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【読書コラム】すばらしい新世界 - 白馬の王子様のジレンマ

こんにちは!
今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はイギリス作家オルダス・ハックスリー氏の小説『すばらしい新世界』(講談社文庫)。1932年に世に出された小説ですが、未だに読み続けられているディストピアSFの金字塔的な存在と言っていいでしょう。

この小説で描かれるのは、極めて合理的であるにも関わらず、我々の視点から見るとひどくグロテスクで不気味な世界です。風刺と皮肉に満ちた「すばらしい新世界」。僕はこのような「なんとなく気持ち悪いけど、それが言語化できない」タイプの物語が好きで、その感情を深堀りしていくと、自身や社会の価値観が浮かび上がってくるのが面白いと感じます。

ということで、今回はこの「すばらしい新世界」についてコラムを書いていきたいと思います。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。 本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

3. ネタバレ
今回は小説の結末やストーリーの核心につながるようなネタバレは含みません。大まかな登場人物と世界観についての解説程度なので、実際の読書の楽しみを奪うようなレベルではないと思います。どうしても気になる方以外は、特にナーバスにならなくても問題ないと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

総括

今回のコラムでは、「すばらしい新世界」の脆弱性と、我々人類に課せられた欲望のシステム、そしてそれを現実の人間関係にどう活かしていくべきかを考えてみたいと思います。

今回の僕の結論は「いつでも自分の欲望を満たしてくれる人のもとに幸福はない」というものです。この表現がわかりにくければ「いつでも自分の欲望を満たしてくれる人」を「白馬の王子様」や「何取り柄もない自分を全肯定してくれる美少女」と言い換えても構いません。

これは「身の丈に合わない理想を追い求めるべきではない」「あなたの欲望を本当の意味でわかってくれる人など存在しない」というような言説とは異なるレイヤーの問題です。身の丈に合おうと合うまいと、たとえそのような存在が現実にいたとしても、その人に庇護されることは幸福には直結しないのではないか、というのが今回の論点です。

それでは、詳しく見ていきましょう。

「すばらしい新世界」

この小説で描かれる世界を端的に表すと「極めて高度に管理された階層社会」と言えるでしょう。その構造は、支配者たるフォードを頂点としたピラミッド状となっており、人は生まれた時点でアルファ・ベータ・イプシロンなどの階級に分けられます。さらに、人の誕生は支配層に完全に管理され、人は母体ではなく壜の中から生まれてきます。物語冒頭で語られる、人間の「人工孵化・条件反射育成所」の描写は、現代を生きる我々からみるとグロテスクの一言です。

それでも、ここまでならありきたりな階級社会への風刺小説にすぎません。ここで描かれる管理社会が、現実世界での近代資本主義への当てつけであることは間違いないのでしょうが、それだけで終わらないのがこの小説の面白いところです。

その特筆すべき設定とは、各階級の人たちが、生まれた時点でその感情についての条件付けをなされる、ということです。具体的には、それぞれの階層の人たちが、自分の階層であることが幸福と感じるように刷り込みがなされます。この条件付けによって、それぞれの階級は、他の階層への嫉妬心を持つことなく、幸福に生きられるという訳です。

さらに、もう一つの面白い設定は、副作用のない麻薬である「ソーマ」の存在です。もし、なんらかの要因で人が精神的に落ち込むことがあったとしても、この薬品によって容易に立ち直ることができるという設定です。以前、「天才感染症」のコラムでも少し話題にしましたが、この設定が非常に興味深い。

言うまでもなく、現実世界で麻薬(覚せい剤等のドラッグを含む)が忌避される根拠は、その有毒性に他なりません。裏を返せば、もし副作用が無いドラッグというのが存在すれば、それに対して文句をつける根拠は全くないと言えます。この記事を最後まで読んで頂ければなんとなくピンとくるかも知れませんが、この「ソーマ」という物質は物語全体の構造を象徴する存在であると言えるでしょう。

いずれにしても、この「すばらしい神世界」が、現代を生きる我々にとって不気味なものに写るのは無理もありません。もし自分がこの世界の住人だったと想像すると、なによりも、その自由のなさに耐えらないと考えてしまいます。

しかし、ここで疑問が湧いてきます。つまり、我々からすると不気味な世の中でしか無いものの、中で生きる人たちがそれぞれの人生を幸福に感じている以上、そこに難癖をつける合理的根拠はないのではないか、ということです。

あくまでも思考実験でしかありませんが、このような世界に対して現代人が「国民の自由を大事にするべきなので、こんな世界はやめるべきだ」と言って、自由と引き換えに多くの人から幸福を剥奪するのは、果たして本当に正しい行いなのだろうか。これがこの本を読んでからずっと僕が考えている論点です。

不幸になる権利

さて、ではこの世界の何がいけないのでしょう。作中に出てくる一部の人を除いて殆どの人が幸せに暮らし、もしなにかの理由で突発的に苦しい状況に立たされても1 gのソーマを飲めばいい。人間たちの幸福が担保されている世界に対して、我々は合理的に反論することはできるのでしょうか。

もっとも単純な答えは、この世界は何もいけなくはない、ということです。つまり、この世界が気に食わないのは単なる我々の価値観の問題であり、この世界に対して反対する根拠などどこにもないということです。現代の我々が信じている個人主義・自由主義的な考え方は普遍的な価値観などでは全くなく、せいぜいここ100〜200年くらいで広まった考え方に過ぎません。そんな、未成熟な価値観を元に、幸福な世界を断ずる権利などないようにも思います。

おそらくこの答えは、これはこれで間違っていないのだと思います。気づいた方もいるかも知れませんが、この構造はイスラム原理主義を貫こうとするアラブ諸国に対し、西側諸国が男女平等や一夫一妻制を強要するのと同じような構造と言えるでしょう(現実問題の場合、本当にそこに暮らす人々が幸福であるのか、というレイヤーの問題があるので、より一層複雑です)。

とはいえ、ここで「この世界は正当である」としてしまうと、ここで記事が終わってしまいます(笑)。もう少し思索を試みてみましょう。

思考のとっかかりになるのは、とある登場人物が支配者に向けて放った印象的な一言です。

「わたしは不幸になる権利を求めているんです」

非常に盛り上がる場面でのセリフなので、物語の詳細は忘れていても、このセリフは覚えているという方も多いかも知れません。このコラムを書くにあたって改めてこのセリフを読んだ時、ある一つの考え方が頭の中で想起されました。それは「失敗学」の概念です。

「失敗学」とは、日本の東大教授・畑中洋太郎氏が提唱する概念で、起こってしまった失敗を直視し、そこから学ぶ学問分野のことです。この「失敗学」では、一般にネガティブなものとして捉えられがちな失敗を、新たな発見の機会としてポジティブに捉えることの重要さを説き、失敗からこそ創造が生まれるとしています(失敗学についての詳細は「失敗学のすすめ」(講談社文庫)を参照ください)。

この「失敗学」から学べることは、約束された無難な成功に甘んじている人は、失敗を恐れず、それに向き合う人には太刀打ちできないということです。つまり、本当の意味での成功は、失敗を通してしか得られないことを示唆しています。

ここで、一つのアナロジーを使います。すなわち、上記の文で「成功」を「幸福」、「失敗」を「不幸」と読み換えます。そうすると、作中で語られた「不幸になる権利を求めている」というセリフの真意が見えてきます。

約束された「幸福」に甘んじている人は、「不幸」を恐れず、それに向き合う人には勝てない…
本当の意味での「幸福」は、「不幸」を通してしか得られない…

おそらく、これこそがフォードの帝国を突き崩す上でのキーポイントです。

カリフォルニアイデオロギーの強さ

この小説世界がどうなるかは置いておいて、ご存知の通り、現実世界では近代管理主義は敗北を喫しました。厳格な管理のもとでの「無難」な経営で行き詰まりを見せた多くの大企業が、ある勢力の台頭によって、その方針の変更を余儀なくされています。

近代管理主義を崩したのは、言うまでもなくカリフォルニアイデオロギーです。GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)を始めとするシリコンバレー流の新興企業が台頭し、スーツに身を包んだ管理主義をあざ笑うかのごとく、ジーパンにTシャツ姿で軽やかに急成長を果たします。

彼らの強さの源泉は何だったのか。改めて言うまでもなく、それについての言説は世の中にあふれかえっています。しかし、僕が彼らの強さの本質だと思っているのが、彼らが失敗の重要さを知っていた、ということです。これらの新興企業は一直線で成長してきたわけでは全くなく、細かくチャレンジを継続し、失敗したり成功したりを繰り返して世界経済の頂点にたちました。

Googleが運営していたSNS「Google+」、未だに成功しているとは言い難い「Apple watch」など、彼らにも、はたから見れば黒歴史ともいうべき製品・サービスは数多くあります。しかし、彼らは黒歴史を直視し、時に損きりをしたり、時にさらなる改良をしたりしながら前に進んできました。だからこそ、ここまで発展できたのではないか、それが僕の考えです。

GAFAの一角であるアマゾンの経営方針は、利益ではなく、フリーキャッシュフローの最大化であることは有名な話です。失敗学におけるキャッシュの大事さは以前の「失敗学のすすめ」についての記事でも書いた通りです。フリーキャッシュを増やして、チャレンジのもととなる原資を確保する。そしてそれを使って細かく成功と失敗を繰り返しながら規模を拡大していく。これがアマゾンの基本戦略です。これを見れば、彼らが「失敗すること」の重要さを十分に理解していることがわかるでしょう。

ここまでくると、「すばらしい新世界」におけるフォード帝国の脆弱さがわかります。つまり、約束された幸福のもとで暮らす人は、不幸を受け入れ、それを糧に前に進む人には勝てないということです。高度に管理された帝国内を安定させることはできるかも知れませんが、その安定が故に、(不幸を受け入れる覚悟を持つ)外部からの侵略にはひどく脆いのです。

一応ここで言及しておきますが、僕は必ずしもシリコンバレー的なイデオロギーを全面的に礼賛するつもりはありません。GoogleとAmazonについては僕自身がヘビーユーザーなので文句を言うのは心苦しいのですが、彼らのやり方が正義であるという確証は未だにもてずにいます。もしかしたら、彼らは「すばらしい神世界」以上に、世界を悪趣味に作り変えているのかも知れません。まあ、いずれにせよ今回の記事とは直接は関係ないので、ここではあまり深入りはしないこととします。

不確実性への欲求

「すばらしい神世界」の脆弱さがわかったところで、次に、我々がこの小説に感じる気持ち悪さの源泉も合わせて考えてみましょう。

「すばらしい神世界」の弱点は、約束された成功に対する、失敗を伴う成功の優位性です。ここで、先に使った言い換えを再利用しましょう。つまり、「成功」と「失敗」の、「幸福」と「不幸」への置き換えです。

『約束された「幸福」に対する、「不幸」を伴う「幸福」の優位性』。僕がここから連想するのは、ギャンブルです。なぜ、人類社会では古今東西どんな社会でもギャンブル依存症が発生するのか、それは、ギャンブルが「ランダムな報酬=不幸を伴う幸福」を与えてくれるのが要因の一つだと考えられています。報酬がもらえるかどうかわからないスリルが人をギャンブル依存症に導いてしまうというわけです。

ランダムな報酬は、なにもギャンブルだけに限った話ではありません。一時期その射幸性の高さが問題になったスマホゲームのコンプガチャや、SNSにおける「イイね」という報酬もまた、その典型と言えるでしょう。そして、人類の発展に伴って行ってきた狩猟採集、農耕、そして現代におけるビジネスもまた、ランダムな報酬という特性を持っています。今日の起業家をビジネスに向かわせている力もまた「ランダムな報酬」といえるのかも知れません。

ここで、発想を逆転させます。

つまり、人類の歴史の中で狩猟や農耕、ビジネスなど「ランダムな報酬=不幸を伴う幸福」を好む人は生き残りやすかった。だから、それを引き継いだ我々は不確実性を求める傾向にある…

この考え方にはなんら根拠はなく、単なる一つの仮説に過ぎません。ただ、こう考えると「すばらしい神世界」に感じる我々の気持ち悪さが説明できます。つまり、我々は「幸福」を求めているのではなく、「不幸を伴う幸福」を求めているのであり、約束された「幸福」はその人間の特性にそぐわない、というわけです。

このコラムの冒頭で、自分がこの世界にいたら「自由のなさに耐えられない」だろうと書きました。しかし、おそらくその指摘は正しくなく、耐えられないのは「自由がないこと」ではなく「不確実性がないこと」ではないかと思うのです。

我々がフォード帝国に感じる嫌な感じは、なによりも、不確実性を求める人類の特性と相いれないからではないでしょうか。

白馬の王子様のジレンマ

さらに思索をすすめ、ここでもっとも身近な不確実性を考えてみます。それは、すなわち「他者」です。

我々が不確実性を求めるのだと仮定すると、他者とのコミュニケーションを求める欲求もまた、同じ文脈で説明できます。なぜなら、他者とは自分とは本質的に相いれない存在であり、避けられない不確実性をもつものだからです。わかりあえない「からこそ」、人はコミュニケーションを求める、とも解釈できるという訳です。

DV男に依存してしまう女性はまさにその典型といえるでしょう。はたから見れば、なぜそんな人に依存してしまうのかと考えてしまいますが、その依存症の本質はやはりランダムな報酬=不確実性です。その時の男の気分という不確実な要素によって、優しさという正の報酬がもらえるか、暴力という負の報酬が貰えるかが決定するという構造を持っているが故に依存してしまうのです。

また、個人的にものすごく嫌いな物言いではありますが、男女交際は付き合い始めが一番楽しいという話はよく耳にします。人が不確実性に快楽を覚えるのであれば、お互いの関係が確定するまでの期間(不確実性が高い期間)が楽しいのは、ある意味合理的なのかのかも知れません。

このように、人間が不確実性に惹きつけられるという仮説が正しいとすると、以下のことが言えます。すなわち、

自分の欲望をいつでも満たしてくれる存在は幸福をもたらさない。

これは、「すばらしい神世界」における、約束された幸福に対して反感を覚える人類の特性と全く同じ構造です。

もちろん、自分の欲望を満たしてくれる存在がそばにいることは、短期間においては満足が得られるかも知れません。しかし、それがどんなに慈悲深いものであったとしても、時間が経つにつれて飽きがくるのは想像に難くないでしょう。

人は、白馬の王子様のごとく、自分の全てに共感し、察してくれる人を求めてしまうものです。しかし、仮にそれが手に入ったとしても決して幸福にはなれない。これは「白馬の王子さまのジレンマ」とでも呼ぶべき葛藤です。

約束された成功を求めて大企業に入ったものの、そこに不安を覚えたり、そんな人生に嫌気がさしてしまうのも同じような感情に基づくといえるでしょう。僕は、そもそも「約束された幸福」などというものは幻想だと思っていますが、それ以前の問題として、仮にそれが手に入ったとしても決して幸せにはなれないのではないか、というのが僕の立場です。

ここで一点断っておきます。「白馬の王子様」という表現がわかりやすいので女性目線の話が多くなってしまいましたが、これはもちろん男性だろうとそれ以外の方であろうと同じです。むしろ、男女関係に限った話ですらなく、あらゆる人間関係に等しく当てはまるものだと考えられます。

さて、ここで今回の結論を再度まとめたいと思います。つまり、「いつでも自分の欲望を満たしてくれる人のもとに幸福はない」ということです。

もちろん、DV男に依存するのが好ましいありかただというつもりは全くありません。お互いのことを尊重し、大切にしつつも、あくまでも他者としての一線は超えず、理解しようと不断の努力ができる関係が理想ではないか、というのが僕の考えです。

幸い、他者とは本当の意味で理解しあうことはできないので、どんなに年月を重ねたとしても不確実性が消えることはありません。むしろ、ある程度の閾値を超えたら、互いの経年変化に伴って、不確実性は高まる方向に行くことすらあるのかも知れません。

繰り返しますが、僕は、他者とはわかりあえない「からこそ」人は交流を求めるのだと思っています。自分の思い通りになる予定調和(白馬の王子様)に甘んじることなく、その不確実性を受け入れる覚悟ができると、むしろその不確実性を楽しむことができる、そんな風に考えているのです。

まとめ

今回はオルダス・ハックスリーの「すばらしい神世界」を読んで考えたことを書いてみました。初めて読んだ時から引っ掛かりが抜けない作品ではありましたが、今回コラムを書くことで、多少なりとも喉に引っかかった棘が低減したような気がします。

他者性に関する話はこのブログでも度々話題にしていますが、今回「不確実性への欲求」という視点を導入することで、ぐるぐる停滞していた思考を半歩くらいはすすめられたかなという気はしています。他者性とコミュニケーションについては、僕の中での一つのおおきなテーマとなっているので、継続して考えていきたいところです。

それでは、また!