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【読書コラム】ペンギン・ハイウェイ - ジャバウォッグを越えてゆけ

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は森見登美彦さんの「ペンギン・ハイウェイ」。アニメ映画化したりとなにかと話題の小説です。

 

実はこの記事を書く前々日に読み終わったばかりではありますが、かなり考察しがいのある小説だと思ったので、早速このコラムを書くこととしました。基本スタンスはいつも通りですが、いつもよりは考察要素が強めだと思います。それゆえ、物語の核心部分に触れるようなことも書いていくので、未読の方はご注意ください。

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おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

今回はいつもと比べてもネタバレが多めです。考察としての側面が多く、未読の状態で読むと、やや先入観が生まれてしまうかと思いますので、気になる方は記事の閲覧を控えた方がいいかも知れません。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

この本を読んで私が感じたことは、「身の回りにある不思議に対する純粋な驚きを大切にし、探究心を持つことが重要である」ということ、そして「世界を知ること、世の理を知ることを恐れてはいけない」ということです。

 

冒頭に書いた通り、今回は考察的な要素が多めの記事となっております。あくまで僕個人の解釈であり、それが筆者の意図と合致しているかどうかはわかりませんし、他にも色々な解釈が可能であると思います。あくまで1つの意見として楽しんでいただけると嬉しいです。

 

それでは、 詳しく見ていきましょう。

 

<海>とお姉さんと

僕がこの本を読んで感じたことは、非常にシンボリックで記号的な小説であるということです。言い換えると、物語にでてくるそれぞれの存在が、ある概念の象徴として描かれており、それらを極めて緻密に計算しつくして配置した結果がこの小説なのだと言うことです。これだけだと抽象的すぎると思うので、それぞれの存在がどのような意味を持っているのを1つずつ見ていきたいと思います。

 

まずは物語全体の出来事の根源となっている<海>という存在について考えてみましょう。<海>については、物語の中でその意味するところがかなり明確に書かれています。すなわち「ぼくらの世界に存在してはいけないもの」「ぼくらの世界のやぶけたところ」「神様がつくるのに失敗したところ」です。これをもっと端的にまとめると「不思議なもの」「非合理的なもの」とも言えるでしょう。

 

<海>に投げ込まれた探査船は消えてしまったし、<海>に接触したスズキ君は時間を超越してしまいました。また、<海>の周辺を流れる川は、川上に上っても、川下に下っても同じ場所にたどり着くというおかしな構造をもっています。このように、<海>という存在は「不思議なもの」の象徴として描かれていると考えることができると思います。

 

そして、この物語にはもう一つ「不思議」を象徴する存在があります。それが、歯科医院のお姉さんです。空き缶をペンギンに変化させたり、ジャバウォッグを生み出したりと普通の人間にはない「不思議な」能力を持っていますし、最終的に自分自身が人間でないことも認めています。

 

このように考えると、この物語の中での役割として、「<海>」=「お姉さん」=「不思議なもの」という構造があることがわかります。この構図は、「<海>が拡大すると、お姉さんは元気になる」「<海>が縮小すると、お姉さんは具合が悪くなる」という関係を見ても納得いただけるのではないかと思います。

 

ペンギンと少年と

続いて物語のタイトルにもなっているペンギンについて考えてみましょう。ペンギンがこの物語で持っている重要な能力として、「<海>を消す」能力があげられます。この能力がどのようなメタファーを暗示しているのかを考えるには、やはり<海>が「不思議」の象徴であることを思い出す必要があります。<海> =「不思議なもの」という関係を思い出すと、ペンギンの能力は「不思議」を消すことであると言い換えることができます。

 

さて、「不思議」を消すものとは具体的に何を表しているのでしょうか?僕はこれは「好奇心」や「探究心」であり、また「研究」であると思います。

 

人類は身の回りの「不思議な」現象に「好奇心」を持ち、「研究」することで世界を理解してきました。「空はなぜ青いのか?」「太陽は、なぜ毎日東から上り、西に沈むのか?」。このような「不思議」に対して、研究によってその法則や原理を理解し、自然現象を予測可能なものにしてきました。

 

予測可能となるというのは、言い換えると「不思議」なことが「不思議」でなくなるということです。このように考えると、この物語の中で、ペンギンは「好奇心」や「研究すること」の象徴として描かれているのではないかと考えられます。

 

そして、ペンギン以外にも、この「好奇心」や「研究」を象徴する人物が物語に登場します。それはもちろん、主人公のアオヤマ少年です。小学生らしい旺盛な好奇心を持ち、小学生らしからぬ徹底した研究を行うアオヤマ少年は、まさに「好奇心」と「研究」の象徴と言えるでしょう。つまり、<海>とお姉さんの関係と同様に、「ペンギン」=「アオヤマ少年」=「好奇心・研究」として表現されていると言うことができるのではないかと思います。

 

やや突拍子の無い意見にみえるかもしれませんが、「ペンギン」が「<海>」を消したように、最後のシーンで「アオヤマ少年」が「お姉さん」を消した、と考えると、この構図はあながち的外れでも無いように思います。

 

お姉さんが少年の前で初めてペンギンを召喚した際、少年にこう問いました。『君にこの謎が解けるか?』と。この現象に対する僕なりの解釈は、「不思議な現象(お姉さん)は、人の好奇心や研究心(ペンギン)を想起させる」です。だからこそ、「お姉さんが元気な時」=「<海>が拡大している時」=「大きな不思議がある時」、お姉さんはペンギンを作りたくなるのではないでしょうか?

 

研究心を阻むもの

この物語の構造を理解するうえでの最後のピース、それが「ジャバウォッグ」です。何とも気持ちの悪い見た目で、ペンギンを飲み込んでしまうという邪悪な存在として描かれていますが、このジャバウォッグという存在は、この物語を考えるうえで不可欠な存在です。

 

それでは、これまでと同様にジャバウォッグという存在の位置付けについて考えてみましょう。ジャバウォッグの最も特徴的な性質はペンギンを食べてしまうことでしょう。この物語の中で、ペンギンに愛着・思い入れを抱いていた方が多いと思うので、ここでちょっとショックを受けた方もいるかもしれません(そして僕はその1人です(笑))。まあ、それは置いておいて、ペンギンが「好奇心」「研究」の象徴だとすると、それを食べてしまうジャバウォッグは「研究を阻害するもの」という役割を持っていることがわかります。

 

この「研究を阻害するもの」の正体のヒントは、物語のあるシーンにあります。それは、森が封鎖されたことを知ったアオヤマ少年が<海>の研究を諦めるシーンです。最終的にはハマモトさんに諭されて研究にもどるわけですが、なぜアオヤマ少年はあれだけ没頭していた研究をストップすると言ったのでしょうか?

 

それは、この問題が解決したら、「お姉さんを失う」ということに薄々気づいていたからではないかと思います。この時点では全てを理解していたわけではなかったですが、<海>の謎を解き明かして、<海>が消えた時、お姉さんも同時に消えてしまうという予感があったのかもしれません。

 

もちろん、その感情の背後にあるのはお姉さんへの恋心なのでしょうが、先ほどのアナロジーで考えると「お姉さんを失うことに対する恐れ」とは「不思議を失うことに対する恐れ」であると言い換えることができます。この「不思議を失うことに対する恐れ」こそが「研究を阻害するもの」であり、ジャバウォッグだというのが僕の解釈です。

 

不思議を解き明かそうとしながら、不思議を失うことを恐れるというのは、少し違和感を感じるかもしれません。でも、僕にはその感覚は何となく理解できます。例えば、人の感情の仕組みが完全に明らかになり、自分や他人がどのような感情を抱くかが完全に予想できるようになったとしたら、それを知りたいと思うでしょうか?もっと言うと、自分の人生が完全に予想できるようなったとして、これから何が起きるかを知りながら人生を楽しむことは出来るのでしょうか?このような心理的抵抗こそが「不思議を失うことに対する恐れ」なのではないかと思います。

 

父親がフランスに飛び立つ前、こんなことを言っています。『世界には解決しないほうがいい問題もある』そして『もし息子が取り組んでいるのがそういう問題であったら、息子はたいへん傷つくことになる』。おそらくこの時点で、父親はお姉さんが人間でないことをすでに気づいていたのでしょう。このセリフも「不思議を失うことに対する恐れ」を表したセリフであるようにも思います。

 

ペンギン・ハイウェイの物語構造

だいぶ長くなってしまったので、一度ここまでの議論をまとめます。

 

<海> = お姉さん = 不思議なもの

ペンギン = アオヤマ少年 = 研究、好奇心

ジャバウォッグ= 不思議を失うことに対する恐れ

 

このようにまとめると、物語の構造が非常にシンプルに見えてきます。つまり、「不思議に対する好奇心・探究心」と「不思議を失うことへの恐れ」の間のジレンマです。不思議が大きくなると探究心を掻き立てられるが、いざ謎が解き明かされそうになると、不思議を失うことに対する恐れによって歯止めがかかる、と言い換えてもいいでしょう。

 

このジレンマこそがお姉さんの体調の不安定性であり、この物語の核心となる問いではないかと思うのです。『ぼくらの重要な発見は調査隊に渡すべきだとぼくは思う。でもぼくらの研究の中心にはお姉さんがいる。お姉さんのことを研究者の人たちに言うことはできない。ぼくはジレンマという状態にあるんだ』というセリフがありますが、このセリフは「真実を明らかにしたいけど、不思議を失うのはいやだ」というこの物語の構図を端的に表したセリフであると言えるのかもしれません。

 

少年の結論と真実を知ることの痛み

このジレンマに挟まれた少年が最終的に出した結論は皆さんご存知の通りです。すなわち、お姉さんを失うという代償を払ってでも、不思議を解き明かすことを選択しました。 どこまでも「科学の子」であることを選んだと言ってもいいかもしれません。

 

このように、痛みを伴ってしまう場合であっても、真実を追求しなければならないというのがこの物語のメッセージであり、それは父親の『それでも、みんな世界の果てを見なくてはならない』という言葉にこめられているような気がしました。

 

あまり実感を持って考えるのは難しいかもしれませんが、僕はこの物語を読んで、いくつかの歴史上の科学的パラダイムシフトを思い出しました。

 

コペルニクスが提唱した地動説は、人類の立つ地球が世界の中心ではないことを証明してしまいました。また、ダーウィンの進化論は、人類は神によって特別に作られたわけではなく、猿から進化したことを明らかにしました。現代を生きる僕たちにとっては当たり前の真実が、当時の人にとっていかに受け入れ難いものであったかは、真実を明らかにした彼らがどのような扱いを受けたかを見れば明らかです。それだけ、真実は時に痛みを伴うものなのだと言うことです。

 

例えば、人間機械説なども同じような話ではないかと思います。それが真実かどうかは現時点ではわかりませんが、仮に、人間の行動や意思決定が物理法則に従った単なる自然現象の連なりだと言うことが証明された場合、それに心理的抵抗を感じる人はとても多いと思います。

 

その証明の論理を直視せず、感情論で否定する人もたくさん出るでしょう。それでも、我々は真実を探究するべきである、と言うのがこの物語を読んで僕が感じたことであり、これこそが冒頭に書いた「世界を知ること、世の理を知ることを恐れない」という言葉の意味です。(ちなみに、人間機械説については下記の「ハーモニー」のコラムでも考察しています)

 

【読書コラム】ハーモニー - 意思と現象のディスハーモニクス - たった一つの冴えた生き様

 

余談

ここからは余談です。最後のシーンでアオヤマ少年が語る信念がちょっと気になったので、それについても考察してみました。つまり・・・

 

『世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである。その道をたどっていけば、もう一度お姉さんに会うことができるとぼくは信じるものだ。』

 

という文章です。

 

今回の記事で書いた構図を元に、「ペンギン・ハイウェイ」= 「探究心・好奇心」として読み替えて解釈してみました(かなり拡大解釈であるという自覚はあります)。

 

「世界の真実を見つけるために必要なのは探究心・好奇心である。飽くなき探究の果てに、それでも残る不思議こそが、お姉さんへの思いである」

 

すなわち、人間の感情というものはどこまで探究を続けても明らかにできない何かがあるという、ある意味人間機械説の否定とも言えるような信念なのかな?という気がしました。まあ、後半はかなり苦しい解釈ですし、あくまで僕が何となくそう感じたという程度の考察とかんがえていただければと思います。

 

まとめ

今回は森見登美彦さんの「ペンギン・ハイウェイ」を読んで感じたことを書いてみました。今回は考察的な内容が多く、正直自分でもちょっと拡大解釈をしすぎいているのではないかとも思いますが、あくまで解釈のひとつとして考えていただければ幸いです。

それでは、また!