たった一つの冴えた生き様

The Only Neat Way to Live - Book reading, Fitness

【読書コラム】ハーモニー - 意思と現象のディスハーモニクス

こんにちは!

今回も読書コラムを書いていきたいと思います。テーマ本は、私が最も好きな小説と自信を持って言える、伊藤計劃さんの「ハーモニー」。以前記事にも書いたとおり、11月に参加した読書会の課題本にもなった本です。

 

初めて読んだときからこの小説の結末部分については、自分でもなかなかハッキリした解釈ができないでいました。読書会の場で色々な意見交換をしたことが刺激になったおかげか、色々考えた末、このモヤモヤ感の正体がだいぶはっきりと言語化できました。今回はそれを書いていきたいと思います。

 

f:id:KinjiKamizaki:20181208032120j:plain

 

 

おことわり

本文に入る前に、何点かおことわりしておきたい点がありますので、ご承知の上お読みいただければと思います。

 

1. 読書コラムという形式

まずは本記事のスタンスについてです。本記事では、私がテーマ本を読んだことをきっかけに感じたことや考えたことを書いていくものとなっており、その意味で「読書コラム」という名称を使っています。

 

書評を意図したものではないので、本の中から筆者の主張を汲み取ったり、書かれた時代背景や文学的な考察をもとに読み解こうとするものではないので、そういうものを求めている方には適していないと思います。あくまでも「現在の私が」どう考えたかについての文章です。人によっては拡大解釈しすぎではないかとも思うかも知れませんが、その辺りは意見の違いということでご勘弁いただきたいところです。

 

 2. 記事の焦点

どうしても文章量の都合とわかりやすさの観点から、テーマ本に描かれている色々な要素のうち、かなり絞った内容についての記事となっています。

 

本当は色々と書きたいのですが、どうしても文章としてのまとまりを考えるとそぎ落とさざるを得ない部分がでてしまうのが実情です。

 

3. ネタバレ

これは仕方ないことですが、既読であるか、少なくとも全体のストーリーラインを知っているかでないと読んでも良くわからないと思います。作品内のネタバレも特に気にせず書くつもりなので、ネタバレを避けたい方は、まずはご自身で本書を読まれるといいかと思います。この本については特にご自身で読んで欲しいと思います!

 

だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、ここから本文に入っていきたいと思います。

 

総括

私がこの本の結末を始めて読んだとき、その世界が理想的なものなのか?それとも、とても虚しいものなのか?その判断が全くできないでいました。人々が悩みもなく、あるがままに生きる世界はユートピアのようだと思う一方、自分の意識がない世界というものはあまりにも味気ないものではないか?と感じる自分もいました。読書会でお話した方々の意見を聞く限り、これは割と皆さん同じような感覚を持ったのではないかと思います。

 

そして、何度かこの作品を読んでいくにつれて、ハーモニープログラムが起動された、意識のなくなった世界というものを、だんだんと肯定的に捉えるようになっている自分に気づきました。ただ、この時点ではなぜそう思うのか?もハッキリしなければ、そもそもなぜこのようなモヤモヤ感を抱いてしまうのか?がしっかりと理解できていたわけではありません。

 

しかし、読書会での意見交換含め、色々な思考の結果、このモヤモヤ感の正体と、なぜ私がハーモニープログラム以降の世界を割と前向きに捉えているのか?を説明できる一つの考えがまとまりました。

 

それを端的にまとめると、このモヤモヤ感は「自分が自由意思を持って行動をしている」という直感と、「自然界は物理法則で動いている」という事実から導かれる帰結の間の不調和から生じている、というのが私の考えです。

 

そして、私がハーモニープログラム起動後の世界を比較的肯定的に見ている理由は、私はこの二つのうち「人間の自由意志」よりも「物理法則」を信頼しているからであると思いました。

 

これだけだと抽象的過ぎて良くわからないと思いますので、 本の内容も含めて詳しく見ていきたいと思います。

 

自由意志に基づく、マクロ的な世界認識

まず、素朴な質問ですが、皆さんは日々の自分の行動はどのように決まっていると考えているでしょうか?

 

殆どの人は、自分がどうしたいか?や自分はどうあるべきか?を考え、日々意思決定をしながら行動していると考えていると思います。つまり、自分の頭でどのように体を動かすのかを考え、その考えに基づいて体を動かしている、というのが我々の直感的な意思決定の理解だと思います。これについては、(少なくとも直感としては)多くの人が共有している考え方ではないかと思います。

 

後の話をわかりやすくするために、この考えを「マクロ的な(巨視的な)世界認識」と呼ぶことにします。これは、心理学のような学問分野が対象としている範囲と考えるとしっくり来ると思います。心理学は、主観的・客観的な感情と行動の関係を探る学問なので、人がどのように考え、どのように行動するか?を研究の対象とします(かなり大雑把なので、正確でなかったらごめんなさいm(__)m)。

 

物理法則に基づく、ミクロ的な世界認識

一方で、「ある程度の高さからボールを落とす」という現象を考えてみましょう。この現象に対し、手から離れたボールが、自ら意思を持って、「落ちるのか?」「そのままその位置にとどまるか?」それとも「空に飛んでいくのか?」を悩んだ挙句、落ちることを選択している、という話をしたらどう思うでしょうか?

 

「そんなことを言うのは馬鹿げている」と考える人が殆どでしょう。なぜなら、我々は物体が重力の影響で下に落ちるということを知っているからです。また、単純にボールが下に落ちるという事実だけではなく、ある時間でのボールの位置や速度についても計算することが可能です。これは、現代の最新技術やスーパーコンピューターを持ち出すまでもなく、高校レベルの簡単な方程式を解くだけで、ある時間にどこにボールがあるのかをかなり正確に知ることができますし、地面に落ちるまでの時間だって計算することができます。

 

そんな当たり前の話をして何が言いたいかというと、物体の運動というのは物理法則によって「選択の余地なく」決定するということです(*1)。これはボールが落ちるという単純な現象だけでなく、もっと複雑な物理現象でも同じことです。コンピュータは回路の中で「考えて」演算しているわけではないですし、水に電気を流したら酸素と水素に分解されるのは、水が「悩んだ」結果生じているわけでは有りません。

 

この考えについても、あまり異論はなく、当たり前のこととして多くの人が共有している考え方ではないかと思います。先ほどの「マクロ的な世界認識」という呼び方に対して、この「あらゆる現象は物理法則によって選択の余地なく決定する」という考え方を、「ミクロ的な(微視的な)世界認識」と呼ぶことにしましょう。こちらは、純粋な物理学が対象としている範囲と考えるとわかりやすいと思います。

 

不協和音

ここまでの話は比較的すんなりと納得いただけるのではないかと思いますが、問題はここからです。それでは、「ミクロ的な世界認識」に基づいて人間の意思決定というものを考えてみましょう。

 

言うまでもなく、人間というのは驚異的なほど複雑な有機化合物の集合体であり、その中で行われている現象も途方もなく複雑なものです。はっきり言って、現代の人類の知見では、人間の体の中で何が行われているか?は、わかっていることの方がはるかに少ないというのが実態だと思います。

 

しかし、人体も自然界の一部である以上、体の中で行われている現象もやはり物理法則に従っているはずです。例えば、食べ物を消化する現象は食べ物と消化酵素と消化液の化学反応として記述できますし、筋肉を動かす反応は軽金属イオンの移動やシナプスの電位の変化を伴う電気力学の現象として捉えることができるし、血液の流れは流体力学の問題として考えることができます。

 

もちろんこれらの例えはあまりに単純化しており、実際は様々な現象が絡み合って起こっているのだと思いますが、本質的に物理法則によって支配されるという事はゆるぎないように思えます。つまり、人体で起こっている反応は、ボールが落ちる現状と同様に、物理法則に従って結果が「選択の余地なく」決定すると考えられます。

 

ここで矛盾が発生するわけです。

「マクロ的な世界認識」は、自由意志というものが有り、人間の行動はこの自由意志によって選択される、というものでした。しかし、「ミクロ的な世界認識」から考えると、人間の行動は「選択の余地なく」物理法則によって決定するため、自由意志の介在する余地がないことになってしまいます。逆に言えば、もし自由意志というものが人間に存在するのであれば、「ミクロ的な世界認識」の前提を壊す何か、つまり物理現象を捻じ曲げる何かが必要になってしまいます。

f:id:KinjiKamizaki:20181208033909p:plain

 

これはあまりにも大きな問題です。自分が直感的に当たり前だと信じていた認識と、当たり前に信じていた自然科学の知識の間に生じるジレンマであり、どちらも揺ぎ無いことだと思っていただけに、そのどちらかを破棄するということはなかなか難しいことです。ごちゃごちゃと理屈っぽく書きましたが、要するに、この矛盾こそが私がこの小説の結末に感じていたモヤモヤ感の正体なのだと思いました。

 

たった一つの冴えたやり方?

ようやく小説の話に戻ってきましたが、「ハーモニー」ではこの矛盾を解消するたった一つの冴えたやり方を提示します。つまり、人間の自由意志というものは、進化の過程で獲得した「双曲割引」に基づく短期的報酬系と合理的な長期的報酬系のサバイバルゲームであるというものです。

 

これは、上記の議論で言うと、このサバイバルゲームが「ミクロ的な世界認識」と「マクロ的な世界認識」との架け橋の役目を果たすと言えると思います。つまり、行動自体は物理法則によって「選択の余地なく」決定するが、人間はその過程で発生するサバイバルゲームを「自由意志」であるかのごとく認識する、というわけです。これならば、「マクロ的な世界認識」で前提としている自由意志(のようなもの)の存在を肯定しつつ、「ミクロ的な世界認識」における物理法則を捻じ曲げる必要もないので、上記の矛盾が解消できるように見えます。

 

f:id:KinjiKamizaki:20181208035209p:plain

私は心理学や認知学の本は好きで良く読むものの、専門家というわけではないので、「ハーモニー」で提示される意思決定というものがどこまで正しいのかは判断できません。「双曲割引」の存在や意思決定が様々な欲求の合議性であるという話は聞いたことがありますが、それが意思決定の全ての要素であるかどうかはわかりません。あくまでもフィクションはフィクションでしかないので、それが現実問題として真であるかどうかはとりあえず棚上げしておきます。あくまでも、そのように仮定した場合、どのような推論が得られるか?という点に集中したいと思います。

 

自由意志という幻想

勘の良い方は気付かれたかもしれませんが、上記の議論は殆ど詭弁に近く、本来の意味での矛盾を解消できてはいません。というより、「マクロ的な世界認識」と「ミクロ的な世界認識」は相反するものなので、本質的に矛盾を完全に排除することはできず、やはりどちらかの認識は破棄される必要があります。

 

これも鋭い方にとっては自明なことかもしれませんが、破棄されているのは「マクロ的な世界認識」のほうです。つまり、「ハーモニー」で提示される仮定を真とするならば、「自由意志によって行動が決まる」という認識は間違っているということです。物理現象によって行動が決まるという部分は揺ぎ無く、その過程で生じるプロセスを「自由意志」と認識するだけであり、その自由意思によって行動が決まるわけではない、というとわかりやすいでしょうか?

 

f:id:KinjiKamizaki:20181208035539p:plain

それを裏付けるように、「ハーモニー」では「双曲割引」は狩猟時代に獲得した人類の生き残り戦略として生み出されたものであり、それに基づく自由意思というのは進化の継ぎ接ぎでしかない物として描かれています。意識という機能が必要な環境が過ぎ去っていたら、それを消し去ってしまうことに何の躊躇があるのか?とも。

 

いずれにせよ、この立場に立ったとき、我々が「自由意志」と信じているものは、本来の意味での自由意志(行動を判断する機能)ではなく、単なる幻想でしかないという衝撃的な結論になります。だからこそ、最後のシーンで、自由意志の根源である「双曲割引」の概念を失った人類は意識が不要となり、人間から意識が無くなったというわけです。

 

自由意志への信念

ここまで論じたことからわかるとおり、「ハーモニー」では、我々が自由意志と信じているものは幻想でしか無いということを示唆しています。もちろん、これはあくまでも「自由意志の根源は、短期的欲求と長期的欲求のサバイバルゲーム自体であり、行動の判断を下すものではない」という仮定を真とした場合の推論に過ぎません。よって、これが必ずしも普遍的な真理であるということはできないと思います。例えば、逆に、人間に物理法則を捻じ曲げる何かがあるとするならば、それもまた「マクロ的な世界認識」と「ミクロ的な世界認識」の間の矛盾を解決する一つの解決策になります。

 

そう考えると、ハーモニープログラム以降の世界に対する感じ方は、「人間の自由意志の存在に対する信念」と「物理法則に対する信念」のバランスによって決まるのではないかと考えられるのです。つまり、「人間には自由意志というものが絶対的に存在する」という人にとっては意識の無くなった世界というのは受け入れ難いと感じ、「そもそも人間の自由意志は幻想に過ぎず、人間は物理法則に従って行動しているだけだ」と考える人にとっては、余計な意識というものがなくなった分、理想的な世界に映るということです。

 

翻って私の話をすると、私自身は人間にそこまでの神秘性や霊性というものを見出しておらず、基本的に物理法則にしたがって活動しているだけなのではないかと考えています。言い換えれば、自然界の一部でしかない人間が自然界の法則を捻じ曲げるような何かを持っているとはとても思えないというのが私の考えです。それが、ハーモニクス以降の世界に対する比較的肯定的な印象の理由なのかなという気がしました。

 

とはいえ、人間として生きている以上、自由意志が全く無いから何をしてもしょうがないというほど簡単に割り切れるものではないのも確かです。私が、しきりに「比較的」肯定的と書いているのも、完全に肯定できるほど自由意志を打ち捨てることができないということに基づいています。

 

おそらく誰もが、自由意志への信念と物理法則への信念の両方を持っていて、どちらも大切にしているのだと思います。だからこそ、(そこまで意識しているかどうかはともかくとして)最終シーンに対してハッキリした立場を表明できないのではないかと思うのです。

 

こうやって、考えたり、文章を書いたりするのもまた、自然現象の一環なのかな?とか考え出すと本気できりがなくなってくるので、今回はこの辺で筆を置きたいと思います(もちろん使っているのはキーボードですが(笑))。

 

(*1)理系の知識がある方は気付いたと思いますが、この文章は正確ではありません。現在一般的に正しいとされている量子力学の考え方からすると、不確定性原理がというものがあり、全ての現象が決定論的に決まるという考えは正しくありません。

 

それでも今回この量子論について扱わなかったのは、人間の人体の内部の反応はミクロな領域であるとはいえ、量子力学的な効果が発揮されるほど小さくは無いのではないかという感覚と、量子論的な揺らぎに意思決定のメカニズムの根拠を求めると、結局量子状態を人間が決めることができる必要があり、それはそれで人間の神秘性を肯定する結果になると考えたからです(ただ、私自身の量子論の知識が十分とはいえないので、この前提は完全に間違っているかもしれません)。

 

ついでに余談の余談ですが、グレッグ・イーガンというSF作家の「宇宙消失」という小説では、人間の脳が物質の量子状態を選択する能力を持つというアイデアが使われています。意思決定とは直接は関係ない話ではありますが、もしかしたら意思決定の介在する余地を、量子力学的揺らぎという決定論の隙に見出したというところから構想したのかもしれませんね。

 

まとめ

今回は伊藤計劃さんの「ハーモニー」を読んで感じたことを書いてみました。凄く好きな作品であることもあって、いつも以上に長くなってしまいましたが、この小説に対して抱いていたモヤモヤ感は、こうして言語化することでだいぶすっきりした気がします。書いてみて、こうやって色々思索を広げることができることも、この小説の良さの一つだと感じます。

 

もちろん、今回書いたことが絶対的に正しいとは思いませんし、思い違いや知識不足により重大な欠陥がある可能性も全然あると思っています。それに、また読む時期が変われば感じ方も変わるかもしれません。いずれにしても、この本は今後も何度も読むんじゃないかな?という気もするので、そのときそのときの感情を大事にしたいなと思います。

 

それでは、また!