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【読書コラム】結晶世界 - 可能性の魅力とモラトリアム

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本はSF作家J・G・バラード氏の長編小説「結晶世界」(創元SF文庫)。J・G・バラード氏の小説としては以前「ハイ・ライズ」(創元SF文庫)でもコラムを書きましたが、なかなか癖のある表現と退廃的な作風が特徴の作家です。今回の「結晶世界」も、読んでいる最中はなかなかその内容を解釈することができなかったわけですが、この記事を通して、自分なりの解釈とそこから派生して思うことを書いていきたいと思います。

 

今回はあまり小説の物語に踏み込んだ表現はしないので、そこまでネタバレは気にしなくても問題ないと思います。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

冒頭に書いた通り、今回はネタバレについてはあまりナーバスになる必要はないと思います。どうしても気になる方は読むのを控えていただくのがいいかと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のコラムの主題は、我々人間が持つ「可能性」を追求するという特性と「選択」についてです。これが「結晶世界」とどう結びつくのかは追々説明していきますが、この物語で示唆されている「無限の可能性を持つ不死性の魅力」を読み解いた上で、もう少し身近なところで思うことを書いていきたいと思います。

 

今回僕が言いたいことは、「可能性を捨てる勇気を持ち、選択のエラーに対して寛容であることが必要だ」ということです。この本を読んだ方は、ますます小説の内容との関係がわからなくなったかも知れません。かなり深読みの部分はあるとは思いますが、最後まで読めばそれなりに納得いただけるのではないかと思います。

 

それでは、ここから詳しくみていきましょう。

 

結晶世界

まずは本作品の内容から簡単に解説したいと思います。

 

本作の主人公はハンセン病の医者・サンダース。この主人公の医者が仕事上の目的と個人的な目論見のため、アフリカのモント・ロイヤルという街を訪問するところから物語は展開されます(Google検索をかけてみても引っかからなかったので、おそらく架空の地名だと思います)。

 

そこで主人公が目の当たりにしたのが結晶化であり、ここで展開される世界観こそがタイトルになっている「結晶世界」です。森林を構成する草花や、生きた人間の一部がまるで宝石のような結晶に変化するという不思議な現象。

 

この小説は、そのような不思議な現象が起こる森林を舞台に、主人公やそれを取り巻く人物たちの人間関係を描いています。不倫や行きずりの愛などの複雑な男女関係、ハンセン病治療という微妙な仕事上の立場、宗教信仰上の倫理、そして結晶化する森林の美しさに魅入られた人々。そんな、繊細で微妙な人間関係を描き出しているのが「結晶世界」という小説です。

 

僕がこの本を読んだ時に印象的だったのは、なんと言っても、結晶化された森林の幻想的な描写の美しさです。数々の宝石を例えに出しながら、繊細なガラス細工かのように森林を描く描写が非常に美しい。

 

しかし、一方でその複雑な人間関係に関してはあまり深く理解できなかったのが正直なところです。現代日本に生きる僕にとって、ハンセン病があまり馴染みないことも関係あるかも知れませんが、登場人物たちの行動原理がイマイチ理解できず、やや置いてけぼりになってしまった感があります(訳がやや古いことも関係あるかもしれません)。

 

いずれにせよ、今回はこの物語における「結晶化」という現象から思索を広げていきたいと思います。

 

結晶化という現象

 この小説を初めて読んだ時、この結晶化という現象は、豪華絢爛な生活の象徴という程度の解釈しか持っていませんでした。この結晶化についてもう少し詳しく考察するために、文中の表現をいくつかピックアップしてみましょう。

 

「つまり、あらゆる物質の根元をなしている、原子よりもこまかな本体が実際に増殖したもの、と考えているわけです。同一物体のずれてはいるがどれも似たような映像が、いくつも連続して、プリズムをとおしての屈折によって生じているらしいんです。もっとも、その場合、時間の要素が光の役割の代用をはたしているようなんですがね」

 

「ビールスには、水晶状の構造があり、それが生物でも無生物でもないんです。ビールスは時間にたいして免疫じゃありませんか!」(中略)「あんたもわたしも、やがてあんなふうになってしまうんです。世界じゅうがああなってしまうんです。生きているのでもなく、死んでいるのでもないああいう状態に」

 

「宇宙内に反銀河系が誕生したことによって生じたこの類の乱れた流出こそ、われわれ自身の太陽系の物質が利用できる時間ストックの枯渇をもたらしたものなのです。」

 

未読の方もなんとなくわかったと思いますが、さらっと読んでいるだけだと何が何だかよくわからない説明です(笑)。作者のバラードがどのような意図を持ってこの結晶化を描いたのかは定かではありませんが、改めてこの本を読む中で、自分なりの解釈をしてみました。

 

そこで得た結論は、結晶化とは無限の時間の内包であり、その状態が固定されることではないかということです。プリズムが光を屈折させて無限の色彩を表現するように、結晶化とは、ずれた時間を重ねることにより、起こり得る未来の無限の可能性を映し出し、それによって生じた無限の可能性が時間の枯渇をもたらすということです(自分で書いていてなにがなんだかわからなくなってきます(笑))。

 

かなり強引な解釈だとは思いますが、こう考えると、結晶化した森に魅了される人々が表すメタファーが浮かび上がってくるように思います。そのメタファーとは、無限の可能性を目の前にして、その全て可能性を破棄することなく、態度を留保しつづけることの魅力です。

 

可能性の魅力とモラトリアム

前章にて「態度を留保しつづけることの魅力」と書きましたが、それがいまいちピンとこないかもしれません。しかし、一時期話題になったフリーターのモラトリアム的な態度を思い出していただければなんとなく理解できると思います。

 

将来への無限の可能性を持つ学生が、 その選択肢を先送りにしたまま定職につかずに、フリーターを謳歌する。なにかを選択することは別の可能性を破棄することに他ならず、その事実から目を背けるために宙ぶらりんな状況を甘受する。これこそまさに、無限の可能性と、その選択を留保する態度に他なりません。その姿勢に賛同できない人も多いと思いますが、その状態を魅力的だと思う気持ちは理解できるのではないでしょうか。

 

すなわち、無限の可能性はあるけども、痛みを伴う選択はせずに、態度を留保しつづけることの魅力です。シーナ・アイエンガーというコロンビアビジネススクールの教授は「選択の科学」(文春文庫)という書籍の中で、人間は選択肢を出来るだけ増やしたいという特性があること、そして、それに反して選択肢が増えすぎると人は選択できなくなるというジレンマを指摘しています(以前のコラムで言及したジャムの実験もこの方の実験が元ネタです)。

 

ここから分かるのは、人間は沢山の可能性自体に魅力を感じるのであり、その中から選択することは求めていない、ということです。ナンセンスに感じるかもしれませんが、これが人間の特性なのでしょう。旅行や文化祭は当日よりも準備している時の方が楽しい、という話をよく聞きますが、それもこの特性によるものなのかもしれません。深読みかもしれませんが、「結晶世界」において結晶化された森林に魅了される人々は、人間のこんなナンセンスとも言える特性を描いているのではないか、そんな気がするのです。 

 

結晶化の魅力への反抗

さて、問題はここからです。この小説では結晶化によって「生きているのでもなく、死んでいるのでもない」状態に突き進んで行った人々ですが、現実はそうはいきません。当たり前のことですが、永遠にフリーターでいることは困難を伴うように、永続的な選択の留保は現実的ではありません。

 

念のために書いておきますが、僕は永続的にフリーターでいること自体を否定するつもりはありません。それ自身を主体的な自らの選択として選んでいるのであれば全く問題ないことですし、そもそもある人が他人の生き方を否定する権利はないと思っています。ただ、いつまでも現実に向き合わず、留保だけを続けることは困難を伴うのではないか、と指摘しているだけです。

 

やはり難しいのは他者の存在と限りある資源の問題です。世の中に自分一人しかおらず、食料をはじめとする種々の資源が無限にある状態であれば、選択の問題をことさら気にする必要はありません(そもそも、そんな状況であれば選択自体がありえないのかもしれませんが)。しかし、現実には社会と切り離されて生きていくことはできませんし、有限の資源をどのように確保するかという問題が残ります。だからこそ、人は日々、選択を強いられているわけです。

 

そんな世の中を生きている我々は、無限の選択肢と選択を留保する誘惑に勝つためにどうすれば良いのでしょうか?

 

個人レベルできることは、生命の有限性を意識することだと思います。日々変わり映えのない日常を送っていると見落としがちですが、(当たり前ですが)人間の人生は有限なので、時間が経つごとに選択肢の数はどんどん目減りしていきます。ありきたりな物言いではありますが、選択を留保するということは、選択しないという選択を日々しているとも言えるわけです。

 

そのような意識を持つことで、永遠に選択を留保することの危うさが意識できるのではないか、と思うのです。選択を無意味に先送りにすることは、なにかを決めること以上に自分の可能性を狭めることになりうるので、しかるべきタイミングで勇気を持って選択することが大事です。

 

そして社会レベルで求められることは、選択への寛容性だと思っています。バブル崩壊後の社会で見られたモラトリアムという現象は、なによりもその選択の大きさによるところが大きいのではないかと思うのです。大学を出たばかりの20歳そこそこの学生が、人生の半分以上を過ごすことになるであろう会社を決めることは、はっきりって大ばくちもいいところです。特に、今のように転職が市民権を得ているわけではなく、転職した人が奇異の目で見られていた時代にはなおさらです。

 

そのような状況においては選択できないのはある程度仕方がないと言えるでしょう。そして、仮に選択をできたとしても、そんな状況下において冷静に判断をすることは難しい。

 

だからこそ、選択の失敗に対する寛容が必要だと思うのです。それを選んだのは自分であるという自己責任論から脱却し、どんな理由であれ選択を間違えた人に対するセーフティネットは重要です。選択した後にしかわからない事実もありますし、そもそも未来のことなど誰にも予測はできません。

 

就職に限らず、人生を賭けた大博打には尻込みするのは当たり前ですし、追い詰められた状況で合理的な判断ができる人は多くありません。だからこそ、たとえ失敗してもやり直しができるような環境を作ることが求められると思うのです。そうすることで、選択のハードルを下げ、冷静な判断を促すことができるのではないでしょうか。これが冒頭に書いた「可能性を捨てる勇気を持ち、選択のエラーに対して寛容であることが必要だ」という言葉の意味です。

 

最近の身近な例としては、7payの話なんかが象徴的だったと思います。導入から瞬く間に廃止に至らしめた経営者たちを無能と嘲笑するのは簡単です。しかし、選択を留保して緩やかな腐敗に身を置く立場から選択の末の失敗を嘲笑することは、世の中の「結晶化」を助長することに繋がります。

  

もちろん、個人と法人の活動は全く異なりますし、実際にそれによって大きく損害を受けた立場であれば、考え方はまた違ってくるとは思います。それでも、第三者の目線から7payを嘲笑するような世の中は、「結晶化」の一途を辿るのではないかと思うのです。僕個人としては、気軽にチャレンジし、気軽に失敗できる世の中が必要ではないかと思っています。

 

まとめ

今回はJ・G・バラード氏の「結晶世界」を読んで考えたことを書いてみました。かなり深読みをしてしまっているのではないかという自覚はあるものの、本から得られたインスピレーションから思索を広げていくこと自体は悪いことではないでしょう。

それでは、また!