たった一つの冴えた生き様

The Only Neat Way to Live - Book reading, Fitness

【読書コラム】生きるということ - 「インスタ映え」という体験の疎外

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はドイツの心理学者エーリッヒ・フロムの『生きるということ』(紀伊國屋書店)。「自由からの逃走」などで有名なフロムの思想書で、約50年前に書かれた本ながら現代においても十分なほどの示唆を与える本だと思います。

「To have or to be?」という原題からも分かる通り、この本で議論している内容は「持つ(have)」ことと「あること(be)」についてです。堅苦しい言葉を使うと、「所有」と「実在」と言ってもいいと思います。宗教や社会、経済や心理学などの多様な観点からこの二つの概念を考察し、あるべき社会の姿について論じている本となります。

今回は、フロムの使った「持つこと」と「あること」の視点から、現代を象徴するSNSが生み出した「インスタ映え」「コト消費」について考えてみたいと思います。

f:id:KinjiKamizaki:20191215101308j:plain


おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの論点は、最近の潮流となっている「インスタ映え」や「コト消費」という概念の、人間心理に与える意味についてです。流行語大賞にもなった「インスタ映え」や若者の物離れに伴う「モノ消費」から「コト消費」の流れは概ね肯定的に捉えられているものだと思いますが、フロムの提示した概念を援用しながら「本当にそうなんだろうか?」という問いを考えてみたいと思います。

先の論調からも明らかな通り、僕はこの潮流に対しては否定的な立場です。もちろん、それを完全に否定するつもりはありませんが、それでもかなりの危うさを伴うものであると考えます。それはテクノフィリア(科学技術恐怖症)的な被害妄想や、人の暖かさや人間性といったノスタルジックでロマン至上主義的な理由ではなく、あくまでも人間心理や社会的な観点からの考えです。

今回のコラムで僕が言いたいことは「どうすれば、体験そのものを楽しむことができるのか?」を考える必要があるということであり、その一つの解決策として「体験の完全な共有の不可能性を自覚することと、欠落する情報に対する感度を上げること」です。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「生きるということ」

冒頭に書いた通り、この本に書かれている内容は「持つこと」と「あること」についての考察です。マルクスの思想を知っている方であれば、マルクスの使っている「疎外」についての考え方を「持つこと」「あること」という言葉で整理した本である、と言うとわかりやすいかもしれません(マルクスの思想からの引用が多いとはいえ、共産主義を賞賛するような本ではありません。念のため)。

わかりやすくいうと、「私はあの人への愛をもっている」と「私はあの人を愛している」という表現の違いです。「言っていることはどちらも同じじゃないか?」という指摘が飛んできそうですが、前者の表現は自身を客観的な視点で捉え、愛という所有物を持っている自分を表わしている一方で、後者の表現はその人を愛するというまさにその主観的な感情を表していると論じます(前者の考え方がマルクスの言う「疎外」の概念です)。その上で、時を経るごとに前者の表現が多く見られるようになっていることを指摘し、人々が無意識的に「持つこと」を重視するようになっていると主張します。

このような、主観的な体験である「あること」とそれを客観的な所有物とする「持つこと」を対比しながら、「持つこと」に偏重している資本主義を批判します。マルクスからの引用が多いことから共産主義的な思想であるようにも感じるかもしれませんが(実際に共産主義の基本は私有財産(所有物)の破棄にあります)、フロム自身は共産主義に賛同する人間ではなかったようです。資本主義を批判しながら、かと言って共産主義に同調するわけではなく、そのどちらでもない新しい形の社会を提案します。

その社会の姿はやや現実味が無いようにも思えますが、その姿はまさに現代に議論されている「コモンズ」ベース社会の思想的原点になっているように思います。この辺りの議論はジェレミー・リフキンという思想家の「限界費用ゼロ社会」(NHK出版)が詳しいです。特に、1970年代の時点で、現代でいうところのベーシックインカムである「年間保証収入」について言及している点は特筆に値するでしょう。

実は、この書籍の考え方は僕が以前書いた「痴人の愛」のコラムにも影響を与えており、この論点は現代においても熟考すべき課題であると思っています。そんなこともあり、今回は「持つこと」と「あること」について、現代を象徴する「インスタ映え」というキーワードを絡めて考えていきます。

「インスタ映え」という疎外

繰り返しになりますが、「持つこと」とは個人の感情や体験の対象化・抽象化です。感情や体験それ自体は他人と共有することはできませんが、それを言葉にしたり、カメラで撮影するという「対象化」を行うことで誰かと意思疎通をすることができます。これが典型的な「あること」から「持つこと」への移行の過程であり、マルクスが「疎外」と呼ぶものです。

もちろん、この対象化・抽象化は人類にとって重要な思考・表現形態であり、この働きによって人類は知識を蓄え、発展を続けてきたのは間違いありません。しかし、特に近代以降において「労働」の抽象化とそれに伴う個人の疎外が問題になりました。つまり、人々が生きがいとして捉えていた「労働」が、雇用者の所有物としてマニュアル化された作業をこなす、という退屈で苦痛なものになってしまったというわけです。

そして、共産主義国家の樹立はこの文脈上にあります。資本家が資本や労働者を所有することで疎外されてしまった「労働」「個人」という概念を、もう一度その労働者の手に取り戻そうという運動です(そしてご存知の通り、その試みは失敗におわっています)。

少し話がそれましたが、いずれにしても資本主義に生きる我々にとってもこの課題は依然として残っています。2020年代に入ろうかという現代においても「持つこと」の呪縛からは逃れられておらず、相変わらず人は「あること」よりも「持つこと」を重視していると言えるでしょう。多くの場合、人は他人をその人自身ではなく「肩書き」や「持ち物」「年収」「年齢」「資格・学歴」などの「所有物」によって判断しているのは明らかであり、我々自身も自分を「所有物」で着飾るためにせっせと体験や感情を「疎外」しているのです。

さらに悪いことに、車や家、恋人やパートナーを「持つこと」で保たれていた個人の尊厳は、もはや行き場を失いつつあります。これが若者の「車離れ」「マイホーム離れ」「恋愛離れ」の本質です(このあたりの議論は「痴人の愛」のコラムを参照ください)。

そんな中、最近勃発してきているのが「モノ消費」から「コト消費」への変革です。物を所有することではなく、旅行やライブ、イベントに参加することに人々の興味が移りつつあるというわけです。僕はこれ自体はいい流れだとは思いますし、否定するつもりは全くありません。一見すると「持つこと」から「あること」への変化であるようにも思えます。

しかし一方で、「コト消費」の流れを後押しする要素があります。それは言うまでもなくSNSであり、それを象徴するのが「インスタ映え」という時代のキーワード。この「インスタ映え」というキーワードが、僕が手放しで「コト消費」に賛成できない理由です。

「インスタ映え」とは要するに「体験の疎外」です。体験それ自体を楽しむ以上に、体験を写真やムービーを通して「対象化」し、それをSNSにアップすることに注力する…そのような行為を示唆するのが「インスタ映え」という言葉だと言えるでしょう。つまり、体験を体験として楽しむのではなく、お洒落な雰囲気の場所に行っている自分、お洒落な食事を食べている自分を、SNSへを通して対外的にアピールする…これが「インスタ映え」という言葉の根底に見え隠れする思想です。

この構造は、お洒落な服や車や家を「持つこと」で経済的な力を、綺麗なパートナーを「持つこと」で優れた人間であることを、大企業の肩書きを「持つこと」で仕事ができる人間であることを示す構造となんら変わりがありません。「インスタ映え」とは体験を抽象化し、陳腐な記号にしてしまう傾向を持つと言えるでしょう。

内的モチベーションのハック

このようなことを言うと、本人がそれを楽しんでいるのならそれでいいじゃないか、と言う意見も出てくると思います。僕としては、それはそれで正しいと思いますが、人間が本当の意味で長期的にそれを楽しむことができるのか?という点については疑問が残ります。また、その瞬間は楽しいにしても、それは定常的な不安と隣り合わせではないのか、という気がしています。

よく聞く話ですが、それ自体のためではなく、SNSに投稿するために旅行や外食に行く、そんなケースに心当たりがある方もいるかもしれません。観光地に行って撮影スポットで写真をとることで満足してしまう。見栄えのいい料理の写真だけ取って満足し、その味にはまるで頓着しない。最近では、タピオカの写真だけ取って中身を捨ててしまう、という行動が話題になったのが記憶に新しいです。

これらの例からもわかるとおり、「インスタ映え」の何が問題かと言うと、体験を対象化したことで、その行為自体の意義が希薄化してしまうことです。「今、ここ」を大切にできなくなると言っていいかもしれません。これは近代化・機械化が労働を苦痛に変えてしまったことと全く同じ構造です。

その背景にあるのは、SNSにおける「イイね」の存在だと考えています。「イイね」とは手軽に他人からの承認欲求を満たせるものであり、多くの人が自分の存在証明を求めている現代において(だからこそ、車やブランド品やマイホームがありがたられる)、他者からの承認は大きなモチベーションになり得ます。

この「他者からの承認」という外的報酬によって内的モチベーションが失われてしまう、それが「インスタ映え」の危うさです。知っている方もいるかもしれませんが、心理学の世界では「アンダーマイニング効果」という言葉があり、内的モチベーションに動かされていた行動でも、外的報酬が与えられるにつれて元々のモチベーションが消失してしまう、という人間の心の動きを表します。この心理現象は、子育てにおいて報酬(テストでいい点を取ったらゲームを買ってあげる等)が推奨されない理由でもあります。

ここまでの話をまとめるとこうなります。初めは単純な好奇心や楽しいという感情で行なっていた行為を、「インスタ映え」のために「体験を疎外」する。疎外された対象がSNSを通して「イイね(他人からの承認)」という外的報酬を生み出す。この外的報酬があまりにも強烈であるがゆえに「アンダーマイニング効果」を引き起こし、結果的に当初持っていた内的モチベーションが失われてしまう…

わかりやすさのために「インスタ映え」という例で説明しましたが、これはもちろんInstagram に限った話ではありません。僕自身、Twitterで読書アカウントを持っている身としては「読了ツイート」もまた同じ傾向を持つことは無視できません。つまり、読書によって得られるものや読書自体の楽しさが、読了ツイートにつく「イイね」によって毀損されてしまう、という危うさです。今のところは読書を楽しみながら、かつ自分の知恵として活かせるような形で続けられていると思いますが、僕自身もこの「アンダーマイニング効果」に陥らないように常々気をつけてはいます(それがこのブログを書いている理由でもあります)。

SNSに投稿するために行動する人を浅ましい人と言ったり、自己顕示欲の高い人というのは簡単ですが、そもそも人間の脳の報酬系がそうなっているので仕方ない面もあると思います。というより、昨今のSNSの流行の本質は、この人間の報酬系に適合しているからに他ならなりません。以前、「華氏451度」のコラムでも書いた通り、シリコンバレー系の新興企業は人間の心理の動きを非常に良く分かっていると思います。

このように、内的モチベーションは外的報酬によって簡単にハックされてしまいます。SNSの危うさはここにあって、本来は楽しかったはずの体験を空虚なものに変えてしまうのが恐ろしいところです。楽しみを周りに共有するはずだったものが、いつのまにか「イイね」の依存性に飲み込まれ、周りに共有すること(SNSを使うこと)を強制される。その結果、もはやその体験からは楽しみを感じられなくなってしまう…

一見すると「持つこと」から「あること」への変革を目指している「モノ消費」から「コト消費」の移行ではありますが、その本質は以前となんら変わりがなく、「持つこと」による自己証明の文脈からは逃れられていないのではないか、そんな風に考えてしまいます。

長くなるので今回は深入りは避けますが、問題はもう一つあります。それは多くの承認を得るために、その発信が大衆迎合的かつ排他的になりがちなことです。多くの賛同を得ようとすると、必然的にこのような形にならざるを得ません。これは実際に日本に限らずSNSを通して世界各地で起こっていることであり、各国でナショナリズム的なヘイトスピーチが広がっている理由もここにあります。

共有の不可能性と増大するエントロピー

だからこそ、SNS全盛期における現代において必要な問いは「どうすれば、体験そのものを楽しむことができるのか?」ではないかと思うのです。言い換えれば、外的報酬による内的モチベーションのハックをいかに回避するか、です。

もちろん、それは色々な方法があると思います。極端に言えば、そもそもSNSを使わないというのも一つの方法であると言えるでしょう。もちろん、僕自身はSNSの良い面を過小評価するつもりはないですが、人によっては完全に排除するのもありだと思います。

しかし、今回はSNSの特徴を踏まえてこの問いを考えてみます。その中で僕が提案したいのは、「体験の完全な共有の不可能性を自覚することと、欠落する情報に対する感度を上げること」です。

SNSでやり取りされる情報とは、画像であり、文字(絵文字やスタンプを含む)であり、ムービーです。ひと昔前の単なる文字列のやりとりに比べれば遥かに気軽に、多量の情報をやりとりできるようになりました。特にムービーの持つ臨場感は単なる文章とは比較になりません。

しかし、どのような情報であろうが、自分の体験そのものを共有することはできない…これは当たり前すぎるほどに当たり前なことです。確かに人間の認識における視覚と聴覚のウェイトはかなり大きいのは確かです。それは昨今のVRが脳に強い臨場感を与えていることからも明らかでしょう。それでも、人間の認知は必ずしもこれらの感覚によってのみなされるわけではなく、触覚や嗅覚、味覚による影響は無視できるものではありません。手触りや匂い、暑さ・寒さ、そして味。これらの感覚についての情報は、スマホやパソコンなどの機器で再現不可能であるがゆえに、SNSに投稿された時点で完全に消失します。

これは体験(あること)を対象(持つこと)に変換する際に不可避的に発生する欠落です。この不可避の欠落がある以上、体験を本当の意味で誰かと共有することはできません。もしかしたら、VR技術の発達によってその全てを共有できる未来が来るのかもしれませんが、それは遠い未来であることは間違いないでしょう。さらに、それらの情報を完全に共有できたとして、それをどう感じるかは人によって違うという超えがたい壁もあります。

要するに言いたいのはこういうことです。体験を誰かと共有するには抽象化(疎外)の過程を経なければならない。しかし、その抽象化をした時点であまりにも多くの情報が欠落する。つまり、体験を誰かと共有することは原理的に不可能であり、SNSで得られる「イイね」はそんな欠落した情報から得られた虚構に過ぎない…多くの場合、欠落した情報を見ている側が勝手な解釈で補間し、自身を投影した「自分の」承認作業としての「イイね」に過ぎないと考えます(だからこそ、大衆迎合的で排他的な投稿が「イイね」を集める傾向にある)。

SNSを眺めているだけでは幸せになれないことからも明らかなように、自分が幸福に感じられるかどうかは、その欠落している情報に含まれているはずです。それはコンピューターでは伝えられない超越的なものがあるという神秘主義でも無ければ、コンピューターは冷たいというアンチサイバネティクスでもありません。ただ純粋に、現代の技術水準では伝達できる情報が限られるという事実によって、です。いずれにしても、大事なことはその欠落してしまう情報に含まれる価値に目を向け、それを大切にする目線ではないかと思うのです。

この提案にどれだけの意味があるのかはわかりません。共有の不可能性と情報の欠落を意識するということが、内的モチベーションの維持に対して何の役にも立たないということは十分にあり得ます。しかし、僕が注目したいのは、人間にはものを失うことを恐れる損失回避傾向という心の働きがある、という事実です。情報の欠落の側に目を向けることで、この損失回避傾向を駆動させ、自分が本当に手放してはいけないものにも自覚的になれるのではないか、それが僕が期待することです。

少し視点を変えてみましょう。ここで議論している「抽象化に伴う不可避的な情報の欠落」という存在は、「抽象化」という行為が「不可逆圧縮」であることを示唆しています。熱力学の言葉でいうならば、エントロピーの増大です。ここまで議論してきたように、人間は体験や感情を他人と共有するにあたっては、どうしてもこのエントロピーの増大は避けられません。

我々は、抽象化・データ化することで自身の体験・感情を「いつでも」「どこでも」「誰でも」アクセス出来る交換可能なものに出来るかのように錯覚してしまいがちです。しかし、抽象化の過程で失われる情報は、まさに「今、ここ」にいる自分の感覚に他なりません。抽象化という行為が不可逆であるからこそ、誰かと共有することで失われてしまうものだからこそ、それを大事にすることが「今、ここ」にいる自分を肯定する、何にも変えられない存在証明になるのではないでしょうか?

死という圧倒的な不可逆性を意識して初めて「生」の実感を得られるように。SNSへの投稿で失われる情報の欠落を意識して初めて実感できる何かがある、そんな風に思えてなりません…

まとめ

今回はエーリッヒ・フロムの『生きるということ』を読んで考えたことを書いてみました。重厚な本の割に、なんとなく軽い議論になってしまった感はありますが、現代人が抱えている問題であることには間違いないと思うので、これはこれで意味のある文章にはなったのではないかと思います。

正直、書き始める段階では「インスタ映え」と「疎外」の連想というOne-ideaで書くつもりでしたが、結果的には、エントロピーの概念を導入することで「持つこと」からの脱脚の一歩先が少し見えた気がしました。こうやってブログを書く中で色々と自分の中の考えがまとまってくるのが、こういう文章を書く醍醐味ですね。

それでは、また!