなかったのではないでしょうか。

ここまで言えば、今回のコラムで僕が何が言いたいかがわかると思います。すなわち、「翻って、現代ではどうなのか?」という問いです。もちろん、「サイコパス」が明示的な法律違反を犯せば法律によって罰せられるでしょう。しかし、世の中ではグレーな領域も多いものですし、法律に反しないレベルでも他人から搾取できる余地はいくらでもあります。かつては村八分にするという対抗手段があったわけですが、現代はこの対抗手段は極めて脆弱であることは想像に難くありません。

言うまでもなく、現代はお金という共通価値があれば一人で生きていけます。たとえある集団で危険人物としてマークされたとしても、別の集団にいけばしばらくの間はそこでまた搾取を行うことができる。つまり、現代はサイコパスが生き残りやすい環境にあると言えます。

これが現代の抱える問題です。当たり前ではありますが、サイコパスと言えども一人の人間であり、現代社会の根本をなす基本的な人権は侵害できません。違法行為が認められない限り社会から排除することはできないし、子孫を残すことも止められません。当然、法によらない制裁は良心を持つ人にはあまりに心理的ハードルが高く、その試みはあまりにも大きなリスクが伴います(この物語における秀一のように…)。

ここから導かれる結論は、サイコパスの勢力の拡大です。「良心を持たない人」が増えることは心理的に受け入れがたいことは確かですが、これは論理的な帰結の一つとして、充分現実味があると思います。仮に一部のサイコパスに良心を持たせることに成功したとしても、結局はその人たちが搾取される側に回るだけで、サイコパスの無双は止まりません。これは構造上仕方のないことです。

さらに言えば、サイコパスの気質は遺伝と育った環境で決まってしまい、教育でそれを矯正することが困難であると言う事実もあります(というより、本人がその矯正を望まないことがほとんどのようですが)。つまり、良心を持っている側の勢力がどれだけ努力をしたとしても、その努力は無駄に終わる可能性が高い。

だからこそ「良心の欠落とどのように折り合うか?それを考える必要がある」のです。良心を持っている人から見ると、良心を持たない人の行動は受け入れがたいものです。しかし、これまでみたきたように、サイコパスが無双し続ける流れはもはや不可避であるように思います。

良心が失われつつあることを嘆くのは簡単です。その良心を神聖化した上で、サイコパスを邪悪な存在であると断罪するのも簡単です。しかし、それではなにも解決しないし、世の中の不幸・悲劇は増える一方です。そうであれば、現代人に求められているのは、いかにしてその調和を達成するか、ではないか思うのです。

そして、我々が忘れてはいけないのは、「サイコパス」の気質は遺伝と育った環境でほとんど決まってしまうという事です。言い換えれば、「サイコパス」自身としても望んでそのような存在になったわけではない、という事実です。だからどうしたと言われるかもしれませんが、もし「サイコパス」本人に選択の余地がなかったとすれば、やはりその人権は守られるべきと僕は考えます。だからこそ、その調和を目指すことが必要ではないか、それが今回のコラムで言いたいことです。

まとめ

今回は貴志祐介さんの「青の炎」を読んで考えたことを書いてみました。やや脱線気味ではありますが、このくらいの逸脱はいつものことなので、あまり気にしなくていいでしょう。いつもこのブログを読んでいる方ならわかると思いますが、今回の記事では便宜上「良心」や「社会善」という表現を使っていますが、僕自身はそれを盲目的に「良いもの」と考えてはいません。まあ、だからどうしたという話ではありますが。

この本を読んで曾根という男に対する激しい嫌悪と、どうしようもない無力感を抱いた人は多いと思います。僕も当初はそう感じていましたが、今回改めて考えてみたことで、憎悪にとらわれすぎるのではなく、サイコパスが無双できる構造を認識したうえで、「ではどうするか?」という問いを立てていくことが大事だと思いました。引き続き考えていきましょう。

それでは、また!