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【読書コラム】友だち幻想 - クオリアの檻と共感幻想

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は菅野仁さんという方の新書『友だち幻想 - 人と人の<つながり>を考える』(ちくまプリマー新書)。ややドライにも思えるタイトルですが、中身はいたって真面目で、深い優しさが込められた本だと思います。

 

この本に書かれている考え方は、僕が普段考えていることと非常に近く、思うところが多くありました。そこで、今回はこの「友だち幻想」についてのコラムを書いていきたいと思います。

 

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式
まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点
どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。
本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ
今回は小説では無いですし、あくまで一般的な論点なのでネタバレは特に気にしたなくていいと思います。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

冒頭にも書いた通り、この本に書かれている内容は僕の考え方に非常に近く、対人関係に悩むあらゆる人に読んでほしいと思える本です。自分が抱いていた考えを非常にクリアな形で言語化してくれた、という感じです。そういうこともあり、語りたい論点は色々とあるのですが、「共感」と「理解」という観点に絞って思索をすすめていきたいと思います。

 

今回の結論は「本当の意味での共感は不可能である」ということ、そしてそれを踏まえた上で「共感と理解の違いを理解し、共感を伴わない人間関係の構築が必要である」ということです。

 

それでは、詳しく見ていきましょう。

 

「友だち幻想」

この本のタイトルにもなっている「友だち幻想」。その意味は「あなたを100%受け入れてくれる人などいない」ということです。ややドライにも見える考え方ですが、友だちに対して「自分と同じ人」であることを求めるのではなく、「他者」としてうまくやっていくことを考えるべきという内容であり、決して読者を突き放すものではないということがわかります。

 

さらにそこから派生して、筆者は同質性を前提とする共同体の作法からの脱却を説いています。同じ考え方が凝縮した親しさという幻想から解放され、人と人との距離感を見つめ直し、気の合わない人とも一緒にいる作法を考えなければならない、というのが主旨となります。

 

余談にはなりますが、芥川賞をとった村田沙耶香さんの「コンビニ人間」はこの両者の間隙をついた妙作だと思うので、「コンビニ人間」が好きな人なら読んでいて納得できる新書だと思います。

 

今回のコラムでは、「共感」と「理解」という言葉を使って、僕なりにこの本の内容を再解釈していきます。

 

クオリアの檻と共感幻想

突然ですが、「クオリア」という言葉をご存知でしょうか?

 

クオリアとは主観的な「感じ」を表す概念です。この概念自体が主観なので非常に説明が難しいのですが、赤いものを見たときに「赤い」と見える感じや、針で体をさせれたときの「痛い」という感じのことを指す言葉です。

 

クオリアの説明として良く用いられる例が「赤」という色の感じ方についてです。「赤」という色は波長 620 ~ 750 nmくらいの光と定義できます(出典:wikipedia)。これは誰にとっても了解できることであり、非常に客観的な定義であると言えます。しかし、それが各個人にとって、どう感じられるかは別問題です。

 

この問題をわかりやすくするため、一つの仮定を設定してみましょう。あなたにとっての「赤」の感じ方が、私にとっての「緑」の感じ方であるというケースを考えてみます。この場合、私にとっての「赤」の感じ方と、あなたにとっての「赤」の感じ方は全く異なるわけですが、その主観的な体験の違いを知ることは絶対にできません。

 

なぜなら、たとえあなたが「赤」を私にとっての「緑」と同じように見えているとしても、あくまでもあなたにとっては「赤」であり、すべての会話は矛盾なく通じてしまうからです。ちょっと文章だけだとわかりにくいと思うので、納得できない方は下記の図も見ながら考えてみてください。

 

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このように、クオリアとは主観的であるがゆえ、他人との共有が絶対的に不可能であることが特徴です。このクオリアについてはまだわかっていないことが多く、クオリアの存在自体を否定する意見もあるのは事実です。しかし、重要なのは自分にとっての主観的体験と、他人のそれとの同一性を担保することは原理的に不可能だということです。つまり、私にとっての世界の見え方と、他人にとっての世界の見え方が同じである保証はどこにもないということです。

 

もちろん、これは感情にもあてはまります。例えば「悲しい」という感情は、一般的に「精神的に傷つく経験に伴って抱く、ネガティブな感情」と客観的に定義できます(詳細な定義をすることがこの話の目的ではないので、ツッコミどころ満載なのはご勘弁を…)。しかし、私の「赤」とあなたの「赤」が同一である保証がないのと同様に、私の「悲しい」とあなたの「悲しい」が同質である保証はどこにもありません。

 

ここから導かれる結論は、本当の意味での共感とは不可能であるということです。我々は絶対に他人と共有できない「クオリア」という檻に囚われているため、感情そのものを共有することは原理的にできません。僕が「クオリア」という概念を持ち出してまで説明したかったのは、この共感の不可能性です。これが冒頭で書いた「本当の意味での共感は不可能である」という言葉の意味となります。

 

それにも関わらず、我々は共感を求めてしまうものです。誰かに自分の気持ちをわかってほしいと渇望し、誰かに共感することで安心感を得ることができます。原理的に不可能である共感を求めてしまうという意味では「共感幻想」とも呼べるでしょう。

 

こおの共感幻想の本質は、他者の感情が自分の感情と同じであってほしてという欲求です。だからこそ、自分の意見に共感されないと絶望し、自分と同じ意見をみると安心するのです。これは自己と他者の同一化の追求に他なりません。

 

ここで、ようやく今回のテーマ本である「友だち幻想」との繋がりに至ります。筆者が主張する「友だち幻想」とは、「他者に、自分との同一化を求めるのは不可能である」ということでした。先ほどまでの議論と併せて考えると、「友だち幻想」とは「共感幻想」と等価であるのは明らかです。

 

共感と理解の狭間で

ここまでで議論してきたのは共感の不可能性についてです。完全なる共感が不可能であると考えると、共感による同一化を目指すのではなく、他者を他者として尊重した上で互いに理解しようとする姿勢が大事です。目指すところはは筆者がこの本の中で述べていることと一緒です。

 

ここで注意したいのが「共感」と「理解」の区別です。これは僕の推測ですが、日本人は伝統的に「共感」と「理解」の区別が希薄なのだと思います。本来は全然別の概念である「共感」と「理解」の両者を含有する「わかる」という言葉が存在することからも、両者の区別の希薄さがみて取れるのではないかと思うのです。

 

ちなみに英語では「共感」はSympathy、「理解」はUnderstandingと明確に別の言葉が割り当てられており、この二つの意味を併せ持つ言葉はないと思います。

 

共感とは、これまでみてきたように主観的であることが特徴です。他者と同じ感情になることを表す言葉であり、「あの映画のラストに感動した」という感想に対して「わかる」という場合、それは共感を意味する「わかる」です。最近の流行り言葉でいうと「わかりみ」もこちらの使い方なのでしょう。

 

逆に理解とは客観的な概念です。了解や承知と同じような意味を表す言葉で、文字通り合「理」的であると「解」釈することです。もっとわかりやすくいうと、事実を事実として受け止めるとも言えるかもしれません。「待ち合わせに5分遅れます」という連絡に対し「わかりました」という場合、その「わかる」は共感ではなく理解を表しています。

 

このように共感と理解は全く異なる意味をもった言葉であり、主観と客観という意味では正反対の概念といってもいいかもしれません。それにもかかわらず、「共感できる」と「理解できる」を同一視しがちなところがあるのではないか、というのが今回の主題です。共感できるものは理解できるし、共感できないものは理解できない、これが日本人のメンタリティの根底にあるのではないのでしょうか。

 

この錯誤によって生じるのは、共感できるものへの盲信と、共感できないものの排除です。つまり、共感できるものは合理的なので尊重されるべきだし、共感できないものは合理的ではないので破棄されるべきである、という結論になりがちであるということです。本来的には共感できるかどうかと、合理的であるかどうかは全く別の問題です。それにも関わらずこの二つを直結させてしまうことは大きな危険が伴います。

 

女性の苦難に「共感」できない男性と男性の苦難に「共感」できない女性が、互いに相手が間違っていると罵り合い、対立しあっているだけでは何も解決しません。お互いが「なぜ私の気持ちをわかってくれないのか(共感してくれないのか)?」と言い合っていても、これまでにみてきた通り、共感自体が不可能である以上、「共感してほしい」という期待自体がナンセンスなのです。これは「察してほしい」という願望についても同じ構造です。

 

このように、そもそも共感が不可能である以上、共感をベースにしたコミュニケーションは多くの場合うまくいかないのです。さらに互いの属性が異なれば異なるほどその傾向は強くなります(男と女のように、属性が異なるほど共感の不可能性の度合いが高いということです)。

 

共感せずとも理解はする

大事なのは共感はできないけど理解はできるという領域です。男性にとって働く女性の辛さは「共感」はできないけれど、辛いという感情があることは「理解」する。そして逆もまたしかり。そうやって互いに「共感」はできなくても「理解」はする、というスタンスで、納得できる落とし所を探る、これが理想的な人間関係のあり方ではないかと思うのです。

 

そのために重要なのは、自分の立場を論理的に説明する能力や、相手の言葉から相手の立場を理解するための理解力・読解力です。つまり、どうやっても共感できない相手に対して、なんとかして自分の思いを伝えよう、相手の気持ちを理解しようという強い意志なわけですが、この話をしだすとちょっと長くなりそうなので、今回は棚上げしておきます。 

 

これは特に多様性の時代と呼ばれる現代においては一層重要になります。多くの日本人にとって、特定の宗教で特定の食べ物を忌避する感情に「共感」することは難しいでしょう。しかし、彼らがそういう感情をもっていることを「理解」し、可能な範囲でその感情を尊重をすることが求められます。もちろん、これは宗教に限った話ではなく、主義主張やイデオロギー、趣味嗜好や各種マイノリティーの方への配慮にも通じる話です。

 

そう考えた時、現代を生きる我々は、共感と理解の違いを理解することが大事だと思うのです。これが冒頭に書いた「共感と理解の違いを理解し、共感を伴わない人間関係の構築が必要である」という言葉の意味するところです。

 

もちろん、僕は共感自体に安心の効果があるのは認めるところですし、共感という幻想を全否定する気はありません。しかしそれでも、その共感とはあくまで幻想であることを留意すべきだと思うのです。

 

夢の国たるディズニーランドを楽しむことは悪いことではないと思いますが、それを作られた幻想であることを理解した上で楽しむのが理想的なありかたなのだと思います。これはアーティストのライブやスポーツ観戦、仲間内で盛り上がることにも同様に当てはなることです。共感の幻想を過度に求めたり、その外側で同じコミュニケーションの仕方をしていては、相手も自分も傷つく結果となってしまうでしょう。

 

まとめ

 今回は管野仁さんの「友だち幻想」を読んで、「共感」と「理解」という観点から考えたことを書いてみました。これはある意味、SNSをはじめとしたインフルエンサー界隈で過度に「共感」を振りかざす潮流への反抗と言えるのかもしれません。本文でも書いた通り、その全てを否定するつもりはないですが、その限界と排他性を理解すべきだというのが僕の考えるところです。

 

いずれにしても、この本については語りたいことが山ほどあるので、また気が向いたらそのうちこの本でコラムを書くことになるのかもしれません。

それでは、また!