たった一つの冴えた生き様

The Only Neat Way to Live - Book reading, Fitness

【読書コラム】中学生からの哲学「超」入門 - 異なるコンテキストを持ち寄る場

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は竹田青嗣さんという方の新書『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー新書)。この本の著書は、早稲田大学の教授の方で、哲学や文芸を専門とされているようです。

タイトルは中学生向けとなっていますが、30を超えた僕でも読んだ価値は十分感じる本で、ふつうに暮らしているとあまり馴染みのない「哲学」という学問について、この本を通して知る事が出来ました。ここ最近、哲学書を読む事にはまっているのですが、そもそも哲学に興味をもつきっかけになった本でもあります。

今回は、この本に書かれていて印象的だった、「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」という視点からスタートして、僕がどのような「場」や人間関係を求めているのか、それについて深掘りしたいと思います。

f:id:KinjiKamizaki:20191027222945j:plain


おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムの論点は、現代日本における「宗教のテーブル」的な「場」に対する問題点と、自分の気質との相性の悪さです。さらに、そこから自分がコミュニケーション・コミュニティとして、どのようなものを求めているのかについて書いていきたいと思います。

今回の記事で言いたいことは、自分が「コンテキストの共有に依存しない場」を求めているという事です。これはコンテキストを極端に重視する日本の伝統的なコミュニティのあり方に対する反論であり、そこに居場所を見出さなかった(見出せなかった)僕なりの反抗とも言えます。

この本を読んで、幸いにもそこは前人未到の荒野ではなく、「哲学のテーブル」という名前が付いていることを知りました。だからこそ、僕は今哲学に興味を持っているわけですが、今回はそこに至るまでの思考を吐き出してみたいと思います。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「中学生からの哲学「超」入門」

この本は、タイトルのとおり、主に中高生に向けて哲学の考え方の基本を書いた本です。哲学の基本やその特徴、役割などについて平易な言葉とわかりやすい例えを使って解説してします。ただ、哲学である以上、内容としてはなかなか込み入っており、中学生にはちょっと難しいかも知れません。それでも他の哲学についての本と比べると、わかりやすい部類であることは間違いないでしょう。

この本では、哲学とは何か?という問いに以下のように答えています。

『哲学って何だと聞かれると、いろんな答え方が思い浮かびます。私が気にっているのは、それは「自分で考える方法」だ、というものです。これにつけくわえるなら、とくに自分自身について自分で深く考える方法、それが哲学のエッセンスだ、と言ってみたい。』

これは非常に明快な哲学の定義だと思います。もちろん、筆者も言っている通り、哲学とは何か?という問いの答えは無数にあり、これが唯一の解ではないことは留意すべきですが、初心者としては、このわかりやすい回答はとても心強いと思います。

そして、哲学とは何かについて考えるため、宗教と哲学を対比しています。ここのポイントが今回のテーマであり、これについては後ほど説明します。いずれにしても、宗教と哲学のどちらが良い、という単純な話に収斂させず、それぞれのメリット・デメリットを語っているあたり、バランスが取れているという印象を受けました。

さらに、哲学の実践的な解説として、社会や幸福について様々な例を取り上げながら解説しています。社会のルールをトランプの「大貧民」をたとえに使って説明しており、筆者の説明のうまさを感じてしまいました。これらの論点はこの本一冊で完結するような話では全くありませんが、哲学のエッセンスを体感するにはちょうどいいと思います。

僕はこの本を読んで、哲学に対してもともと持っていたイメージが大きく変わりました。上記の解説を読んで頂ければわかるとおり、哲学の考え方自体が僕の思想と相性がよく、このブログ自体も「自分の頭で、社会や自身について考える」という哲学的なエッセンスを含んでいるとも言えると思います。以前は、小難しい理論をこねくり回したり、過去の偉人を研究する学問というイメージを持っていたので、この本を読むことで哲学をもっと身近に感じることができました。

今回のコラムでは、僕が印象に残った「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」を元に議論を進めたいと思います。

「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」

僕はこの本を読んだ時に、下記の図こそがこの本においてもっとも重要なエッセンスだと思いました。これが、「宗教のテーブル」と「哲学のテーブル」の図です。本の内容の説明になってしまいますが、ここを説明しないことには前に進まないので、今回は本自体の説明を少し長めに取ります。

f:id:KinjiKamizaki:20191027222918j:plain

そもそも、筆者はなぜ宗教と哲学を並列に語っているのでしょうか。その理由は下記の文章を読めば明らかです。

『まず、宗教も哲学も、ある意味で、世界とは何か、人間とは何か、死んだらどうなるのか、そして生きることって何だ、などについての包括的な説明です。つまりそれは、「世界説明」、世界と人間の存在についての説明方式だと考えてみましょう。』

つまり、宗教と哲学は同じ目標に向かっており、それが「世界説明」だというわけです。これが宗教と哲学の共通点です。

それでは、宗教と哲学は何が違うのでしょうか。筆者が言うには、それは目標に向けたアプローチです。

宗教では『「物語」によって「世界の意味」を教える」』としています。色々な宗教において、「創世神話」があることは皆さんもご存知でしょう。キリスト教やユダヤ教における聖書や、イスラム教のコーラン、日本の神道における古事記、日本書紀などはその典型と言えるでしょう。

この本では、宗教のテーブルの特徴を以下のようにまとめています。

『まず、「教祖」がいて、皆が「この人は大事な真理を知っている」ということを信じている。また、「教祖」が死んでも、「教祖の言葉」が残って、この言葉には「真理」が隠されていると信じて、人々が集まってくる。この人達が自分も「真理」に近づきたいと思い、それをみんなで求めあう、そういう集団が出来上がると、そこに、いわば「真理」を求め合う一種のゲームが成立する』

すこし長い引用になってしまいましたが、この文がすべてを物語っていると思います。あえてこの文章に付け加えるとすると、この「教祖」が語る物語が正しいかどうかは問わないという点です。それにも関わらず、みんながそれを信じていることが宗教の大きな特徴であると述べられています。

一方で、哲学は「世界説明」のため、物語ではなく概念と原理を使うとしています。誰でも出入り自由なテーブルの上での『世界や人間の問題を誰がもっとも巧みに説明するかという、いわば言語ゲーム』という表現が端的に哲学の特徴を表していると言えるでしょう。

ここまで、宗教と哲学のアプローチの違いを紹介したわけですが、その核心は、説明の「交換可能性」です。この点は筆者も本の中で強調しています。

当たり前ですが、宗教の物語は正しさの根拠がないが故に別の物語と入れ替えることはできません。仮に、別の物語を信じるのであれば、それはその宗教からの改宗を意味します。すなわち宗教の「世界説明」は交換不可能だというわけです。

一方で、哲学は違います。哲学のテーブルでは現状よりも妥当な概念・原理が提示されれば、それを受け入れるのが必然です。というよりも、その繰り返しによって最もそれらしい説明を探ること自体が哲学と言ってもいいのかもしれません。つまり、哲学における「世界説明」は誰にでも交換可能なのです。

宗教におけるコンテキストの共有と秘匿

さて、ここまで(珍しく)長々と本の内容を説明をしてきたわけですが、ここまでの内容を元に思索を進めていきます。

それにあたり、この記事では、宗教の肝である「物語」を「コンテキスト(文脈)」と読み換えたいと思います。もちろん、そのまま「物語」という言葉を使ってもいいのですが、一般論に導くにあたり「コンテキスト」という言葉を使った方が違和感なく議論を展開できるため、ここではこのような読み換えを採用します。「物語」と「コンテキスト」を同義として使うこと自体は、あまり異論なく納得できると思います。

そのうえで、まずは宗教の権威について考えてみます。つまり、なぜ宗教においては権威があるのか、という点です。

多くの宗教組織において、教祖を頂点とする階層的な構造を持っていることは今更説明するまでもないでしょう。僕自身は、各宗教についてそこまで詳しいとは言い難いですが、(たとえその宗教が人の平等を謳うものであっても)教祖 - 聖職者 - 信者のような階層的構造が一般的にみられることは疑いのない事実でしょう。ここでの問題は、その上下関係は何によって決まっているのか、という問いです。

この問いに答えるヒントが、本で書かれている「宗教は真理を探すゲーム」だという考え方です。みんなが同じ目標・ゴールを目指すゲームにおいて、その上下関係を決めるものは何か。それは到達度、つまりゴールまでの近さです。そう考えた時、宗教というゲームにおいて上下関係を決めているのは「真理までの近さ」だということがわかります。言い換えれば「物語」= コンテキストをどれだけ深く知っているか、です。

聖職者がさまよえる子羊を導くことができるのは、一般信者よりも、真理を、そしてその宗教のコンテキストをよりよく知っているからです。もし、信者が聖職者よりも真理に近い側にいるならば、あえて聖職者に頼るまでもなく、自分を善い方向に導くことができるはずです。そうしないのはひとえに、聖職者が信者よりも深く真理・コンテキストを知っている(と信じている)からに他なりません。

そうであれば、このゲームに勝つ(=より真理に近い側にいる)ための戦略は明らかです。それは自分が得た真理やコンテキストについての知識を秘匿するという戦略です。なぜなら、自分の持っている真理についての知識を全てがオープンにすることは、他のプレイヤーを自分と同じレベルまで引き上げることになるからです。

先の例にも書いた通り、信者全員が聖職者と同レベルになったならば、その聖職者が聖職者である根拠が無くなります。だからこそ、聖職者は自分の持っている知識を信者にそのまま明け渡すようなことはしないのです。つまり、宗教における権威とは、真理やコンテキストについての情報量だと言えるというわけです。

ここからわかることは、宗教における権威の本質は真理・コンテキストについての情報の秘匿だということです。全ての真理を知る(と信じられている)教祖が、その断片をその取り巻き(聖職者)にほのめかす。さらに、それを聞いた取り巻き(聖職者)が信者たちにその断片の断片をほのめかす。そのようなコンテキストのカスケード的な伝達、それこそが宗教における権威の本質だという仮説が建てられるわけです。

そしてそれと同時に、同様の戦略は哲学には通用しないこともわかります。なぜなら、本質をいかにうまく・もっともらしく説明するかが哲学のアプローチであるため、秘匿された説明はそもそも、もっともらしさを得ることができないためです。哲学において、もっともらしさという信頼を得るためには、そのロジックをオープンにせざるを得ません。それであるがゆえに、宗教で権力者がとる「秘匿」という戦略をとることは、哲学では原理的に不可能です。

閉鎖的コミュニティと宗教のアナロジー

さて、ここで現実問題に戻ってきます。現代日本に住んでいると、宗教それ自体に触れることは多くないと思いますが、上記の考察から得られた推察を、いわゆる村社会と呼ばれる閉鎖的なコミュニケーションのあり方の理解に援用したいと思います。結論から言うと、このようなコミュニケーションの作法の背後には、コンテキストの共有と秘匿があるということです。

それでは、村社会のいくつかの特徴を見ながら、宗教との類似性について考えてみましょう。

まずわかりやすいのが、よそ者に対する不寛容です。これが、村社会の典型的な望ましくない側面であることは言うまでもないでしょう。なぜ、閉鎖的な村社会においてよそ者が嫌われるのか。それは村社会がコンテキストの共有を原則としているからに他なりません。

コンテキストの共有に依存するコミュニケーションの作法に慣れた人にとって、コンテキスト外の人と意思疎通するためにはかなりの苦労を要します。最もわかりやすい例は言語です。海外の人とコミュニケーションするためには、他言語の習得が必須となり、仮に取得できたとしても母国語のようにストレスなく話せるレベルまで上達するのは簡単ではありません。

また、村社会における宗教との類似点として、噂話(ゴシップ)を知っていることの強さが挙げられます。閉鎖的な村社会においては、ゴシップが飛び交い、その情報をよく知っている情報屋のような人が権威を持つ傾向があります。だからこそ、人はゴシップを求めるのでしょう。

これは、中学や高校のスクールカーストで顕著であると言えるかも知れません。たとえそれがどうでもいい情報であろうと、カースト上位は情報強者・カースト下位は情報弱者というような構造には身に覚えのある人も多いと思います。宗教の権威構造がコンテキストの情報量に相当するという考えに則るなら、閉鎖的コミュニティにありがちな情報量による強弱関係もまた、宗教との類似性と言えるのだと思います。

また、これも中高生にありがちな、いつも友達と一緒にいないと不安、という感情もまた、このロジックで説明できます。この感情は要するに、自分の知らないコンテキストが生まれることに対する恐怖だと考えられるわけです。コンテキストの情報量の多寡がコミュニティ内の強弱に直結するならば、自分の知らないところで大きなイベントが起こることは、自分のコミュニティ内での立場を脅かします。

さして行きたくもないのに、みんなが行くからと言うだけの理由で出かけた経験がない人はあまり多くないでしょう。また、仲間内の飲み会で、さして飲み足りないわけでもないのに、ダラダラと二次会・三次会と参加してしまった、という経験を挙げれば枚挙にいとまないはずです。僕自身にも当てはまる経験は多くあり、その根底にある心理は、自分のいないところで面白いことが起こってほしくない、というものだったのかも知れません。

そして、もはや現代日本を象徴するキーフレーズである「空気を読むこと」を強いる社会もまた、宗教のテーブルと同じ構造であると考えられます。「空気を読む」ことで、その場で求められるコンテキスト通りに振る舞うことを要求されるわけですが、そこにある困難の本質は、従うべきコンテキストが秘匿されていることです。

多くの場合、それは権威側の人間が気にいるかどうかであるわけですが、権威側が何を求めているかは決して明かしてはくれません。なぜなら、それを秘匿していること自体が権威の根拠となるからです。自分の行動が、秘匿されている真理・コンテキストに従っているかどうかをびくびくしながら生きるつらさ、そしてめんどくささ。それが、コンテキストの秘匿という宗教的な権威構造と結びついている、というわけです。

ここまでの話をまとめましょう。ここで言いたかったのは、明確な教祖の存在の有無は別として、コンテキストという面で言えば宗教と村社会内のコミュニケーションの作法は非常に似通っているということです。これまで見てきたように、閉鎖的なコミュニティのあり方の根底にあるのは、コンテキストの共有と秘匿にある、と考えられるのです。

異なるコンテキストを持ち寄る場

ここまで読んで頂ければ分かるように、僕はこの閉鎖的なコミュニケーションのやり方に対して嫌気がさしていたし、今でもそれが要求されるシーンになるとうんざりしてしまいます。

これは昔からですが、僕はもともと、高度にコンテキストの共有に依存する、ハイコンテキストなコミュニケーションが苦手でした。具体的に言うと、今で言うところのTwitterやLineのようなものです。今でも、Lineのグループ会話などでは、自分の投稿だけがやたら長文になってしまって、いたたたまれない持ちになることは多いです。

ハイコンテキストなコミュニケーションは気楽ではありますが、気楽であるがゆえに排他的にならざるを得ません。よそ者に対する不寛容の部分でも議論したように、コンテキストを共有しない・できない人はそこから排除される運命にあります。

また、そのコンテキストの共有を要求するがために、そのコンテキストに対する全面的なコミット(二次会・三次会までのエンドレスの付き合い)が求められます。表面的には気楽であったとしても、僕にはそれが理想のコミュニケーションの形だとは思いません。

では、どうすればいいのか。閉鎖的コミュニティが宗教のテーブルに対応するのであれば、答えは明らかです。

つまり、宗教のテーブルの逆を行けば良い。それは言うまでもなく、哲学のテーブルです。哲学が「物語=コンテキスト」を前提としないことは既に述べた通りです。コンテキストを前提に語るのではなく、逆にコンテキストを廃して論理的に話そうと努力する…それが僕が求めるコミュニケーションのあり方です。

論理的であると言うと、冷たく、人間的でないイメージを持たれる方も多いかも知れません。しかし、僕の考えは全く逆です。論理的であると言うことは、コンテキストを共有しない相手であっても理解できるような言葉を使う、ということであり、そこには、わかりあえない存在となんとかしてわかり合いたい、という熱い意志を感じます。

今回のコラムで言いたいことをまとめましょう。僕は「コンテキストの共有に依存しない場」を、そのような場でこそできるコミュニケーションを求めています。閉鎖的なコミュニケーションにうんざりし、その排他性に嫌気がさしているからこそ、哲学のテーブルが必要だと思うのです。

もちろん、それが万能であると言うつもりはないし、筆者が述べているように、哲学のテーブルにも、難解になりすぎることや、それに伴う権威化の傾向にも注意が必要です。一方で、宗教のテーブルも完全に否定されるべきものではなく、非常に限られた領域においてハイコンテキストなコミュニケーションに興じることまで制限する必要はないでしょう。そもそも、言語や逃れられぬ常識の檻に囚われている以上、完全にコンテキストを廃することは不可能です。

それでも僕は、あまりにも深くコンテキストの共有を求める現代のコミュニケーションのあり方は、変えていく必要があると信じています。コンテキストの共有を前提とせず、出入り自由で、連続性も全面的なコミットも要求しない場、そういう場を創るために努力したいと思っています。むしろ、コンテキストを共有せず、異なるコンテキストが集まるからこそ生まれる新しい創造力に期待したい…それが現在の僕の思いです。

まとめ

今回は『中学生からの哲学「超」入門』を読んで考えたことを書いてみました。自分が哲学というものに本格的に興味をもったきっかけとなる本でしたが、「宗教」と「哲学」の比較を考えることで、また少し見えてきたこともあったと思います。

このブログを継続して読んでいる方は気づいた方もいるかも知れませんが、今回のブログで話題にした「コンテキストの共有」という表現は、このブログで繰り返し論じている「共感」というキーワードと非常に親和性が高いと言えます。この「コンテキストの共有」と「共感」の関係については、また別途考察したいと思います。

それでは、また!