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【読書コラム】The Indifference Engine - 自己愛の役割

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は伊藤計劃さんの短編小説「The Indifference Engine」(早川書房)。このブログを読んでいる方であればご存知の通り、筆者の伊藤計劃さんは僕の大好きな作家さんなのですが、先日始めてこの短編小説を読み、その内容に衝撃を受けました。今回はこの小説を読んで考えたことを書いていきたいと思います。

 

ちなみに、以前同作家の「ハーモニー」について書いたコラムは下記ですので、興味ある方は、そちらも読んでいただけると嬉しいです。

【読書コラム】ハーモニー - 意思と現象のディスハーモニクス - たった一つの冴えた生き様

  

今回はこの短編小説の核心部分に関わるネタバレを含みますので、気になる方はご注意ください。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

冒頭に書いた通り、今回はネタバレについてはあまりナーバスになる必要はないと思います。どうしても気になる方は読むのを控えていただくのがいいかと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

今回のコラムの主題は、我々が個人として生きる上で重要な意味を持つ「自己愛」についてです。ここで議論する「自己愛」は、「ナルシスト」のような極端なものではなく、自分や自分の家族・自国などを大切に思うという、誰でもが持っている感情を指す言葉であることにご注意ください。

 

この「自己愛」についての考察をしたのち、いわゆる「持続可能社会」において配慮すべきことについて考えたいと思います。「自己愛」と「持続可能社会」に何の関係があるのかはピンとこないかも知れませんが、それは追々説明します。

 

今回の結論を端的にいうと、「自己愛とは過剰に増えた個体数を調整するための感情ではないか?」という仮説のもと「持続可能社会を考える上では、自己愛のはけ口についての考慮も必要である」ということです。

 

それでは、ここから詳しくみていきましょう。

 

The Indifference Engine - 公平化機関

まずは本作品の内容から簡単に解説したいと思います。

 

主人公はゼマ族という途上国の種族で、かつて対立するホア族と戦っていた少年兵士。物語は回想の形で進められ、両部族の紛争が終結したところから始まります。主人公は終戦の後に少年兵の校正施設に入るわけですが、ここで主人公が受ける医療的処置が、タイトルにもなっている「The Indifference Engine - 公平化機関」です。 

 

先進国から来た調停組織が持ち込んだこの医療処置は、ナノマシンを介して脳に影響を与え、顔の造形の違いによる人種差を認識できなくするものです。つまり、他人を見たときに、その人がゼマ族なのか?ホア族なのか?がわからなくなるので、人種による区別をせずに「公平に」他人を見ることができる、というわけです。先進国の人間は、この処置を行うことで、部族を超えて手を取り合うことができるようになるのではないか、と考えたわけですね。

 

実際にそうして手を取り合いながら復興にあたる人も大勢いたした。しかし、主人公をはじめとする少年兵達はそれを拒絶し、むしろ「公平化」処置を押し付けた社会に反逆を起こします。物語はここで終わるわけですが、皮肉なことに「公平化」処置への反逆という共通の目的のため、ゼマ族とホア族の少年兵が結果的に手を取り合う形になっていたのが非常に印象的です。

 

同氏の「ハーモニー」「虐殺器官」にも通じる哲学的な問いや、衝撃的なラスト、そして魅力的な主人公の造形に、短編ながら強く心を惹かれる作品でした。今回は、特に印象的だったセリフをベースに思索を進めていきたいと思います。

 

自己愛の役割

僕がこの短編を読んで印象的だった言葉は、とある人物の下記のセリフです。

 

「…いや、そもそもだな、俺とかお前とかいう区別だって、戦争のためにあるんだ。殺し『合う』ためには、お前と俺とが別々じゃなきゃできんからな。『俺』と『お前』が憎み合うから戦争が起こるんじゃない。戦争するために『俺』なんてものは存在するんだ」

 

ここで『俺』と『お前』の区別を生んでいるのが、今回の記事で「自己愛」と呼ぶものです。もしかしたら、「自我」とか「自意識」と呼んだ方がピンと来やすいかもしれません。また、『ハーモニー』のミァハの言葉を借りるなら「このカラダはわたしのもの」という意識と言ってもいいでしょう。

 

さて、「自己愛」についての(この記事における)定義ができたところで、話を「戦争」に持っていきたいと思います。そもそもなぜ人は戦争をしなければならないのでしょうか?

 

この問いに関連して、ピューリツァー賞を受賞したジャレド・ダイアモンドという作家の著書「文明崩壊」(草思社)の中で、気になる記述があります。それは、戦争や虐殺で崩壊する文明の要因は限られたリソースの奪い合いである、ということです。ここでいうリソースとは、天然資源やお金、労働力などを表します。

 

皆さんご承知おきの通り、基本的にはみんなで協力した方が共同体は安定します。わかりやすい例えとしては、お金をたくさん持っている人があまり持っていない人に対して融通する仕組みにより共同体全体としてのリスクを下げる、などと言ったことが挙げられるでしょう。逆に誰かが抜け駆けやズルをしようとすると、共同体全体の秩序が崩れてしまいます。だからこそみんなが守るべき法律が必要となるわけです。

 

リソースが十分にあるときはこの考え方で全く問題ありませんし、全体の最適化が最も安定した戦略になり得ます。このようなケースでは(種の保存という意味では)自己愛はあまり重要ではなく、むしろ他人との協調性が重要となります。人類が常に十分なリソースに恵まれていたならば、自己愛が高い人は生き残れなかった可能性が高いです。

 

しかし、リソースが絶対的に不足しているときには、それだけではうまくいきません。4人の共同体があり、どうやっても2人分の食料しか捻出できない、というケースを考えると、ルール無用の骨肉の争いが起こることは想像に難くありません。他人を押しのけなければ生存できない状況においては、全体最適よりも自分の生き残りを優先する方が生存確率は上がります。

 

自己愛が必要になってくるのがこのようなケースです。ご想像の通り、人類はこのようなリソース不足と、それに伴う闘争による個体数調整に頻繁にさらされながら進化してきました。僕は、これこそが人間は自己愛を持つようになった理由ではないかと思うのです。リソース不足の環境の中、種として生き残るための戦略が種族内での争いであり、その争いを生むための感情が自己愛である、これが今回の記事で言いたいことの1つです。

 

これが冒頭に書いた「自己愛とは過剰に増えた個体数を調整するための感情ではないか?」という言葉の意味です。

 

持続可能社会の必要性

さて、前章で議論してきたリソースに関連し、今回のもう一つのテーマである「持続可能社会」について考えて見ます。皆さんはこの言葉をご存知でしょうか。

 

「持続可能社会」とはここ10~20年くらいでその必要性が叫ばれている概念で、エネルギー、地球環境、食料、森林などのリソースを、半永久的に使い続けられるような社会を表す言葉です。例えば、エネルギーならいずれは尽きてしまう石油や天然ガスではなく、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを利用するようにしたり、焼畑農業のように森林を犠牲にして食料を作るのをやめたり、といった取り組みが考えられます。もちろん、エネルギーの効率的な利用として、省エネもまた持続可能社会への取り組みの一環と言えます。

 

このような社会が求められる根拠は、まさに前章で議論した内容です。つまり、このままでは、人口増加とリソースの過剰消費によりいつかはリソース不足になるのが明らかであり、その時、限られたリソースを巡って戦争などが起こる可能性が高いという事です。もちろん資源の枯渇自体も問題なのですが、完全に枯渇するずっと前の段階で熾烈な奪い合いが起こるのは火を見るよりも明らかです。だからこそ、持続可能社会の必要性が強く訴えられているわけです。

 

そして、持続可能社会の本質は、リソースの収支をトントンに持っていくことにあります。つまり、リソースの生産ペースと消費ペースが釣り合っていれば、全体としてはリソースが減らないので、社会全体は半永久的に運営できるということです。国連では、そのための開発の目標として「SDGs(Sustainable Development Goals:持続的開発目標)」が掲げられており、現代人類の最大のテーマの一つとされています。  

 

資源収支の適正化は戦争をなくせるか?

しかし、本当に資源収支を適正化し、リソースの不足をなくせば戦争はなくなるのでしょうか?

 

ここで参照したいのが、精神科医のM・スコット・ペック氏の著書「平気でうそをつく人たち」(草思社)です。この本の中では、個人および集団の邪悪(攻撃性)は肥大化した自己愛にあると結論づけられおり、これまで述べてきた内容と概ねリンクしていると言えます。問題は、このスコット・ペック氏の本の中では、特にリソース意識については触れられていないということです。

 

何が言いたいかというと、今回の仮説を正とするならば、もともと自己愛はリソースの適正化のために闘争を起こす感情であったにも関わらず、もはや自己愛自体が闘争の要因となってしまっているということです。ここから導かれることは、必ずしもリソースの適正化が闘争の根絶に繋がらないという結論です。

 

これは我々の感覚にも合っていると思います。潤沢なリソースがあるからといって攻撃性が無くなるかというと、そんなことは無いということは想像に難くないでしょう。嫉妬に狂ったお金持ちが他人に嫌がらせをするというケースは現実でも起こり得ますし、学校で行われている「いじめ」などもリソースの量とはもはや無関係といえます。これらのことから分かるように、十分なリソースは必ずしも闘争をこの世から消し去ることはできないと考えられるのです。

 

ここで素朴な疑問が浮上します。それは、そもそも論として「自己愛の役割がリソースに対する個体数の調整」であれば、リソースが十分な環境では自己愛は不要ではないか?という疑問です。これは僕個人の考えですが、その指摘は正しいと思います。もしかしたら、持続可能社会に到達してから非常に長い時間が経ったとき、そこで生まれる人たちには自己愛などないのかも知れません。

 

しかし、残念ながら(?)我々は自己愛を持っています。人類が長い間かけて獲得した感情であると考えると、仮に無くなるとしても、途方も無いほど長い時間がかかることは間違いないでしょう。少なくとも、現代を生きる我々は自己愛と付き合っていかなければならないのです。

 

だからこそ、我々は自己愛の取り扱い方を常に問い直さなければならないのだと思うのです。持続可能社会を目指して開発を進めるのと同時に、この自己愛をどのように満たし、肥大化を避けるかを考える必要があるでしょう。他の人を傷つけることなしに自己愛を満たす方法を考えていかなければ、本当の意味での持続可能社会は訪れないのでは無いかと思います。これが「持続可能社会を考える上では、自己愛のはけ口についての考慮も必要である」という言葉の意味です。

 

それが教育による解決になるのか、それともスポーツやゲームなどによる擬似的な闘争を用いるのか、それとももっと別な方法を取るべきかは現時点ではなんとも言えません。しかし、いずれにしても社会全体としての枠組みとして考える必要があるのではないかと思います。まあ、テクノロジーによって人間の脳からそもそも自己愛を無くすという手もあるにはありますが…それはまだまだフィクションの域を出ませんね(笑)

 

まとめ

今回は伊藤計劃さんの「The Indifference Engine」を読んで考えたことを書いてみました。これを読んで、ところどころピンときた方もいるかも知れませんが、ここに書かれている内容は「ハーモニー」や「虐殺器官」にも通じる議論であり、伊藤計劃さんが小説を通して問い続けてきたことは一貫しているなぁと改めて痛感します。これは、そのうちまたきっちりとまとめたいですね。 

それでは、また!